だからトレちゃんはトレちゃんだって言ってんだろ。

「昨日、あれからずっと考えてたけど、俺にはトレちゃんの悩みは理解出来そうにない」


 上っ面だけ理解者のフリをするのは簡単だ。

 でもそんな嘘を吐いたところで何の意味もない。

 意味がないどころか逆効果だ。

 だから俺は正直に告白する。

 苦悩の共有者にはなり得ないと。


「自分が何者かだなんてあまり深く考えたことはないし、俺は今の俺がなんなのか誰よりもしっかりと自覚してる」


 俺は何者なのか。

 そんなのは改めて考えるまでもない。


「俺はFMKの代表だ。そんでもって、FMKに所属するVTuberたちに振り回されながらも、そんな日常が愛おしくてたまらないっていうバカみたいな男だよ」


 言葉にすると気恥ずかしいが、言葉にしないと伝わらないことだってある。

 だから俺は思ってること全部を包み隠さず吐露することに決めた。


「一鶴はギャンブルジャンキーのしょうもないヤツだけど、俺はアイツのダメなとこも含めてFMKになくてはならない存在だと思ってる。まあ、金にルーズなのはどうかと思うけど、浪費家じゃない一鶴なんて一鶴じゃないだろ?」


「……」


「幽名は初めて会った時から随分と成長した。ちょっと保護者目線になっちゃうけど、これからも近くで幽名の成長を見守っていきたいと思ってる」


「……」


「奥入瀬さんは素晴らしい才能を持ってて、叶えたい夢だって持ってる。俺にないもの全部持ってる凄い人だ。自分のやりたいことを明確に言語化出来てて、それに向かって邁進出来るってのは凄い事だよ……心からそう思う」


「……」


「瑠璃は……そうだな……俺はアイツに感謝してる。瑠璃がいなかったら、きっとこの日常は存在し得なかっただろうから」


 誰が欠けてても今のFMKは成立していない。

 そこには勿論、トレちゃんも含まれている。


「で、トレちゃんだ」


「……」


「トレちゃんはいつも笑顔で元気で愛嬌があって、俺の心のオアシスみたいな存在と言っても過言じゃない」


「……嘘デス」


「嘘じゃない。俺は毎日トレちゃんから元気を分けて貰ってるし、会うたびに心の中でかわいいって呟いてるくらいにはかわいいと思ってる。なんでずっとメイド服なの? しかも金髪で、しかもサブカル好きの留学生で、八重歯も標準装備で、カタコトって……パーフェクトか? そこまで萌え(死語)を詰め込んだらそりゃ可愛くもなりますよって話だ」


「……出鱈目デス」


「出鱈目じゃない。俺が知ってるトレちゃんはそういう人間だよ。トレちゃんは俺がイメージする外国人のお手本かってくらい日本のサブカルが好きで、特に音楽関連がめちゃくちゃ好きだってことも知ってるぞ。いつも歌枠では楽しく歌ってるし、俺も視聴者もトレちゃんが楽しそうに歌ってるのを見てるだけで幸せな気持ちになってる」


「……違いマス」


「違わない。何も違わないし、間違ってもいない。俺が見て来たトレちゃんも、トレちゃんに対して抱いてきた感情も、全部が全部本物だ。それは、そこだけは誰にも否定させない。例えトレちゃん本人であっても、絶対に」


 自分が誰なのか、自分が何者なのか、自分っていったいなんなのか。

 そんなことも分からないって言うのなら、俺は俺の知ってるトレちゃんという人間を嫌というくらい教えてやるだけだ。


「トレちゃんは、トレちゃんだよ」


 しつこいくらいに繰り返す。

 言葉を尽くして、心を尽くす。

 10億なんて金があろうとも、人と人との問題は、結局のところ話し合うことでしか解決しない。

 話し合った末に金が必要になることもあるかもしれないが、今回だけは俺の10億の出番はない。

 この想いを伝えるために最も大切なものは、金じゃなくて熱いハートだ。


「トレちゃんはFMKのVTuberで、スターライト☆ステープルちゃんの魂だ。知ってるか? VTuberの魂ってのは替えが利かないんだぜ? Vの中身を変えるとファンは激怒するからな。過去にそれで炎上した企業はいざ知れず……つまり、☆ちゃんの中の人は、もうトレちゃん以外には有り得ないってことなんだよ。トレちゃんじゃなきゃダメなんだ。トレちゃんだから推せるんだ」


 もう自分でも何を言ってるのか分からなくなってきたけど、考える前に勝手に口が動く。

 心が先行する。


「スターライト☆ステープルちゃんの中の人っていう他の誰も持ってない絶対的なアイデンティティがあるクセに、自分が何者なのかも分からないって、そりゃ贅沢が過ぎると思うぜトレちゃん。俺も一鶴も幽名も奥入瀬さんも瑠璃も七椿も蘭月も、他の誰だって☆ちゃんにはなれないんだぜ。そんなの☆ちゃんのリスナーが絶対に許さないだろうからな」


「もう止めてくだサイ……」


「止めないね、止めてたまるか。☆ちゃんのチャンネル登録者数って今6.6万人も居るんだぞ? 東京ドーム1個分以上だぞ? それだけ多くのリスナーが☆ちゃんを……トレちゃんを好いて認めてくれてるってことなんだぞ? トレちゃんが何者かだなんて、そんなの周りはとっくにみんな知ってる。画面越しに見てるリスナーだって知ってるだろうさ。トレちゃんは――」


「だから止めろって言ってるだろ!!!」


 トレちゃんが、吠えた。


「知らない! 分からない! 嘘だ出鱈目だ違う違う違う! お前の言ってるトレちゃんなんて何処にも存在しない偽物の紛い物の幻だ!」


 カタコトの留学生という仮面をかなぐり捨て、何者なのか分からなくなった女の子が叫ぶ。


「いないんだよ、どこにも! トレちゃんなんて女は! メリーアン・トレイン・ト・トレインなんて女は! そんなのは全部ワタシが――ボクが――俺が――作った嘘の存在だ!」


 血反吐を吐きそうになるくらい喉を傷めつけながら、ひとりぼっちの少女が懺悔するかの如く慟哭する。


「トレインが愛想の良い笑顔を振りまくのは、そうした方が社会に溶け込みやすいからだ! カタコトなのは日本人ウケが良いから! メイド服だってこれが日本の正装だと勘違いしてる馬鹿な外国人を装えるから! 全部ただのキャラ付けなんだよ! 俺が――あたしが――ワタシが作った架空の人間、架空の設定、フィクションの存在なんだよ!」


 誰にも言えずに抱えていた悩みを、膿を出すかのように吐き出していく。

 今この少女は何を思いながら、どんな心情で全てを吐露しているのか。


 きっと、これで全部おしまいだと思っているのかもしれない。

 もうここにはいられないと、そう勘違いしているのかもしれない。

 ここまでやけっぱちで全てをぶちまければ、まあそういう考えになるのも無理はない。

 追い詰められた人間が思っていることを後先考えずに吐き出す時は、得てして現状がぶっ壊れてしまってもどうでも良いという投げやりな思考が根底にあるものなのだから。


 でも、だけど、俺はそんな終わり方は認めない。


「それがどうした」


「は?」


「それがどうしたって言ったんだよ」


 俺のあんまりな物言いに、トレちゃん・・・・・が口を半開きにさせて唖然とした。


「だからトレちゃんはトレちゃんだって言ってんだろ。いい加減なことを言うなよ、バカ」


「バっ……バカ!?」


 まさかこの流れで子供の喧嘩の常套句みたいのが飛び出てくると思ってもみなかったのだろう。

 意表を突かれたトレちゃんが、怒りと哀しみと驚きの入り混じった感情ない交ぜの顔をする。

 俺が言ったのは9割ただの暴言みたいなものだ。

 そりゃそんな顔にもなる。

 でも俺の口は止まらない。


「バカにバカつっただけだろ、なにそんなバカみたいに驚いてるんだ?」


「バカバカって――」


「だってバカじゃねえか。トレちゃんが架空の存在だのなんだのって……トレちゃんは非実在青少年なんかじゃねえんだよ。ここに居る一人の人間なんだけど? あんまり適当なこと言うなよ」


「この……! バカはそっちだろ!」


 トレちゃんがベッドから降りて、今にも俺に掴みかかってきそうな勢いで喰ってかかってきた。

 釣られるように俺も立ち上がる。反動で椅子が倒れたが知ったこっちゃない。


「俺がバカ? お前みたいにワケの分かんねえことばかり言ってるバカよりはマシだと思うが?」


「言わせておけば、いい加減だの、適当だの、ワケ分かんねえだの……! 本人が自分はトレちゃんじゃない、そんな女は存在しないって言ってるんだから諦めて受け入れろよ! 現実見ろよ!」


「お前の方こそ現実から目を背けてんじゃねえよ。お前がトレちゃんじゃなかったらなんなんだよ。じゃあ試しに今事務所にいる他のやつらに聞いてみるか? 多分全員がトレちゃんはお前で、お前がトレちゃんだって口を揃えて言うと思うぞ?」


「そんなのズルだろ!」


「負け惜しみ乙。……まあ、でも気持ちは分かるよ。俺にもそういう時期はあったからさ。自分は他の奴らとは違う特別な存在だって思いたくなることはあるよな。右腕に封印された力が宿ってたり、前世の記憶があったり……うん……自分の名前も経歴も全部嘘で正体は別に、みたいのも結構設定としてはポピュラーだよな」


「中二病じゃない! 生暖かい目を止めろ!」


 結構ちゃんとツッコんでくれるなぁ。

 ちょっと楽しくなってきちゃったけど、イジるのに夢中になって本来の目的を忘れてはならない。

 俺の目的は最初からただひとつ。

 自分が何者なのか分かってないバカに、俺が知ってる本当の自分トレちゃんってやつを押し付けてやるだけだ。


「じゃあ聞くけどさ、お前は自分がトレちゃんじゃないって言い張ってるけど、否定するからには自分が本当は何者なのか分かってるってことなんだよな?」


「それは――」


 トレちゃんが口ごもる。

 言い返せるはずもない。

 それが分からないから、トレちゃんはこんなにも苦しんでいるのだから。

 トレちゃんよ、よもや卑怯とは言うまいな?


「反論がないなら俺の勝ちってことになるけど?」


「勝ち負けの話じゃない……」


「勝ち負けの話にした方が分かりやすいだろ、俺が勝ったらお前はトレちゃんってことでさ」


「なんだよそれ……じゃあボクが――あたしが勝ったらどうなるんだよ」


「トレちゃんじゃないってことになるんじゃねえの? お望み通りにさ」


「……バカげてる」


 トレちゃんは疲れたように息を吐いた。

 バカげてるってのは同意見だ。

 我ながらよくもまあここまで適当なことを並べられたものだとは思う。

 カッとなって言ってしまった部分もあるが、反省も後悔もしていない。


「自分が本当は何者なのかとかさ、何のために生まれて何をして喜ぶのとかさ、哲学的な話すぎて俺にはちょっと理解が及ばない。でもさ、こんな問題答えなんてどこにもないんじゃないかって俺は思う」


「答えが、ない?」


「ああ」


 俺が頷くと、トレちゃんは途端に絶望を突き付けられたように顔を青くした。


「答えがない――どこにも――じゃああたしは――僕は――俺は――なんのために――」


「えい」


「いたっ!?」


 なんか変なスイッチが入りかけてたトレちゃんの額にチョップを打ち込んでやった。

 人と話してる時に勝手に自分だけの世界に入り込まないでもらいたいものだ。

 それに人の話を最後までちゃんと聞かないのも減点対象である。


「深みに嵌ったら気絶するほど悩ましいクソ問題なわけだけど、しかし矛盾することに大半の人間はこの問題に対する答えを持っているとも俺は思ってる」


「嘘――」


「嘘じゃない。現に俺はもう既に答えを口にしている」


 一度言った文言をもう一度繰り返す。


「俺はFMKの代表だ。そんでもって、FMKに所属するVTuberたちに振り回されながらも、そんな日常が愛おしくてたまらないっていうバカみたいな男だよ」


 会話が振り出しに戻る。

 結論へと帰結する。

 自分が何者なのかという問いに対する答えは、一番最初にしっかりと提示していた。

 答えのないはずの問題の答えを俺は持っている。

 だから苦悩の共有者にはなり得ないとしっかりと告白していた。

 そして俺は、トレちゃんにも答えを用意してきてやっていた。


「答えがない。なら作ればいい。俺は誰がなんと言おうとFMKの代表だ。俺がそう在りたいと願うからそうなんだよ。もしかしたら今俺が見てるものは全部夢か幻かもしれない。頬を抓ったらベッド上で目が覚めて、また暗い顔をしながらブラック企業に出勤する現実に戻るのかもしれない。或いはFMKは現実に疲れた俺の妄想か? だとしても構わない、知ったこっちゃない」


 吐き出しながらも、俺は自分の中である一つの想いが形になりつつあることを実感する。

 まだしっかりとした輪郭を持たないその感情は、きっと多分、俺がずっと欲してやまなかったもの。

 答えがないなら作ればいい。

 全く持ってその通りだ大バカ野郎。


「自分が何者かだなんて、そんなもんは自分で決めて良いんだよ」


「自分、で……」


「俺はFMKの代表だ。で、お前は誰なんだよ、何者なんだよ、何になりたかったんだよ……!」


 喉元に熱い何かがせりあがって来る感触がある。


「トレちゃんが作り物でまやかしの存在だったなんて、なんでそんなひでぇ事を言えるんだよ!」


 声が掠れる。

 視界が、滲む。


「どうしてFMKのオーディションを受けたんだよ! なんでVTuberになろうと思ったんだよ! 全部嘘だったってなんだよ! あんなに毎日楽しそうに笑ってたのも全部嘘だって言うのかよ!? 仲間たちに抱いてるお前の感情も全部偽物なのかよ!?」


「う、うるさい! 黙って聞いてれば勝手なことばかり! 俺が――私があいつらのことどう思ってるかなんて知らないクセに!」


「知らねえよ! お前の頭の中なんて! んなもんお前にしか分からねえだろうが! だから口に出して教えろよ! 一鶴や幽名や瑠璃や奥入瀬さんのことをどう思ってるのか! 一緒に居て楽しくなかったのかよ! あいつらと一緒に居る時の笑顔もやっぱり全部愛想笑いで、本当はみんなのことも裏では嫌ってたのかよ!? どうなんだよ!」


「そんなの――」


 そこでトレちゃんは何かを堪えるように下唇を強く噛み、しかし次の瞬間には耐えきれずに涙腺を決壊させた。


「そんなの――大好きに決まってるだろ!」


 トレちゃんは膝から崩れ落ちて、両手で顔を覆いながら肩を小刻みに震わせる。


「みんなが好きだ……イヅルもヒメ様もルリもカナも……嘘ばかりのワタシだけど、この気持ちだけは嘘じゃない……」


「知ってる」


「お前の頭の中なんて知らないって言った……」


 やべっ、言ったわ。


「それは言葉の綾だ。頭の中は確かに知らんが、トレちゃんがどれだけみんなを好いてるかなんて今更聞くまでもないだろ、的な?」


 我ながら詭弁だが、むしろここまで俺は詭弁しか弄してないのだから逆に問題はない。

 それよりも、だ。

 ようやくトレちゃんの心からの本音を一つ引き出せた。


「みんなのことが大好きっていう、確固たる自分を持ってるじゃねえか。それがお前なんじゃねえのかよ」


「……代表さんのことはちょっと嫌いになった」


「その感情も大事にした方がいいと思うぞ。怒りも哀しみの喜びも、今抱いてる感情は全部自分だけのものだから」


 人間は他者とのコミュニケーションを通じて様々な感情を手にしていく。

 多分、そうやって人は自我を形成していくのではないだろうか。

 トレちゃんが自分を見つけるための一助になれたのであれば、多少嫌われるくらいのダメージは本望だ。

 俺が傷つくくらいは安いものなのだから。


「それで改めてしつこいくらいに何回も聞くけどさ、FMKの仲間たちが大好きなお前は一体誰なんだ? 何になりたいんだ? これからどうしたいんだ?」


「そんなの、自分で決めていいものなの……?」


「自分で決めてもって……俺がお前はトレちゃんだって決めつけても散々反発したくせに何言ってんの? かまってちゃんムーブも大概にしとけよ」


「弱ってる相手に言う言葉じゃない」


「優しく慰めて欲しかったのか? ごめん気付かなかった、次からはそうする」


「ムカつく……」


「はいはい。面倒臭い女だって思われたくなかったら、さっさと決めてくれよ。どうすんの?」


「どうすんのって……ワタシがなりたいものになるってことは、みんなに嘘を吐くことになるし……」


「細かく考えすぎだろ。VTuberやってる時点で本来存在しない存在をこの世に解き放ってるんだし、今更そんなの誰も気にしないって。っていうか黙ってりゃ誰も分かんないと思うぞ。あのトレちゃんがこんな面倒臭い感じだって誰が信じるかよ」


「面倒臭いって女の子に面と向かって言うな!」


「あーはいはい、で、どうしたいんだ?」


「――」


 トレちゃんは、たっぷり数分ほど迷ってるフリをしてから、ようやく自分が何者なのかを俺に教えてくれた。


 ■


「みなサン! ご心配おかけしまシタ! トレちゃん完全復活デース!」


 夏合宿4日目の配信終了後。

 配信が終わるのをスタジオの外で待っていたトレちゃんは、一鶴たちが中から出てくるなり全力で頭を下げて謝罪した。


「やっとお目覚め? 2日も連続で配信サボっちゃってこいつめー」


「ゴメンナさいデス……」


「たまにはそういうこともあると思いますわ。気に病む必要はないかと」


 目覚めたトレちゃんにみんなが温かい言葉を投げかけていく。

 狸寝入りしていたことをわざわざ言及する人間もいない。

 トレちゃんなら直ぐに立ち直るだろうとみんな信じていたのだろう。

 そんなみんなの様子をちょっと離れた所で見守る俺は、後方腕組みおじさん的な心持ちだ。




 トレちゃんは、結局トレちゃんであることを選んだ。

 俺が余計な口出しをしなくても最終的にはそうなっていたと信じているが、その場合トレちゃんの心の中のモヤモヤは発散されずに燻り続けていただろう。

 だから蘭月からトレちゃんの出自を聞かされていた俺が、トレちゃんの感情の受け皿となっておく必要があったんですね(メガトン構文)。

 なんにせよ、トレちゃんは自分が何者であるのかという問題の答えに、確実に手を伸ばした。

 そんな手応えが確かにあった。


「あの……トレちゃんさん!」


 そして、トレちゃんが目を覚ましたら話をしたいと言っていた奥入瀬さんが、ありったけの勇気を振り絞って声を上げた。

 今更気付いたけど、奥入瀬さんもいつの間にかライバー名じゃなくて本名でみんなのことを呼ぶようになってたんだな。


「カ、カナ、その、おとといはゴメンなさいデシタ」


 吹っ切れたとはいえ、流石のトレちゃんも奥入瀬さん相手にはまだやりづらい気持ちが強いのだろう。

 目の前で泣いたり倒れたりしたのだから申し訳なく感じて当たり前だ。

 だが、奥入瀬さんはそんなことはもう気にしていないと首を振った。


「いいんです。それよりも私……私の話をトレちゃんに聞いて欲しいんです」


「カナの?」


「はい……出来ればトレちゃんさんだけじゃなくて、他のみなさんにも」


 言って、奥入瀬さんはポツポツと語り始めた。


「私……ちょっとトラウマみたいなものがあって……人前で演奏しようとすると頭がわーってなちゃって……手は震えるし、息をするのも辛くなったりしてまともに演奏出来ないんです……」


「そういえばそんなこと言ってたわね」


 以前、FMKに来たばかりの琴里と親睦を深めようと、小槌が無理やり雑談コラボを敢行した時に言っていたはず。俺も仕事をしながらその配信を見ていたから知っている。

 奥入瀬さんは「はい」と頷きながらも、一鶴を一瞬だけ細目で睥睨した。


「それで……私誰かに見られてる前で演奏しようとすると絶対にパニックになっちゃうし……だからトレちゃんさんがああいう風になったのも、何かトラウマがあったのかなって……」


「それは――」


 トレちゃんは困ったように俺を見る。

 そこで俺を見られてもこっちも困る。

 奥入瀬さんの推測は当たらずとも遠からず。

 トレちゃんのソレは、トラウマとはちょっと気質が違っているように思う。

 そしてやはり人に話して簡単に理解を得られる類の悩みでもない。

 理解を求めるには、トレちゃんの出自はあまりにも特異過ぎるからだ。


 だけど悩みを理解して共有することだけが、苦しんでいる人間を救うたった一つの手段なのかと問われたら、俺はそれは違うと声を大にして否定したい。


「トレちゃんが何に悩んでいるのか私には分かりません。だからと言って、無理して話そうとしなくても大丈夫です……だって人に言い辛い悩みだってあるだろうし、必ずしも力になれるとは限らないから……」


 でも、と奥入瀬さんが奥入瀬さんなりの答えを口にする。


「傍で支え合うことは出来ると思います」


「支え合ウ……」


「そうです」


 奥入瀬さんは『人』という字を宙に描く。


「昔のドラマで言ってました、人という字は支え合って出来ているって」


「ニホンのドラマは専門外でしたケド……良い言葉デスネ」


 金八先生は偉大だ。


「1人で悩んで苦しんで、倒れそうになるくらい辛いことがあっても、近くに支えてくれる誰かがいればきっとどんな困難にも立ち向かって行ける。私はそう思うんです」


 奥入瀬さんも、少し前に立ち直れないのではないかというほどの辛い境遇に立たされていた。

 だけど楼龍や幽名が居てくれたお陰で、また笛鐘琴里として立ち上がることが出来たのだ。

 挫けそうになった時に支えてあげるだけで良い。

 それだけで救われる。それだけでまた明日に向かって歩き出すことが出来る。


「だから、私はトレちゃんさんと支え合っていきたい……お互いに抱えている悩みは違うかもしれないけど、一緒にこの困難に立ち向かっていきたい」


「カナ……」


「私、トレちゃんさんのオリジナル曲のお披露目は、ライブ配信でやりたいと思ってるんです。トレちゃんさんに生の歌声を披露してもらって……そして曲は私の生演奏で」


 思ってもみなかった奥入瀬さんの提案に、トレちゃん含む全員が驚いた。

 奥入瀬さんは、まるで一鶴みたいに不敵に笑う。


「曲を完成させましょう、最高の一曲を。世界一のトレンドを勝ち取りましょう」


 引っ込み思案な奥入瀬さんとは思えないほど大きく出た発言。

 でもそれを笑う輩はここにはいない。

 想いは一つ。

 FMKは今ここに、本当の意味で一致団結した。

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