ヘビーレイン

 ざあざあと雨が降り注ぐ。

 ずっと泣き出しそうだった空が、いよいよ大粒の涙を零し始めたらしい。

 奥入瀬はカーテンを閉め切った暗い部屋の片隅で、膝を抱えながら静かに雨音に耳を傾けていた。


 もうどれくらいの時間こうしていただろうか。

 1時間? 1日? 1週間? 1ヶ月? 1年? それとももっと長い時間か。

 時間の感覚が酷く希薄だ。


「なにやってるんだろう……私」


 何をしているかと問われれば、何もしていないと答えるしかないような有様だ。

 グリーンヘルズビルでの有栖原と王との謁見以来、ほとんどずっとこうして部屋の隅で丸くなっているだけな気がする。

 いや、気がするではなく、事実として大半の時間をこうやって過ごしていた。

 食事もろくに取ってない。

 何もする気が起きない。何もすることがない。何もやることがなくなってしまった。

 密林配信プロダクションとの契約を解除され、笛鐘琴里としての活動を終わらせられてしまった。


「どうしてこんなことに……」


 これからだったのに。

 やっとVTuberとして活動する楽しみを見つけられたのに。

 今までずっと朧気で不確かだった未来への道筋が、ようやくはっきりと輪郭を伴って見えてきた気がしてたのに。

 全ては泡沫の夢に消えてなくなった。

 悪いのは全部、自分だ。


『R18の仕事はやりたくない? 音楽活動をメインに据えたい? 何を戯けたことを言っているのよ。お前はアリスの言いなりになっていれば良いのよ。そうすれば食うに困らないだけの稼ぎは得られるようにしてやれるのよ。これはお前のためを思って言っているのに……その反抗的な目付きはなんなのかしら!』


 幻聴が聞こえてくる。

 あの日のやり取りがリフレインしてくる。

 どれだけ耳を塞いでも、脳内に反響する蔑みの声までは防げない。


『いいわ、一度だけチャンスをやるのよ。そこまで言うのなら余程の自信があるということ。だったらアリスと我が王に、お前の演奏を聴かせるのよ。相応の実力を示せばアリスも文句は言わない。今後の活動はお前のやりたいようにすればいいのよ。ただし、粗末な演奏をしたらその時は――』


 反抗の代償は大きかった。

 それは初めから分かっていたことだ。

 有栖原は自身と王の意向に逆らう者に容赦はしない。

 ただしそれとは別に、逆らった者にも一度だけチャンスを与えることも知っていた。

 だが大抵の場合は最後のチャンスをものに出来ずに終わってしまうのが大半だ。

 何故なら有栖原は、相手にとって最も困難な試練をぶつけてくるから。


 有栖原に面と向かって逆らって生き残っている所属VTuberは、奥入瀬の知っている中でも数えるほどしかいない。

 例えば密林配信のトップVTuberである、鰐口ナイルなんかがその中の1人だ。

 アレは色々と規格外な人なので参考にならないが、兎にも角にも、逆らったとしても実力を示せば生き残れるという事実が大切だった。

 だから有栖原が出してくる課題に全てを賭けた。

 賭けたのに。


『――もういいのよ。お前の実力は良く分かった。聴くに堪えない演奏だったのよ。その程度の腕で音楽をメインにとは、ちゃんちゃら可笑しい。反吐が出るのよ』


 手が震えてまともに演奏出来なかった。

 トラウマのせいで人前で演奏出来ないのは分かっていた。

 それでも何とかなる気がしていたのだ。

 姫様と楼龍……二人の友達に勇気をもらったから。

 勇気があればどんな困難も乗り越えられると思っていた。

 だけどそんなのは儚い妄想に過ぎなかった。

 現実は残酷で非情で、救いがない。


『笛鐘琴里……持たざる者よ。身の丈にあった運命を享受しておけば良かったものを、貴様は自ら勝ち目のない困難に立ち向かい、そして敗北した』


『馬鹿丸出しなのよ。誰に煽てられたのかしらないけど、お前なんて所詮はその程度の才能なのよ』


『貴様がそうして地に伏しているのは、全て貴様の能力不足が原因だ』


『全部全部、お前が悪いのよ』


『うだつの上がらぬ現状も』


『あのパークが落ちぶれたのだって全部ぜーんぶ……お前の音楽がクソだったからなのよ』


 ■


 北海道にグリュッセルランドというテーマパークが出来たのは、まだ奥入瀬が小学生くらいの歳の頃だっただろうか。

 子供の時に両親に連れられて行ったグリュッセルランドは、正に夢の国そのものだった。

 可愛い着ぐるみ達、ファンタジー世界のような建造物、アトラクションの数はちょっと物足りなかった気がするけど、それでも奥入瀬は十分に楽しかったのを今でも覚えている。


 中でも印象に残ったのは、夜間に催されたパレードだ。

 心の弾む音楽と共に、着ぐるみやキャスト達が様々なパフォーマンスをしながらパーク内を大行進していた。

 両親も自分も、周囲の人々も、みんなみんな笑顔になっていた。

 まだ、自分が授かった音楽の才能の使い途が定まっていなかった奥入瀬は、その時衝動的に直観したのだ。

 私の音楽は、このパレードでみんなを笑顔にするためにあるのだと。

 だがしかし、子供の頃に描いた夢も希望も空想も、全ては現実を知らぬが故の胡蝶の夢だったのだろう。


 奥入瀬が念願叶ってグリュッセルランドに就職したその年に、パークは経営不振に陥って大赤字を叩きだした。

 人がどんどん少なくなって、パレードも活気がなくなって、みんなの笑顔もどこか曇っているように見えてしまった。

 予算不足からパレードはどんどん質素なものになってゆき、奥入瀬がどれだけ気合いを入れて曲を作ろうとも、反比例するように人々の笑顔は消えていった。

 パークを訪れた人々がパレードに見向きしなくなるまで、そう時間は掛からなかった。


 その原因を、奥入瀬は自分に求めてしまった。

 才能を持って生まれてしまった奥入瀬が、人生で初めて味わう挫折、敗北。

 向き合い方も、立ち直り方も分からない。

 ただ存在しているのは、自分の音楽では誰も笑顔に出来なかったという紛れもない事実だけ。

 あんなにも輝いていたはずのパレードが、こんなにもくすんだ色になってしまったのは、自分の音楽が至らなかったせいだ。

 パークが落ちぶれたのは、全部自分の音楽が悪いのだ。

 それが奥入瀬奏鳴のトラウマ。


 ■


 そして奥入瀬は、また失敗した。

 自分が有名になってパークを宣伝すれば、きっとかつてのような賑やかさを取り戻せるはず。

 パーク側の指令で宣伝隊長に任命されたとはいえ、名誉挽回のために気合いを入れて奥入瀬は上京してきた。

 そこで有栖原と出会い、VTuberとしてデビュー出来たのは僥倖と呼ぶべきだったはず。

 しかしまたも失敗したのだ。


『契約解除だ、笛鐘琴里。弱者に生きる権利は無し、それが密林の掟だ』


『消えるのよ、今すぐに。お前のゴミみたいな演奏のせいでこっちは気分が悪いのよ。時間の無駄もいいところだったのよ。あーあ、ほんとに耳障りな演奏だった』


 耳を塞いでも聴こえてくる。

 有栖原の罵詈雑言が。

 どこまでも耳にこびり付いて離れない。

 きっと鼓膜を破いても逃げられないだろう。

 どんな音で上塗りしても消えることはないだろう。

 いつまでも聴こえ続ける。

 唯一、頭の中の声を消す方法があるとすれば『■ぬ』ことくらいか。


「……」


 それもいいかもしれない。

 どうせ音楽を否定された自分に、居場所なんて何処にもないのだから。


 手を差し伸べてくれた友達を突き放してしまった。

 楼龍はきっとこんな自分に愛想を尽かしてしまっただろう。


 姫様や、FMKの人達にも悪いことをしてしまった。

 でも自分なんかの音楽を使っても、きっと迷惑をかけてしまうだけだ。パークの時のように。


 自分みたいな人間は誰とも関わらずに生きているのが正解なのだ。

 だったらいっそ、何も聞こえない世界に行ってしまうのも有りなのかもしれない。


「……そんなの無理だよ」


 でもそんな選択肢を選べるほどの勇気はない。

 だからこうして部屋の隅で小さくなっている。

 何をするでもなく、内なる有栖原の声に罵倒され続けながら。


「――――――え」


 だから最初は我が耳を疑った。

 とうとう耳がおかしくなったのかと思った。

 聴こえるはずのない音が流れてきたから。


 大粒の雨音に紛れて、どこからともなく澄んだメロディが響いて来る。

 窓の外から、ヴァイオリンの旋律が聴こえてくる。

 しかもこの演奏は……。


 有り得ないとは思いつつも、奥入瀬は音に誘われるがまま、ふらふらとした足取りで窓の方へと寄っていった。

 カーテンを恐る恐ると開け放ち、マンションの4階にある自室の窓から外を見る。


 そこに彼女は居た。

 白い髪を艶やかに濡らした、お嬢様然とした一人の少女がそこに居た。

 滝のような大雨の中、濡れるのも構わずに一心不乱にヴァイオリンを奏でながら、幽名姫依が確かにそこに居たのだった。

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