幽名姫衣はまつろわない
ドムガルの案件を終えた直後のFMK事務所。
その事務所の、実質幽名の自室と言っても過言じゃない仮眠室で、俺はベッドの上のお姫様が眠っている様子を眺めてた。
この場に居るのは俺だけじゃない。
七椿と一鶴、それとトレちゃんも居る。
配信が終わった後、トレちゃんが気を失ったままの幽名を仮眠室まで運ぶと言い出し、その他の面々はそれに同伴してきたという流れだ。
「スグに目を覚マシますカラ、シンパイはいらないデス」
そう言って幽名をベッドに寝かせたトレちゃんを信じて、俺達はとりあえず幽名が目覚めるのを待っている。
会話はない。さっきの配信で起きた一連の出来事に、全員が苦々しい想いを感じているせいだろう。
途中までは悪くない配信だった、途中までは。
なのにナキアンチという存在そのものが邪悪みたいな輩にチャットを荒らされて、たったそれだけの綻びから最悪の案件配信となってしまった。
俺もそこそこ色んなVTuberの案件配信を見て来たが、その中でもトップレベルに酷かったように思う。厳しい評価になるが酷いとしか言えなかった。終わってからもずっと嫌な気持ちが燻り続けるレベルで。
側で見ていただけの俺がコレなのだから、演者の3人はもっと辛い思いをしているはずだ。
折角の初めての案件だったのに、しこりの残る結果に終わってしまってモヤモヤしないはずがない。
それに誹謗中傷のターゲットにされていた瑠璃のことも心配だ。
一鶴や幽名やトレちゃんはなんだかんだ言って配信を荒らされこそしたが、リスナーから直接的なパッシングを受けたワケじゃない。
ナキアンチが振るった言葉の刃は、全て瑠璃に向けて振るわれていた。
幽名がどれほど心を尽くして瑠璃を守ろうとしても、実体のない暴力は容易に対象を傷付ける。
瑠璃の弱さを知っているからこそ、俺は妹が心配で気が気じゃなかった。
眠っている幽名を前にして、俺は瑠璃の心配ばかりしていた。
「……んっ」
と、あどけない声を漏らして、幽名が薄目を開けるのが分かった。
そのまま幽名はゆっくりと上体を起こす。
「ここは……」
まだ思考が覚束ないのか、ただ寝惚けているだけなのか、幽名は周囲を見渡しながらしばしぼんやりとしていた。
そんな幽名に七椿が近付いて、至近距離から顔を覗き込む。
「大丈夫ですか、幽名さん。自分が誰だか分かりますか?」
七椿の質問に、幽名はこくりと頷いた。
「わたくしは幽名姫衣ですわ」
「これ、指は何本に見えますか?」
「3本ですわ……あの、これはどういう」
七椿は幽名からの質問には答えず、ぺたぺたと身体を触診して更に何個か質問を繰り返した。
その上で、七椿は俺に報告をしてくる。
「問題はなさそうです」
「そうか」
俺は瑠璃へのメッセージが既読になってることを確認しながら頷いた。
既読にはなってるが、ずっと返事が来ないままだ。
大丈夫だろうか、瑠璃のヤツ。
「わたくし、どうして仮眠室に……そうですわ、確か案件配信の途中だったはず……あぁっ!」
そこでようやく気絶する前に自分が何をしていたのか思い出したらしく、幽名は弾かれたようにベッドから立ち上がった。
「配信は!? どうなりましたの!?」
「終わったよ」
俺は一先ずスマホから幽名に視線を移す。
幽名はらしくもなく、酷く狼狽した表情をしていた。
「終わった……? どうしてですの」
「あの状況だと、さっさと配信を終わらせるのがベストだと思ったからだ。カンペも出してた。見てなかったのか?」
「でも、わたくしはまだ言いたい事が……! 言うべきことがありましたのに!」
知っている。
幽名が友達のために、俺の妹のために頑張ろうとしていたことは分かってる。
だがそれでも、世の中には頑張ったところでどうにもならない問題というものが存在しているのだ。
あんな風に明確な悪意を持って配信を荒らしてきた相手には、きっともう何を言っても無駄だろう。
ネットに慣れた人間ならそれくらい簡単に判断出来たはずだ。
あんなのに絡まれたら、耳を塞いで泣き寝入りするか、もしくは後々法的手段に訴えるくらいしかない。それはスーパーAIにハッキングでもお願いするかだ。
少なくとも言葉でどうこう出来る相手ではなかった。
それが全てだ。
「言うだけ無駄だよ、姫様。あの手の荒らしにはどんな言葉も通じない」
「わたくしは……そうは思いませんわ」
幽名は納得しないまま仮眠室の出口に向かって歩き出す。
何処かへと去ろうとする幽名の腕を、黙って様子を見ていた一鶴が引きとめた。
「ちょい待ち姫ちゃん、どこ行くのよ」
「スタジオに」
「スタジオって、どうするつもり?」
「配信します。そしてナキ様に酷いことを言っていた方達が来るのを待って、来たら言うべきことを言います」
「いやそれは……どうなの?」
一鶴は聞くだけ聞いておいて、俺の方へとパスを放って来た。
無論、そんな配信を許可できるはずがない。
「ダメだ」
「代表様の許しなど必要ありません、わたくしの道は何者にも阻めない」
幽名が一鶴を振りほどきながら俺に背を向ける。
「姫様、頼むから聞き分けてくれ」
「イヤですわ」
「……そう言うのは分かってた。トレちゃん、姫様を捕まえてくれ」
「了解デス」
「気絶させたりは無しだぞ、捕まえとくだけでいい」
「ハイ」
あまりこういう役割をトレちゃんにさせたくないのが本音だが、この場においてもっとも制圧力があるトレちゃんに任せておけば万が一は起こり得ない。
蘭月が居れば蘭月に任せたのだが、アイツは今日は生憎と別の仕事があるとかで休んでいるから仕方ない。
「ヒメ様、ちょーっとオトナシクしてて貰うデス」
言って、トレちゃんがあっさりと幽名の背後を取った。
その直後、
「2度も不覚は取りませんわ」
「!?」
背後を取ったトレちゃんが気が付いたらすっ転んでいた。
あのトレちゃんがだ。
「これでも多少の護身術は心得ておりますので」
幽名がトレちゃんの方を見もせずに言う。
今のは幽名がやった……のか? 傍から見てるとトレちゃんが勝手に1人で転んだようにしか見えなかったが。というか人類最強のトレちゃんに尻もちを付かせた技が多少の護身術? パワーバランスがぶっ壊れてるだろ、どこのインフレしたバトル漫画だよ。ああ、いや、違う、そんなことはどうでもいい。それより幽名を止めないと。
だがどうする?
トレちゃんでも転ばせることが出来るのなら、俺なんて羽虫を払うより簡単に倒されてしまうだろう。一鶴や七椿も同様だ。
「面白いワザデスネ、もう一回見せてホシイデス」
悩んでる間にトレちゃんが再度幽名を止めに入っていた。
心なしか、トレちゃんは怒っているようにも見える。
これじゃまるで喧嘩の現場だ。
FMKのライバー同士で、あろうことか暴力沙汰が起きてしまっている。
あんなに仲が良かったはずのライバー同士が、だ。
マズイ、マズイマズイ、何をやってるんだ俺は。
「わたくしの邪魔をするのならば、何度でも転ばせて差し上げますわ」
「やってミロ、デス」
幽名とトレちゃんがぶつかり合う――その瞬間。
バン! と仮眠室の扉が勢いよく開け放たれた。
「下に誰も居ないから探しに来てみたら、こんなとこで全員揃って何やってんの」
「――瑠、璃」
「うん」
ある意味渦中の存在である瑠璃の登場に、流石の幽名とトレちゃんも動きを止めざるを得ないのだった。
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