アンブレラサイン

 奥入瀬さんからの連絡が途絶えてからそろそろ一週間が経とうとしていた。

 2日や3日なら、まあそういうこともあるかで済ませることも出来たが、流石にここまで音沙汰がないと疑心を通り越して何かあったのではと心配になってくる。


 メールは確実に送信済みになっているのを確認したので、こちらのミスでないことだけは確かだ。

 だとすれば奥入瀬さんが何らかの事情で返信出来ていないか、もしくはあまり考えたくないが、奥入瀬さんが意図的にメールを無視しているかだ。

 どちらにせよ、仕事のメールに一週間近く反応してくれないというのは、ハッキリ言ってビジネスパートナーとしては落第点としかいいようがない。


「それでなんだが、姫様。作曲はまた別の人を探そうかと思ってる」


 ジトっとした空気感のする事務所内。

 今日はまだ雨は降っていないが、空模様はいつ泣き出してもおかしくないような曇天の鉛色をしている。

 そのため日中だというのに外は薄暗く、事務室も昼間から照明を点けていた。

 幽名はヴァイオリンを胸に抱きながら、事務室の窓辺で空を仰いでいたが、俺の言葉を聞いてゆっくりとこちらを振り向いた。


「イヤですわ」


 案の定の返答。

 一度言い出したら梃でも譲らないのが幽名という人間だ。

 それは以前、VTuberの名前を決めた時に、どうしても幽名姫依という名で活動したいと駄々を捏ねられたことからも分かっていた。

 だが今回はあの時とは事情が違う。


「イヤと言われてもな。連絡が取れなくなってもう一週間だ。奥入瀬さんはFMKからの依頼を受ける気がなくなったんじゃないか」


 現状それくらいしかこちらの連絡を無視する理由が思い浮かばないというのがあるが、理由としては至極妥当な推測だとも思う。

 やる気がなくなったのか、他に優先すべき仕事が入ったのか、はたまた別の事情があるのかは分からない。

 だがどんな理由があるにせよ、それならそれで何か一言くらいはあってもいいだろう。

 このままでは奥入瀬さんに対する印象は悪くなっていくばかりだ。


「奥入瀬様はそんな人ではありません。連絡が取れないのにも、何かやむを得ない事情があるはずですわ」


「……幽名。お前だって、奥入瀬さんのことをそれほど深く知っているわけじゃないだろ。この前公園で会ったのが初めてだって言ってたよな? 奥入瀬さんがそんな人に見えなかったって言うのは俺も同意だよ。だけどな――」


「それ以上は聞きたくありませんわ」


 俺の説教を途中で遮り、幽名は子供みたいにそっぽを向いてしまう。

 子供みたい、ではなく、正真正銘の子供なのだが。

 だが幽名がどれだけ強情張ろうとも、奥入瀬さんが音信不通のままでは事態は一生好転しない。

 そんなこと幽名だってとっくに分かっているはず。

 それでも考えを曲げないのは、外で出来た初めての友達を信じたいからだろうか。


「……姫様の気持ちは分かった。だから今日一日だけ待つ。それでも奥入瀬さんから返事がなかったら、その時は作曲依頼は別の人に変えさせてもらう。それが譲歩出来る精一杯だ」


「わたくしの意見は変わりませんわ」


 ■


「ナンカ、今日は事務所のクウキがヘビーデスネ……」


「ただでさえ悪天候続きでダウナーな気分なのに止めて欲しいわね、喧嘩すんのは」


「アワワ、イヅル声がオオキイデス……!」


 土曜日だからか、今日は昼間からFMK1期生が事務所に勢揃いしていた。

 そのせいで俺と幽名の話も必然的に筒抜け状態になっていたし、ここで話したのは失敗だったな。

 空気を悪くしてしまったし、幽名への配慮が足りていなかった。


 次からは大事な話は会議室に個別に呼び出すようにしないといけないか。

 それはそれで相手にプレッシャーを与えそうな気もするんだが、どうするのが正解なんだろう。

 俺も上に立つ人間として未熟過ぎるな。

 もっと勉強しなければ。


「……七椿、ちょっと外の空気吸ってくる。なんかあったら電話くれ」


 重たい空気から逃げるように事務所を出る。

 出る直前に瑠璃と目が合ったが、その目は『これ以上姫様を虐めたら殺す』と言っていた。

 別に虐めてるわけじゃないっての。


 事務所の側に置いてある自販機で缶コーヒーを買い、入り口横で一服する。一服と言っても俺はタバコは吸わない。それだけは言っておきたかった。

 エアコンの効いてた室内とは違い、外は呼吸がしづらいくらいに湿度が高くて蒸し蒸しとしている。

 まるでサウナみたいだ。


 小槌とコラボしていたサウナ好きVの楼龍は、やっぱ梅雨の時期が得意だったりするのだろうか。

 いや、サウナの心地いい蒸しと、梅雨の不快な蒸しは全くの別物か。

 なんて無益な思考で頭を休めていると、


「すいません、FMKの事務所ってここですか?」


 と急に横合いから声を掛けられた。

 首だけ動かして声の方を見ると、片目隠しの黒髪ホーステールという絶妙に印象に残りそうな髪型をした女性がそこにいた。

 しかも湿度80%くらいはありそうな空間で、こともあろうにサウナスーツを着ている。

 当然ながらFMKの関係者にこんな珍奇な身なりの人間はいない。

 荷物を持ってる様子もないし、配達でも出前でもないと思う。

 誰だ?


「FMKの事務所はここですけど……どちら様ですか?」


 俺がそう尋ねると、サウナスーツの女は目を見開いて、俺の胸倉に掴みかかる勢いで食いついてきた。


「その口ぶり、FMKの人!? スタッフさん!? なんでも良いけどそれならそれで話が早い! いきなりの訪問ごめんなさい! こんなのは業界的にもルール違反だってのは分かってるけど、どうしても直接会って話がしたくって! それで私――とにかく会わせて!」


「ま、待て待て。落ち着け」


 興奮気味に捲し立てるサウナスーツ女を引き剥がし、事務所の入り口を塞ぐように立ち位置を変える。

 こうしないと勝手に中に入っていきそうな勢いだったから当然の処置だ。

 そうしてワンクッション挟んでから、改めてサウナスーツと向かい合った。


「どういった用件かは存じ上げないが、とりあえず何処の誰なのか名乗ってくれ。で、話は俺が聞くから」


「でも……いや、分かりました。常識のないことやってるのはこっちの方だし仕方ないよね」


 なんとか落ち着きを取り戻したらしく、サウナスーツは俺の要求に耳を傾けてくれた。

 本当になんの用事なんだか。


 そもそも会わせてって誰にだ?

 まさか誰かのファンで、事務所に直接押しかけてきてしまった系だったりするのか?

 だとしたら丁重にお帰り頂くしかないが……。

 いや、でもコイツの声、どこかで最近聞いたことがあるような、ないような……。

 思案巡らせる俺に対し、サウナスーツは堂々と誰に憚ることなく名乗りを上げた。


「私は楼龍兎斗乃依。密林配信プロダクション所属のVTuber」


「楼龍……密林の!?」


 嘘だろ……と思ったが、声は確かに似ている。

 どうりでつい最近聞いたことがある声だと思った。

 小槌とのコラボ配信は俺も見ていたからな。

 でも何故という疑問は未だに拭えない。


「無理を承知でお願いします、幽名姫依さんに会わせてください」


 楼龍が深々と頭を下げる。

 幽名? なんで幽名なんだ?

 コラボでの絡みがあった小槌ならまだ分かるが、楼龍は幽名との接点などなかったはずだが。


「琴里を――笛鐘琴里を助けてあげられるのは、多分幽名姫依だけなんです! だからお願いします! 一回だけでいいから直接話をさせてください!」


 笛鐘琴里って誰……いや、その名前も最近見たな。

 密林配信から契約解除されたVTuberだったはずだ。

 その笛鐘琴里と、うちの姫様がどう関係しているのかは知らない、が――。


「雨降って来ちまったし……とりあえず中で続きを聞くよ」


 俺は雨を言い訳にして、楼龍を事務所に入れることにした。

 ちゃんと話を聞いてあげようと思うくらいには、楼龍が必死に見えたから。

 それこそ、泣き出してしまいそうになるほどの必死さに。

 まだ雨は降り出していなかった。

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