笛鐘琴里のお値段は
企業勢VTuberの器の権利は、個々の契約内容にもよるだろうが、大抵の場合は事務所側が保持しているものと思っていい。
だから中の人が今居る事務所を脱退して、元の器のままで他所へ行きたいと思ったとしても、キャラの権利を事務所が譲渡でもしてくれなければ器は諦めるしかないだろう。
普通の芸能人も芸能事務所から独立や移籍する際などに、芸名の権利をどちらが持っているかで揉める事が多々あるが、それと似たような話である。
VTuberの器は歴とした
しかし一方で、魂のいなくなった抜け殻にどれほどの価値があるのかという疑問もある。
VTuberは基本的には中の人の交代が許されない業界だ。
数多くの事務所が魂と器の結びつきを軽視して、アニメキャラの声優を変更するノリで魂をすげ替えてしまい、その結果炎上してきた。
ファンの感情や、VTuberの魂がなぜ魂と呼ばれているのかを考えもしなかった故の過ちだろう。
今では魂の交代だけはどの事務所もタブー視しており、中の人の引退はイコール器の引退とほぼ同義とされている。
それはつまり、魂がいなくなってしまった瞬間、器にはIPとしての価値がほとんどなくなってしまうということでもある。
からっぽの器は、価値ある知的財産としておきながら、実質的には商品価値を失った抜けない伝家の宝刀だ。
だからこそ、そこに交渉の余地が生まれる。
保持し続けていたところで扱いに困る財産だからこそ、そこで初めて『売る』という選択肢が浮上する。
幽名がそこまでの事情を考慮していたかと問われれば、していなかったと答えるしかないのが正直なところだろう。
しかし、幽名が言った笛鐘琴里を売ってくれという文言は、今確実に有栖原の琴線に響いた。
有栖原が小さく笑んだのを見て、幽名はそれを確信した。
「やっと、なのよ。売ってと言ってくれなければ、お互いに損をするところだったのよ」
有栖原はまるで最初から笛鐘琴里を売るつもりがあったかのように嘯いた。
「お金を払えば……琴里の権利を売ってくれるの!?」
予想外の一手に驚きの声を上げたのは楼龍だ。
藁にも縋る思いでこの場にいる楼龍にとって、その報せは何よりの僥倖だろう。
が、有栖原はそんな楼龍を冷たく見下ろして、
「言っとくけどお前には売らないのよ。アリスが今交渉してるのは、FMKなのよ」
そう言って幽名と視線を合わせる。
「アリスが出したみっつの条件には、わざわざ全部に密林配信で活動している間は~とか、密林配信に所属している間は~みたいに、密林配信に籍を置き続けることを強調して提示してたのよ」
「そうすることによって、笛鐘琴里が密林配信を離れて、他所で活動するというイメージを連想させやすくした。そういうことですわね」
「なのよ」
有栖原は頷いて、
「笛鐘琴里の権利を買うという選択肢に辿りついたのなら、それで良し。アリスはものには執着しないから、利益になるならなんでも売るのよ。だけど辿りつかなかったなら、それはそれで良かったのよ。金にはならなくても、目的を果たせずにとぼとぼと帰っていく馬鹿どもの背中を嘲笑えるから」
そう言って悪魔のようにほくそ笑んだ。
そんな小さな邪悪に、社長室に居た全員が押し黙る。
「………………性格わるっ」
「それはお互い様なのよ」
辛うじて悪態を吐いた一鶴に、有栖原が的確な角度でカウンターをかました。
どうすればここまで人格が捻じ曲がるのか。
何故こんな人間がVTuber事務所を運営しているのか。
有栖原アリスとは一体何者なのか。
考え始めればきりがなく、尚且つ考えるだけでは答えが得られない類の問題だ。
だから全ての疑問を一旦脇に置いて、幽名は一番大事な目的を達成することにした。
「それでおいくらなのでしょうか、笛鐘琴里のお値段は」
値段なんてとっくに決めていただろうに、有栖原は幽名の問いに悩むフリをしてこちらを焦らす。
たっぷり1分ほど間を空けてから、小さな悪魔は笛鐘琴里の値段を開示した。
「譲歩に譲歩を重ねて1000万。これ以上はびた一文負けてやらないのよ」
1000万。
器の権利として、その値段が相場通りかどうかは幽名には判断がつかない。
が、仮に相場より遥かに高い値段であったとして、そこを指摘したところで有栖原は絶対に値段を下げてはくれないだろう。
それはここまでのやり取りを経て十分に分かっている。
「高すぎでしょ、10万くらいにしなさいよ」
それでも値切りに掛かるのが一鶴クオリティだった。
あまりの図太さに、流石の幽名も呆れを通り越して感心するしかない。
まだまだFMKの仲間からは学ぶところが多いようだ。
「だから値下げはないって言ってんのよ」
「まあ10万は言い過ぎだったわね。100万で良いわよ」
「良くないのよ」
「150?」
「しつこいのよ」
「160なら?」
「刻むな、なのよ」
「200」
「数字だけ言うんじゃないのよ! 1000万じゃなきゃ権利は手放さないのよ!」
「からの~?」
「そのノリ嫌いだからやめるのよ!」
「あによ、ケチ臭いわね」
結局値切りは失敗していた。
で、それはそれとして問題がある。
1000万円もの大金をどうやって用意するかだ。
有栖原が1000万という既視感のある数字を出してきたのは偶然ではないだろう。
FMKの1期生が、事務所から1000万を支給されていることを知っての提示に違いない。
つまり有栖原の要求は、こちらの足元を凝視して、ギリギリこちらが支払えそうな金額を持ち出してきたということだ。
とことん性格が悪かった。
そして困ったことに、幽名の手元には件の1000万はもうほとんど残っていない。
ちょっと使っちゃったから少し足りないとかそういうレベルではなく、1000万丸々足りないようなレベルの話である。
よくもまあ、そんな感じのお財布事情で何を買うなどと言えたものだ。
こればっかりは幽名も自分の経済力の弱さに首を傾げざるを得ない。
とりあえず、あれだ。
笛鐘琴里を取り巻く一連の問題を解決するための最後の難関である1000万。
これを用意する方法を幽名は既に思いついていた。
「ちょっとお電話をしてもよろしいでしょうか」
最初に言った通り、幽名たちには頭を下げるくらいしか手札が用意されていなかった。
でも、頭を下げる相手が、有栖原だけとは言っていない。
慣れない手付きでスマホから電話を掛けた幽名は、通話口に出た相手に向かって、開口一番にこう伝えた。
「申し訳ございません代表様、ちょっとお金を貸していただきたいのですが」
『――は?』
そして――
■
――そして、俺は密林配信プロダクションの事務所へと赴くことになった。
1000万円という大金を持って。
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