サイクロンガールズ
奥入瀬の心の内を反映したかのような土砂降りの雨の中。
初めて出会ったあの日のように、白い少女――幽名姫
雨に濡れながら旋律を奏でる幽名は、逆に現実味が薄くなるくらいの神々しさと存在感を放っている。
まるでこの世の者とは思えないほどの美しさ。
浮世離れとは彼女のためにある言葉なのだろう。
幽名姫衣は、完全に現世の理から離れた場所に生きている。
そう確信するだけの超然たる何かがそこにはあった。
奥入瀬は、そんな雨の中のヴァイオリニストに心を奪われ、一瞬だけ惚けて固まった。
だが直ぐに我を取り戻すと、それまで考えていたあれやこれやを全部頭から吹き飛ばして、転がるような勢いで部屋を飛び出していた。
――なんで、どうして、なぜここに。
そういった疑問は勿論ある。
だけど今、頭の中の大部分を占める感情に比べたら、そんな疑問など取るに足らない。
奥入瀬は感情に突き動かされるまま、衝動的に玄関から飛び出していく。
「う、わっ」
玄関前に人がいた。
数は3人ほどか。
知らない顔と知ってる顔。
いずれの人物も、不意打ち気味にいきなり出て来た奥入瀬に驚いて面食らっているようだった。
しかし奥入瀬は、誰か人が居ることを脳で認識していながらも、その脇をすり抜けて一顧だにせず駆け抜けていく。
「琴里!」
もう自分のものではなくなった名前を呼ばれ、奥入瀬は思わず足を止めそうになった。
が、今はそれよりも何よりも一目散に行かなくてはならない場所があった。
1週間もろくに動いていなかったせいで悲鳴を上げる足腰を酷使する。
階段を飛び降りるように駆け降りて、ものの数秒で1階まで辿り着いた。
ほとんど体当たりする感覚でドアを開け、そのままぐるっとマンションのベランダ側に回り込む。
本降りになった雨が冷たかったが、こんな時に濡れるのを気にするような奥入瀬ではなかった。
だって、なぜなら、だからこそ――奥入瀬はこうして外に出て来たのだから。
「はぁ……はぁ……」
息が切れる。
肺が痛い。
眩暈がする。
普段からの運動不足に加えて、1週間の引き籠り生活。
プラスで食事もほとんど取っていなかった。
今更ながら、心だけでなく身体までボロボロになっていることに気が付かされる。
それでも奥入瀬は、衝動に突き動かされるがままここに来た。
「姫……様……!」
呼びかけに、ヴァイオリンの音がピタリと止む。
白い演奏者が顎からヴァイオリンを離し、ゆっくりとこちらに振り向いた。
「奥入瀬様」
透明感のある声。
天の使いか、そうじゃなければ神そのものかと本気で疑いたくなるほどの美しさ。
幽名姫衣は以前会った時と何一つ変わらない姿と微笑みで、奥入瀬に向かい合ってくる。
本当なら、会わせる顔などなかったはずなのに。
期待してもらったにも関わらず、自分は個人的な感情だけを優先して、何もかもから逃げ出してしまったから。
出会ったばかりの自分に無垢な信頼を寄せてくれた少女を裏切ってしまった。
きっと落胆させたはず。
きっと呆れているはず。
きっと怒っているはず。
そう思うと怖くて仕方がなかった。
尚更会いたくないと思ってしまった。
そういう負い目と恐怖があったから、もう二度と会わないと決めていたはずなのに。
なのに――。
「姫様……!」
「はい」
呼ばれ、嬉しそうに頷く幽名。
奥入瀬は呼吸を整え、肺に空気を吸い込んで、あらん限りの声で叫んだ。
「ヴァイオリン……! 水に濡らしたらダメ!!!」
「!?」
大切な楽器をあまりにもぞんざいに扱う幽名を見て、思わず飛び出してきてしまったのだった。
■
「楽器を水に濡らすのは本当にダメなの! 特にヴァイオリンは
マンションの一室。
というか奥入瀬の部屋。
烈火のごとく怒り狂う奥入瀬は、びしょ濡れになったヴァイオリンを丁寧に拭きあげてメンテナンスしていた。
標準装備の敬語もどこかに消えて、思いっきり素の言葉遣いになってしまっている。
一方の幽名はフローリングに正座させられて、しゅんと項垂れて眉尻を下げているようだった。
「思ったよりも全然元気そうじゃん」
そんな光景を見て拍子抜けしたような感想を呟く小槌に、楼龍はしかし頷けない。
元気というか、今は怒りに我を忘れて一時的に気力を取り戻しているだけの状態だ。
落ち着いてしまえば、また自暴自棄の元の琴里に戻ってしまうだろう。
だけどもう一人にはさせるつもりはない。
こうして天の岩戸を開けて押し入ることが出来たのだから。
奥入瀬の部屋はインターフォンの電池が抜かれて鳴らないようにされていた。
それほどまでに人に会いたくなかったのだろう。
鳴らないチャイムを何度鳴らそうが無駄だったし、いくら扉を叩いて呼びかけても中からの反応はゼロだった。
そんな状態だったので、FMKの事務所から奥入瀬の住んでいるマンションに駆け付けた楼龍たちは、最悪の事態を想像していよいよ顔を蒼褪めさせた。
管理人室に行って事情を説明し、鍵を借りることも考えたのだが、それよりも早く幽名が挙手をした。
『奥入瀬様なら大丈夫です。わたくしが外に呼び出します』
そう言ってヴァイオリンを持って外に出ていき、本当に奥入瀬を誘き出すことに成功していた。
尤も目的は達成出来ていたが、幽名の狙いは若干外れていたようだったのだが。
本人としては、音楽好きの奥入瀬を自身の素晴らしい演奏で釣るつもりだったのだろう。
しかし奥入瀬が出て来た理由は、ヴァイオリンが濡れているのを目にしたからだ。
なんとも肩の力が抜ける話である。
「申し訳ございません……全面的にわたくしの責任です」
「ほんとにそう! あんな雨の中でヴァイオリン弾くのは今後絶対にダメだからね!?」
「はい……二度と同じミスは致しませんわ。もし次にヴァイオリンを濡らすようなことがあれば、その時は腹を召しますわ」
「それくらいは当然だよね」
全然当然じゃない。切腹はどう考えてもやり過ぎだった。
それに立ち直らせに来たはずの対象に怒られてるのはワケが分からない。
もうちょっとシリアスな空気になることを覚悟していたのに、蓋を開けてみればこんな感じだ。
なので楼龍もどう切り込んでいけば良いのか分からずに、口を挟めずにいるのが現状である。
ちなみに奥入瀬宅まで押しかけたのは、楼龍と幽名、小槌、それから何故かチャイナ服を着ている謎の女である。
幽名を呼んだのは楼龍だし、小槌は楼龍自身を気にかけてくれているから付いて来てくれたということは分かる。
しかしチャイナ服の人は分からない。
なんでチャイナ服?
なんで付いて来てるの?
謎でしかない。
「奥入瀬様」
そんな楼龍の疑問をぶった斬って……ついでにお説教モードだった奥入瀬の言葉も遮って、幽名が言葉を紡ぐ。
「わたくしには奥入瀬様が必要です」
一方的な告白に、奥入瀬が息を詰まらせたのが分かった。
「そして楼龍様は、笛鐘琴里を必要としています」
奥入瀬の視線が、ここで初めて楼龍の方へと向けられる。
そこでようやく正気に戻ってきたのだろう。
顔が見る見るうちに暗くなっていく。
自暴自棄の沼に沈み込んでいく。
「ですので」
しかし、沈みかけていた奥入瀬の手を、幽名姫衣は無理やり掴んで引きずり上がらせる。
「わたくしは密林配信と戦うことにしました」
誰も考えもしなかった手段を持って。
「今から殴り込みにいきましょう」
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