忍法変わり身の術

 2台目のタクシーの後部座席には、誰かが置いていった紙袋がちょこんと放置されていた。恐らくは誘拐犯が言っていた『連絡手段』が入っているのだろうと思い中を覗くと案の定、無線機が中に無造作に放り込まれていた。

 無線機のインカムを耳に嵌めて、本体の電源を入れる。するとすぐに通信が聞こえて来た。


『あーあー、聞こえるかね? オーバー』


「……聞こえてる。どうぞ」


『よろしい』


 スマホよりノイズが多くて耳障りだが、何を言ってるのかはしっかりと聞き取れる。1台目のタクシーに置いてきた俺のスマホは、きっとGPSを追っているだろうトレちゃんか蘭月が回収してくれることだろう。だがそれは俺の仲間を更にキューブから遠ざけるためのただの撒き餌だ。


 どんどんと俺は孤立させられて、助けの入らない場所に連れていかれている。

 こうなったらもう、俺に出来ることはほとんどない。キューブが誘拐犯らに奪われる前に、トレちゃん達が助けに来てくれるよう祈るだけだ。


『もう少ししたら、また別のタクシーに乗り換えるんだ』


「なんでこんなに頻繁にタクシーを乗り継がなきゃならないんだ? というか、俺は逃げないし、言う通りにするからさっさと一鶴を解放してくれ」


『キューブと交換だと言ってるだろう? 人質は。さあ、乗り換えだ……安心し給え。人質にはすぐに会える』


 誘拐犯の言っていたことは事実だった。

 3代目のタクシーには、運転手以外にも既に2人も先客が乗っていた。


「代表さん!!」


「一鶴……!」


 1人は、後部座席に手錠で繋がれている一鶴。

 そして助手席に座るもう1人は、


「やぁ、ようやく会えたね。代表くん」


 見たこともない金髪ボブカットの女だった。

 顔は見たことがなかったが、その声には聞き覚えがある。

 電話越しに、もしくは無線機越しに、俺にずっと指示を出していた誘拐犯の声だった。


「どうしたんだい? そんなところで棒立ちしてないで、さっさと乗り給え。周囲に不自然に見られる」


 俺は少し迷ってからタクシーに乗り込む。

 一鶴は手錠でタクシーに繋がれているから、強引に連れ出すのは多分無理だ。そうなったら大人しく乗るしかない。抵抗すればどうなるかは目に見えていた。


 ドアが閉まり、3台目のタクシーが発進する。

 俺はバックミラーで怯えるタクシー運転手の顔を見ながら、誘拐犯の女に声を掛けることにした。


「あんたが、マリーネ・テンパードなのか?」


「うん? ……それはbdが調べてくれたのかな? それともどこかの誰かが余計なことを喋ってくれたのか」


「事務所を襲撃してきたヤツが言ってた。誘拐犯はロールシャッハとかいうテロリスト集団だろうって」


「ふむ、こういう時狭い界隈に身を置いていることを歯痒く思うよ。何をしていても同業者には案外筒抜けになっていたりするからね。特に今のようなご時世では」


 知らねえよ。


「なんでこんなことをする?」


「なんでこんなことをする? ハハハ、馬鹿みたいな質問だ。こちらの要求はただひとつ、君の持ってるキューブだよ」


「なにキューブって? 身代金じゃないの!?」


「ちょっと一鶴は黙っててくれ」


「はいはい、あたしはいつでも邪魔者ですよ」


 なんか意外と元気だなコイツ。

 さっき電話越しに聞こえた悲鳴はなんだったんだ。


「キューブはちゃんと持ってきているね? 一応見せてくれないかな?」


 マリーネに言われるがまま、俺はキューブをジャケットの内側から取り出した。


「これが……」


「なにこれ?」


 黒い立方体を前に、マリーネは瞳を子供のように輝かせる。

 一方の一鶴はゴミを見るみたいに眉と口を曲げていた。


「それをこちらに渡し給え」


 マリーネが後部座席に手を伸ばしてくる。

 そんなに簡単に渡せるはずがない。当然俺は渋った。


「先に一鶴を解放しろ。というか俺も無事に帰してくれると約束しろ」


「いいだろうほら」


 言って、マリーネは座席の上に鍵を放ってきた。

 手錠の鍵だ。


「さっさと外してやるといい。そしたらキューブをこちらに。言っておくが、キューブをこちらに渡すまでこのタクシーはどこまでも走り続けるから注意したまえ。まあ、燃料が尽きる前に、私の仲間のところに到着してしまうだろうが、それはそれで君たちは困るんじゃないのかな?」


「――くそっ」


 とにかく俺は一鶴の手錠を外してやった。


「助かったー、サンキュー代表さん」


「ああ……」


 いまいち緊張感に欠ける一鶴はさておき、俺は他に脱出の道がないかを探る。

 今はちょうど赤信号で車が停まっている。逃げようと思えば逃げられるのかもしれないが……。


「理性的に判断し給えよ、代表くん。取引を反故にして逃げるのは自由だが、そうなったら私は腹いせにこの運転手くんを殺してしまうかもしれない」


 そう脅されてしまっては逃げるに逃げられない。人死には勘弁だ。涙目になってバックミラー越しに懇願してくる運転手のオジさんを見捨てられるほど、俺はヒトの心を捨てた覚えはない。

 だからもう、ここは一度キューブを手放す。それしか道は残されていないように思えた。


 大丈夫。テロリストの目的は、キューブを使って悪事を働くこと。つまりキューブをコイツらに渡したとしても、bdの安全は半ば保障されているようなもの。


 だからここは一旦キューブをテロリストに預け、後で悪用される前にトレちゃんたちに取り返してもらう。それがベストのはず。


「分かった……渡す。だから全員無事に解放しろよ」


「約束は守るよ。さあ」


 俺は躊躇いながらも、マリーネにキューブを手渡そうとして、


「その必要はないでござる」


 横合いから伸びてきた手に、いきなりキューブを掻っ攫われた。


「は?」


「え?」


「なに?」


 俺も一鶴も、誘拐犯であるマリーネも、車内にいた人間はひとりを除いて全員が頭上に疑問符を浮かべていた。

 驚いていないのはただひとり、キューブを奪った、運転席に座る謎の女だけ。


 つい数秒前まで、運転席にはタクシーの運転手が座っていたはず。なのに気付けばオジサンが、ポニーテールの女にすり替わっていた。


「忍法、変わり身の術にござる」


 口元を黒いマスクで隠した女が、まるで手品の種明かしでもするかのように戯けて見せる。


「これは某が預からせて頂く」


 そしてマリーネに見せびらかすように、手元のキューブを指先でクルクルと器用に回した。

 そんな謎のポニテ女に、マローネが間髪入れずに銃を向けようとするが、


「当タクシーでは暴力行為は御法度にござる」


 ござる口調の変な女が、マリーネが引き金を引くよりも早く、マリーネの腹を蹴り飛ばした。この狭い車内の中で。


「礼節のなってない乗客は強制下車にござるよ」


 ござる女がキューブを持っていない方の手で、何かを手繰り寄せるような動作をした。ガチャっと音がして、助手席のドアが開く。

 蹴飛ばされたマリーネが、勢いのままタクシーの外に放り出される。慌てて立ち上がるマリーネだったが、もう手遅れだ。


「出発にござる」


 青信号になると同時に、アクセル全開でタクシーが発進した。敵だけを置き去りにして。

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