比較対象、俺
「代表、奥入瀬さんのことですが、口止めしておかなくて宜しかったのですか?」
タクシーに乗せた奥入瀬さんを見送った後、七椿が眼鏡を光らせながら俺に確認してきた。
幽名は仮眠室で昼寝をしている。呑気なもんだ。
「あー……七椿がそういう台詞を言うと、ちょっとスジモンっぽい風格があるな」
「ハラスメントですよ、なんらかの」
「ごめんなさい」
俺も人の上に命令する立場になった人間として、ハラスメントというワードには最新の注意を払わなければならないだろう。言動に気を付けなくては。
それはともかく。
「口止めってのは、幽名がVTuber幽名姫依だってことのか?」
「はい」
あえてさっきは説明しなかったけれど、ここがVTuber事務所だってことはちょっと調べれば誰でも分かることだ。俺の名刺も渡しちゃってるし。
そして所属VTuberを確認すれば、必然的に幽名姫依という名前のVTuberが在籍していることにも気が付くはず。
幽名が出入りしていたVTuber事務所に、偶然同じ名前で似た容姿のVTuberが所属していただけ、という言い訳は少々苦しいし、多分そんな誤魔化しは誰も信じてくれない。
奥入瀬さんは、姫衣=姫依であることに遅かれ早かれ気が付くだろう。余程の無頓着かアホでもない限り、ほぼ100%だ。
早ければ帰りのタクシーの中でFMKについて調べて、驚いている頃かもしれない。
これは奥入瀬さんが幽名と会って、しかも事務所まで来てしまったことにより発生する確定した未来と言っても良い。
七椿が言いたいのは『VTuberの中身について言いふらされるかもしれないんだから、しっかりと事前に説明して情報閉鎖に協力してもらえるようお願いしておくべきだったのでは?』ということだろう。
リスクの種を芽吹く前に摘み取ろうとするのは、いかにも真面目な七椿らしい考え方だ。
一鶴の借金が露呈した時も、一鶴を追い出すよう真っ先に進言してきたのも七椿だったしな。
ただしアドバイスに努めるだけで独断で動くような真似をしないのが、七椿の良いところでもあり、もしかしたら短所でもあるのかもしれないが。
「ま、奥入瀬さんなら大丈夫だろ。人の秘密をぺらぺらと吹聴して回るような人には見えなかったし」
「分かりませんよ。確かに人畜無害そうな見た目と人となりでしたが、SNSの裏垢などで、人の悪口をあることないこと投稿して鬱憤を晴らすのが趣味かもしれません」
嫌な想像するなあ。
そんなこと言い出したら、もう誰も信用出来なくなるだろうに。
……なんとなく、七椿という個人を構成する要素の一部が紐解けた気がする。
でも余計なことは言わずに心のうちに留めておくけど。少なくとも今は。
またなんらかのハラスメントだって言われたくないし。
「なんて言うか……奥入瀬さんは、瑠璃や一鶴なんかと同じ目をしてたんだよ」
「同じ目、ですか?」
「心にでっかい夢とか目標を持ってる奴特有の、キラキラした目」
「……」
ちなみに今の七椿は『は? こいつ急に何言ってんの?』という目をしている。
「まあ、七椿が疑いたくなるのも分かるけど」
「まだ何も言ってませんが」
「分かるけども、これについて俺は自分の審美眼が狂ってると微塵も思ってない」
「……その心は」
「比較対象が俺だから」
「……」
キラキラした目。
やりたいことがあって、心に自分だけの羅針盤を持ってるやつは、総じて特有の輝きを瞳に帯びているものだ。
俺は毎朝、鏡の中に、それとは真逆の真っ暗な瞳を持つ男をずっと見てきた。
だから分かる。
奥入瀬さんも、瑠璃も一鶴も、幽名もトレちゃんも、そして七椿も。
みんなの心の真っ直ぐさってやつが。
「――自分のことをこの世の誰とも比べてはいけない。それは自分自身を侮辱する行為だ」
不意に七椿が何かの引用を持ち出してきた。
「誰の言葉?」
「ビル・ゲイツ氏です」
「ゲイツかー」
兆を超える資産家の言葉ってあんま素直に迎合したくない感があるんだよなぁ。
言ってる内容が正しかったとしても。
「あまり自分を卑下するのは止めた方が宜しいかと。代表として」
代表としてね。それならまあ理解出来る。
上司が卑屈だったり自信がなかったりしたら、下の人間を無駄に不安にさせてしまうだけだろう。
「すいませんでした、以後気を付けます」
「はい。しかし、代表が奥入瀬さんを信用する根拠は分かりました。今はそれで納得しておきます」
それだけ言って、七椿は自分の仕事に戻っていく。
自分と人とを比べてはならない、か。
ゲイツも随分と難易度の高いことを言ってくれるもんだ。
社会の中で大勢と関わって生きていかなきゃならない以上、意識的にせよ無意識的にせよ、どうしても自己と他者との比較はしてしまいがちなのが世の常だ。
他人と何も比べないってのは、自分に絶対の自信がある人間か、それとも他人に一切興味のない人間か、或いはジャングルの奥地に住んでて他人という生き物と関わってない人間くらいにしか成し得られないのではないだろうか。
そう思う。屁理屈だけど。
そんなくだらない事を考えていると、スマホがポコンと気の抜ける音を発した。
一鶴からのメッセージだ。
『楼龍ちゃんから返信きたわよ、コラボオッケーだって。今日打ち合わせするから、詳細決まったらまた伝える』
どうやら小槌と楼龍とのコラボ配信が確定したようだ。
さて、どんな配信になるのやら。
そしてその日の夜。
あっさりと配信内容が決まったことを報せるメッセが届いた。
『明後日発売する新作ゲーム一緒にやろうって言われたんだけど、配信許諾とかの交渉お願いしていい?』
ライブ配信の王道ジャンル、ゲーム実況だった。
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