1000万は軽くない
さて、皆様は1000万円という金額がどれほど大きい額であるかをご存じだろうか。
日本の平均年収は大体440万前後。
かと言って2年とちょっと働けば1000万溜められるのかと言うとそういうわけではない。
頭の痛くなる現実として、やれ税金だの何だの、食費だの光熱費だのエトセトラエトセトラ……。
そういった諸々の出費を全て払い終え、最終的に一体いくら手元に残るのか。
仮に1ヶ月に1万円ずつしか貯金出来なかったとしたら、1000万貯めるのに1000ヶ月……83年も掛かってしまう。
まあ月2万円の貯金なら半分の時間で済むし、月の積み立て額を増やせば増やすほど必然的にゴールは近くなる。
なんにせよ、真面目にコツコツ切り詰めて切り詰めて、誠実さと勤勉さと節制の上に貯蓄していって、ようやく手に出来るのが1000万という金額なのである。
利根川だってそう言ってただろ。
で、だ。
庶民的な感覚から見て、どう考えても大金である1000万。
その1000万の重みを知っていれば、例え相手が10億近い資産を持っていたとしても、おいそれと1000万貸してくれなどとは口が裂けても言えないだろう。少なくとも精神的に小市民である俺には言えないね。
そんな言葉を軽い気持ちで口にするヤツがいたら、俺はその場でそいつにドロップキックをかましてやるところだ。
しかし、にも関わらず、俺は1000万をキャッシュで持って、密林配信プロダクションの社長室を訪れていたのであった。
「カモがネギしょってやってきたのよ」
いかにも大事なものが入っていますという色合いをしたジュラルミンケースを、後生大事に抱えて入室してきた俺を見て、お人形さんのような可愛らしい服を着た小生意気そうなガキが嘲笑してきた。
ああ、こいつが噂の密林配信のお子様社長か。パっと見は中学生かそこらのガキんちょにしか見えない。
だがこんな成りをしていても、この業界では俺より数年先輩であり、経営する会社の規模も数段上だ。
相当なやり手なのは間違いない。
心してかからねばならないな。
「代表様」
俺を呼びだした張本人である幽名が、近付いてきて申し訳なさそうに頭を下げた。
「突然のお呼び立てに応じて頂きありがとうございます。それで、その……」
「ああ、1000万なら持ってきてる」
俺がケースを指でコンコンと叩くと、幽名はパァっと顔を明るくさせた。
「それでは貸して頂けるのですね」
「いや……」
「いや?」
「とりあえず、一旦話をさせてくれ」
言って、俺は幽名を下がらせた。
この場に居るのは俺と幽名、有栖原アリス、一鶴と蘭月、楼龍、そして奥入瀬さん。
……それから俺の後ろから無言で部屋に入ってきた七椿。
この8人だ。
俺は一先ず部屋の主である有栖原に挨拶しとくことにした。
「初めまして、私はFMK代表の――」
「興味ないのよ、お前の名前にも肩書にも。アリスが興味あるのは、お前の金だけなのよ」
名刺を出そうと内ポケットに手を入れた俺を、有栖原がクソムカつく発言と共に制してきた。
わぁ、このガキマジ生意気ー。
まあ、挨拶がいらないってのならしないまでだ。
無駄な工程はオミットする。
実に合理的だ。
「……じゃあ一応謝罪だけ。うちの馬鹿どもがご迷惑をお掛けしたみたいで申し訳ございませんでした」
「全くなのよ。タレントの教育がなってないんじゃないのかしら」
それを言ったら最初にアポ無し突撃してきたのは密林の楼龍の方だ。
おたくこそ教育がなってないんじゃないんすかねぇええ?
などと論破してやりたいのは山々だが、今日はクソガキと口喧嘩するためにここに来たわけじゃない。
有栖原の怒りの矛先が楼龍に向かうのも可哀想だしな。
とりあえず笑って流しておくか。
「ははは、仰る通りで」
「……それで?」
有栖原は言葉短く、俺に行間を読むよう強要してくる。
まあ、とやかく言われずとも為すべきことは分かっている。
状況は全て幽名から電話で聞いた。
だから俺はその場で安易に返事をせず、この騒動の中心にいる人物と話をするべく有栖原に背を向けた。
「奥入瀬さん」
「は、はい……」
近付いて、奥入瀬さんと正面から向かい合う。
奥入瀬さんは視線を合わせづらそうに顔を背けた。
しばらく連絡が取れなかったことへの罪悪感か、それともこんなことに巻き込んでしまったことへの申し訳なさか。
どっちでもいいが奥入瀬さんは色々と気に病みすぎだと思う。
もう少し、うちの面子ほどじゃなくとも図々しさを身に付けたほうがいいだろう。
じゃないとこれから先、もっと苦労することになる。
「まず最初に言っておくけど、俺は1000万なんて大金を人に貸すつもりはない」
「……そう、ですよね」
俺の宣告に、奥入瀬さんは特に驚きもせず、かといって落胆する様子もなく、予期していたかのようにただ事実を淡々と受け入れた。
「代表様……!」
「なに冷たい事言ってんの? この人でなしー」
「ちょっと黙っててくれ、特に一鶴は」
「ソウネ、静かにシテるアル」
「ぎゃー!」
ここぞとばかりに煽ってきた一鶴が蘭月に黙らされたのを見届けてから、俺は再度奥入瀬さんに向き合う。
「仕方ないことだと思います……私に、笛鐘琴里に、1000万なんて価値はもともとないんですから……」
奥入瀬さんは今度は俺の目を見ながら、
「姫衣ちゃんに説得された時に、やっぱりまだVTuberを諦めたくないって思ったけど……私の我が儘でみんなにこれ以上の迷惑はかけられない……楼龍さんにも、代表さんにも」
「琴里……私、琴里のためなら社長と刺し違えてでも……」
「楼龍さんは熱くなるとああなるから、なおさら……」
「ああ、うん」
楼龍は目がマジだ。
放っておけば何をするか分かったもんじゃない。
その献身が、かえって奥入瀬さんを苦しめている。
自分のことよりも他人を優先してしまう人間にありがちな苦悩。
そいつが常に奥入瀬さんの判断を鈍らせ続けているのだろう。
だから直ぐに決意がぶれるし、自分のことを諦められてしまう。
だけど俺は思うのだ。
友達を思いやって自分のことを蔑ろにすることが、果たして本当に友達のためになっているのかと。
自己犠牲の精神は賞賛に値するが、奥入瀬さんの夢を応援している人間の気持ちはどうなる?
そりゃあ奥入瀬さんがVTuberをきっぱり諦めてしまえば、この騒動はそこまでだろう。
しかし笛鐘琴里の復帰を願っている楼龍は間違いなく悲しむ。
幽名も悲しむだろうし、それから――もっと多くの人間もだ。
多分、奥入瀬さんは自分がどれくらい沢山の人間に求められているか分かっていない。
分かってないから、諦めることが出来る。
奥入瀬さんはもっと知るべきなのだ。
他人のことを。
それから、自分がどれだけ凄い人間なのかってことも。
だから俺は決断した。
「1000万円は大金だよ。だから安易に人に貸したりなんか出来ないし、頭がまともなら競馬に全額ぶっぱしたりもしない」
「はい……だから、」
「だから、俺はこの1000万を貸すんじゃなくて、投資しようと思う」
「え?」
呆気にとられる奥入瀬さんを他所に、俺は有栖原のデスクにケースの中身をぶちまけた。
100万円の束が全部で10。
合計ぴったり1000万円がデスクの上に積み重なった。
俺は軽くなったジュラルミンケースを床に投げる。
重い荷物がなくなってせいせいした。
このパフォーマンスがやりたくて、わざわざ現金で1000万用意したのだ。
気分が良いね。
「これで笛鐘琴里の権利を丸ごとFMKに売ってくれ」
「お前、本当にそれで良いのよ?」
堂々と言ってやった俺に、有栖原が確認を入れてくる。
野暮なことを聞かないで欲しい。
男に二言はないのだから。
「問題ない。FMK運営は協議の上、笛鐘琴里の
これで、
「これで今日から笛鐘琴里は、FMKの一員だ」
「私が……FMKに!?」
俺の宣言に誰よりも驚きを示したのは、奥入瀬さん本人だった。
「あ、そういう話になるんだ」
次いで一鶴も意外そうな声を上げた。
俺としてはそこまでおかしなことを言ったつもりはない。
「言っただろ、投資だって。奥入瀬さんが俺から借りた金で自分で権利を買うんじゃなく、俺が笛鐘琴里を買ったんだ。FMKに迎え入れるために」
「なんか奴隷を買うweb小説の主人公みたいね」
「なんで印象悪くなりそうな例えを出すんだ」
とはいえ一鶴の例えもあながち間違いとも言い切れない。
俺がこういう行動を取ってしまえば、その時点で奥入瀬さんの選択の自由を奪ったようなものだ。
奥入瀬さんの意志を尊重するなら、権利を彼女に渡した上で今後どうするのかを自分で決めさせるべきなのだろうから。
だが、何度も言うようでくどいが、1000万は大金だ。
そんな額を貸しても返って来る見込みは薄いし、返せなかったら奥入瀬さんも一生気に病んでしまうだろう。
だったら最初から返さなくていい金として処理するまでだ。
ただし、こちらとしても1000万をただで渡すというわけにはいかない。
むしろその方が奥入瀬さんに余計な気遣いをさせてしまうはず。
一鶴並みの図々しさがあれば、何も気にせずに金を受け取って無邪気に喜ぶんだろうが。
だからこその投資であり、だからこそのFMKへの移籍なのだ。
「FMKはちょうど音楽関係に強い人間を探してたところだからな。この話は渡りに舟でもあるんだ」
「次に仲間にするなら音楽家って言ってたものね」
言ったけど。
まさかこんな形で過去の発言を回収することになるとは俺も思わなかった。
ワンピース感覚で事務所を運営してると思われたらアレだから、あんま深く掘り下げないようにしよう。
「そんなわけだから、FMKのために奥入瀬さんの……笛鐘琴里の力を貸して欲しい。うちはまだ小さい事務所だし、大手に比べたら色々と足らないところもあるが、絶対に不自由にはさせない。それだけは約束する」
「当てつけみたいな約束で不愉快なのよ」
当てつけてんだよ。
有栖原を無視して俺は続ける。
「奥入瀬さんが音楽でみんなを笑顔にしたいって思ってることは、悪いけど幽名から電話で聞いた。その夢を叶えるための手伝いも、うちならきっと出来ると思う。これはお互いに得するwinwinな話だと思うんだ」
事務所はライバーがやりたいことを支援して、ライバーはやりたいことをやって事務所に利益をもたらす。
どちらかの意見の一方通行にだけはしたくない。してはいけない。
それでも最初の一歩だけは、少しだけ強引なやり方で進ませてもらおうと思う。
今の奥入瀬さんに必要なのは、幽名みたいに無理やりにでも引っ張って行ってくれるお節介焼きなのだろうから。
「みんなでハッピーになるために力を貸してくれ……っていうか拒否権はない。1000万はもう払っちゃったし、笛鐘琴里はこっちのもんだ。返して欲しかったらFMKに来てください」
我ながら、なんとも間抜けな誘い文句だ。
「ふふっ……そういうことなら断れないですね」
だがその間抜けさが功を奏したのか、今日俺がここに来てから初めて奥入瀬さんの笑顔を見れた気がする。
「今の私に1000万もの値打ちはないと思います。だけど」
と、奥入瀬さんは有栖原の方を見た。
「いつか必ず夢を叶えて、有栖原社長にも認めてもらえるくらいに大きくなりたいと思ってます。そして、私に言った酷いことが全部間違いだったって証明してみせます。それが私への誹謗中傷を全て撤回させるっていう、姫衣ちゃんの願いでもあるから」
啖呵を切った奥入瀬さんの後ろで、幽名が後方腕組みおじさんの如く頷いた。
そしてある意味宣戦布告された有栖原は、意地悪そうな顔で奥入瀬さんを睨み返してくる。
「夢は夢なのよ。いい歳なのだから、そろそろ現実を見た方が良いのよ」
ガキみたいな見た目のクセして、やたらと冷めた考え方をする有栖原。
リアリストは結構だが、人の意気込みにケチをつけるのはいただけないな。
なんとかひとつ、黙らせてやれないものか。
……あ、そうだ。
「そうは言うがな有栖原社長、世の中にはこういう言葉を言った人もいるんだぜ? ――夢は必ず叶う。追い求める勇気があるなら。ってさ」
「………………ウォルト・ディズニーは卑怯なのよ」
偉大なるクリエイターの名言を引用してやると、有栖原はすんなりと沈黙した。
アリスという名前だしワンチャンあるかと思ったが、本当にクリティカルヒットだったようだ。
邪魔者が静かになったところで、仕切り直しと行こうか。
「一緒に有栖原社長をギャフンと言わせてやろう」
「はい……こんな私で良かったら、どうぞお役に立ててください。琴里、新しい事務所で精いっぱい頑張ります!」
右手を差し出すと、奥入瀬さんはおずおずと握手に応じてくれたのだった。
■
それから笛鐘琴里の権利譲渡に関する契約書を書いたりした。
契約書に関しては七椿が目を通してくれたので問題はない。
有栖原のやつは、ちゃっかり密林配信側が有利になるような内容を契約書に書いていたようだが、ロボットのように正確無比な七椿のチェックによって、見事なまでに契約内容を書き直されていた。
その手腕の秀逸さたるや、さしもの有栖原にさえ「お前、うちで働く気はないのよ? 総務のポストくらいなら用意してやるのよ」とまで言わしめたほどだ。
勿論全力で阻止したが。FMKのある意味最高戦力を引き抜かれてたまるか。
幸い七椿にそのつもりはなかったらしく、塩対応で返していたけど。
で、その七椿が最後にきっちりと仕事をしてくれたお陰で、無事に笛鐘琴里をFMKに迎え入れることが出来た。
めでたしめでたしだ。
「代表さん、琴里のことを宜しくお願いします」
楼龍からも礼を言われたが、琴里と別の事務所になったことは内心複雑な思いもありそうだった。
というか、ただ心配しているだけなのだろうけど。
そこはしっかりと不安に思わせないように返答しておいた。
未来がどうなるかは俺の頑張り次第だ。
「なんやかんや長居しちまったな」
全部が終わる頃にはすっかり暗くなってしまっていた。
幽名なんかはもうウトウトとしてしまっている。
日課のお昼寝もしてなかったし、睡魔が限界に近付いているのかもしれない。
色々動いて疲れもしただろうしな。
「そういえば社長忙しいって言ってたのに……」
奥入瀬さんが申し訳なさそうに有栖原を見やると、お子様社長はふんぞり返って鼻を鳴らした。
「不良債権を捌いて1000万を得られたのだから、他の予定をキャンセルした程度大した痛手にもならないのよ。それにアリスはもうお前の社長じゃないのよ」
「すいません……」
「……フンッ、謝らなくてもいいからさっさと消えるのよ。商売敵にこれ以上事務所にいて欲しくないのよ」
有栖原は犬でも追い払うみたいにシッシッと手を振る。
ここらが引き際だろう。
全員で有栖原の社長室を後にする。
「――ちょっとお前、FMKの代表」
一番最後に部屋から出ようとした俺を、有栖原が引き留めて来た。
結局最後まで名乗らせてくれなかったな。
別にいいけど。
「なんだ?」
振り返ると、有栖原がやけに真剣な……鬼気迫る表情で俺を見つめていた。
「お前は……ビリオンズ・プロジェクトという言葉に聞き覚えはあるのよ?」
「は? ビリ……? なんだって?」
「……もういいのよ、その反応で十分分かったのよ。出て行くのよ」
自分から引き留めておいて随分と勝手なヤツだ。
最後の最後にしこりの残るやり取りをしてから、俺も社長室を出て、後ろ手に扉を締めた。
「どしたん? なんか言われたの?」
「いや……なんでもない。多分」
一鶴が興味本位全開で聞いた来たのを、曖昧に濁して口を閉ざす。
意味不明な質問をされただけだが、どうにも引っかかる。
ビリオンズプロジェクト。
ビリオン……10億。
10億。
この数字が俺にとって縁のある数なのは説明するまでもない。
偶然か……それとも……。
「なんでもいーけど、あたしお腹空いたんだけど。新しい仲間の歓迎会も兼ねて、みんなでご飯行きましょうよ」
「お前は俺の奢りで飯食いたいだけだろ」
「バレたか」
バレたかじゃねえよ。
だけどもまあ、歓迎会を催すのは俺もやぶさかではない。
色々と考えたいこともあるけれど、今はFMK5人目となるVTuberの加入を祝うとしよう。
「じゃ、今日は笛鐘琴里の歓迎会だな。楼龍も来るか?」
「琴里の新しい門出を祝う席なら、私が断る理由は全然ないよね。代表さんの奢りらしいし、お言葉に甘えて同席させて貰っちゃおうかなー」
ちょっとだけ元気を取り戻した楼龍が勇み足に前に出る。
「いこっ、琴里」
「あ、はい。姫衣ちゃんも」
「眠いですけど……わたくしも行きますわ」
眠そうにしながらも、幽名が奥入瀬さんの後を追う。
マイペースな幽名のことだ。ちょっと前までだったら、眠いからもう帰ると言っていたかもしれない。
箱入りだったお嬢様もちょっとずつではあるが変わってきている。
色々な考え方の人間と出会い、触れ合うことで視野が広がってきているのだろう。
そうやって変わっていけることが、少しだけ羨ましく思う。
……それはそれとして、だ。
「飯に行くのはいいけど、なんか忘れてる気がするな」
ま、忘れる程度のことだからどうせ大したことじゃないか。
そして翌日、事務所の留守番を任せていた瑠璃とトレちゃんの存在を忘れていた俺は、飯に連れて行かなかったことをネチネチと詰られ続けることになるのだった。
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