それではもう一曲
「イヤだなぁ……」
とぼとぼと、おさげの少女が帰路を歩む。
嫌なことでもやらねばならぬか、嫌なことならやらぬが花か。
堂々巡りの思考の海を彷徨いながら、水面を揺蕩うような覚束ない足取りで、奥入瀬奏鳴は義務的に足を動かしていた。
グリーンヘルズビルの最上階の更に上。
屋上に広がるジオラマのジャングルで、社長と社長を裏から操る半裸の変態から課せられたミッションに、奥入瀬は心底頭を悩ませていた。
有栖原の指示を要約するなら『今後、VTuber笛鐘琴里はエロ方面で売っていけ』ということである。最後の方は優しく諭すように言ってきたりもしたが、それ以前の段階で契約解除もチラつかせてきていた。
ほとんど脅しみたいなものだ。
奥入瀬の個人的感情は考慮されていない。
その方が売れるのだから、やれ。
それくらいの気軽さで有栖原は言っていたと、今更ながらにそう思う。
ある意味見上げたプロ根性。
言うは易しの立場で、行うの部分を人任せにしていることに目を瞑れば、貪欲なまでに利益を追い求めるその姿勢だけは見習っていきたいと倒錯してしまいそうになるほど。
姿勢に学ぶところはあれども、考え方には共感出来そうにもないのが玉に瑕だが。
しかし後からいくらその在り方を否定しようとも、一度首を縦に振ってしまった事実は変わらない。
経緯と動機と状況がどうであったにせよ、唯々諾々と自らの道を他人に委ねてしまったのは自分自身なのだ。
「大体、私にR18の仕事なんて……」
やったことがないので一概に不可能とも断じられないが、向いてる向いてない以前の問題として、恐ろしく気が進まないことだけは確かだ。
一言で言ってしまえば、普通にやりたくない。
一般人としての感性と、吹けば飛ぶようなプライドと、そして極大の羞恥心が、エッチな声のお仕事を激しく拒んでいる。
こんなにイヤなら、さっきちゃんと断っていれば……。
でもそうしていたら、きっと笛鐘琴里の名前は密林配信の中から抹消されてしまっていただろう。
社長と王に反抗した者の末路を知らぬ奥入瀬ではない。
あの二人はやると言えばやる、そういう人種だ。
それもこれも、自分がデビューしてから1年の間に結果を出せなかったのが原因だ。
他のみんなは……自分より先にデビューしていた先輩も、あとから密林配信に入って来た後輩も、みんながみんな前を走って遠くに行ってしまった。
それに比べて自分はどうだ。
人気になれず、何も得ず、終いにゃテコ入れエロ営業。R18、エロボイス。
それらに縋りつくしかない。
実に空虚じゃありゃせんか。人生空虚じゃありゃせんか。
やめやめろ。
「……ダメだ、本当にもう考えるのやめよう。疲れてるんだ、私……」
家に帰って、ご飯を食べて、あったかい布団で寝て……。
それからスッキリした頭でもう一度、今後の身の振り方について考えよう。
適度にリフレッシュした頭なら、また別の答えや考え方が見えてくるかもしれない。
何の解決にもなっていないただの時間稼ぎの引き延ばしだ。
ただ他にどうすることも出来なくて、奥入瀬はさながら皿屋敷のお菊のような俯き加減で自宅までの道のりを急いだ。
そして、ほんの2、3歩歩いたところではたと足を止めた。
「あっ……音」
耳を澄ませば、どこからともなく聞いたことのある綺麗な音が、風に乗って奥入瀬の元へと送られてきた。
奥入瀬はほとんど無自覚に、音に導かれるようにふらふらと帰宅ルートを外れて歩き始める。
心地良い旋律。
傷付いた心にしっとりと染みわたるような、癒しの音階。
たった4本の弦が奏でる、調律されたハーモニー。
ほとんど絶対間違いなく、ヴァイオリンの音だ。
気が付けば公園まで来ていた。
それなりに大きい自然公園だが、平日の昼間ということもあってか、あまり人は多くない。
しかし間違いなく音の発生源には近付いていた。
そのままフラフラと、まるで街灯の灯りに引き寄せられる蛾のように、奥入瀬は音の方へと吸い寄せられていく。
後のことを考えるのなら、あるいはそれこそ本当に、飛んで火にいる夏の虫だったのかもしれない。
ともかく、そうして奥入瀬は出会ってしまった。
公園のど真ん中。
どこからか集まって来た動物たちの群れに囲まれながら、どこまでも優雅にヴァイオリンを弾き続ける、真っ白な髪の少女に。
■
白く、美しい。
陳腐な言葉だが、その少女を言い表すのにそれ以上の言葉は不要に思えた。
引き算の美学、余計な足し算はいらない。
頭髪、肌、身に付けている衣服の隅々まで無垢色で埋め尽くされた少女は、ただあるがままに美しかった。
白い少女は目を瞑ったまま、穏やかな顔でヴァイオリンを弾き続けている。
まるで絵本の1ページ、それか美術館に飾られた絵画のような光景だ。
彼女の奏でる音色に誘われたらしき動物たち(犬、猫、鳩、狸、外来種っぽい謎生物が複数)は、鳴くでも吠えるでもなく、お行儀よく静かに演奏に聴き入っているようだった。
奥入瀬もまた、動物たちと同じように無言で耳を傾ける。
優しい音だ。
ちゃんとした良いヴァイオリンを使っていることもあるが、少女の腕前もなかなかのものだった。
きっと幼少の頃からキチンとした指導を受けてきたのだろうことが窺える。
お嬢様なのかな。
浮世離れした見た目と雰囲気の少女に、奥入瀬はそんな素朴な感想を抱いた。
「――ふぅ」
やがて演奏はフィナーレを迎え、白いお嬢様が吐息を漏らす。
閉じていた瞼が開かれ、血のように真っ赤な瞳が奥入瀬を捉えた。
なんとなく、気まずい緊張感が走る。
「ご清聴、感謝いたしますわ」
無駄に緊張する人見知りな奥入瀬とは違い、お嬢様は悠々と優雅に美しい所作でお辞儀をする。
一寸遅れて、奥入瀬は一人パチパチと拍手を始めたが、その他のオーディエンスだった動物たちは、もう用はないと言わんばかりに三々五々に散っていった。
なんて現金な動物たち……というかなんだったんだあのアニマルズは。
「……」
「……」
これで完全に二人っきり。
今度こそ間違いなく気まずい。
しかもお嬢様の方も何も言ってこない。
帰る素振りも見せないで、ただこっちの方をジッと見たまま動かない。
これは自分が何か言うべきなのだろうか。
「えっと……演奏、良かったです……とっても」
舌っ足らずで下手糞な感想に顔が赤くなった。
よくこれでVTuberが務まるものだと自分で自分を罵りたくなる。
この程度の賛辞、きっと目の前の少女は貰い慣れているだろう。
そう思ったが、
「ありがとうございます、お世辞でも嬉しいですわ。それでは気分も良くなりましたので、もう一曲」
「えぇ!?」
褒めたら次の演奏が始まってしまった。
そんなつもりはなかったのだが、どうやら間違えて再生ボタンを押してしまったらしい。
月並みな賛辞でも普通に嬉しいものは嬉しかったようだ。
自分の褒め言葉が原因で演奏し始めたとなれば、途中で止めるのも気が引ける。
再度集まって来た動物たちと一緒に、奥入瀬は2曲目も最後まで聞き終えた。
「ご清聴、感謝いたしますわ」
「あ、はい、良かったです」
「それではもう一曲」
「ま、待ってください、なんかすいません、ごめんなさい」
「?」
やはり褒めると次が始まってしまうようだったので、流石に待ったをかけて中断させる。
このままだと無限ループに陥って、どちらかが力尽きるまで演奏会が終わらなくなってしまうから。
動物たちも公園に居付いてしまうかもしれないし……しかもさっきより心なしか数が増えている気がする。
でも演奏をやめさせたのは失礼だったかもしれない。
嫌な気持ちにさせてしまっていたらどうしよう。
奥入瀬はビクビクとお嬢様の顔色を窺うが、当のお嬢様はというと少し首を傾げたくらいなもので、さして気分を害したふうでもなく、ニッコリと微笑んでヴァイオリンから弓を離した。
「わたくしは幽名姫衣と申します。周りからは姫様と呼ばれていますので、どうかそのように気軽に呼んでいただければと」
「ひ、姫様?」
この時代に姫様と周りから呼ばれているとは。
やはりやんごとなかったらしい。
というか何だか何処かで聞いたことのあるような名前だが、どこだったか。
奇妙な既視感を覚える奥入瀬だったが、そんなのは勘違いだろうと切り捨てる。
こんなインパクトのある少女を忘れるはずがない。
それよりも、だ。
名乗られてしまったからには、こちらも名乗らなくては失礼にあたるだろう。
そんな一般常識に煽られて、奥入瀬も慌てて自己紹介を始める。
「私は奥入瀬奏鳴、です。特にあだ名とかはありません……ごめんなさい」
あだ名はなくても、笛鐘琴里という別名はあるのだが、あっちはいかんせんVTuberとしての名前だ。
リアルで顔を会わせている人間にそっちの名前を名乗るわけにはいかない。
顔バレはVTuberとして致命的な致命傷に繋がる。
それくらいのことはプロ意識の低い自分だって分かっている。
分かってはいても、上流階級で人格も優れていそうな姫様に、隠し事などという不埒な真似を働いてしまったことに対し、奥入瀬は反射的に謝罪を口にしてしまった。
「奥入瀬様ですわね、覚えましたわ」
卑屈になる奥入瀬の気持ちを知ってか知らずか(恐らく知らない)、姫様は奥入瀬の名前を咀嚼して、あまつさえ記憶の端に留めておいてくれるらしかった。
本当になんとなく、ヴァイオリンの音色に誘われるがまま辿り着いた公園だったが、思いがけず不思議な出会いがあって良かったと思う。
傷付いて不安定だった心に一服の清涼剤とでもいうのだろうか。
やはり音楽は良いものだと、奥入瀬はそう自らの歩いてきた道のりを振り返り、自分だけに聞こえる声で述懐する。
■
奥入瀬奏鳴は、音楽だけしか取り柄がない人間。
それが客観的に自分を見た時の、奥入瀬の自己評価である。
幼少の頃から両親の影響で音楽に触れて来た。
初めは親の真似事だったが、直ぐに才能があると親に褒められてその気になった。
大抵の楽器はちょっと触っただけで扱えるようになったので、周囲からは天才だ神童だと持て囃されていた時代もある。
それでも天狗になったりしないで、純粋に音楽を楽しみ続けた。
本の虫ならぬ、音の虫といっても過言ではないくらいに音楽に没頭していたのだ。
音楽のこと以外はまるで眼中になかった。
奥入瀬奏鳴は音楽を愛し、音楽に愛された少女
しかし哀しきかな、十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人。
そんな言葉を証明してしまうかのように、奥入瀬の天才性は見る影もなく消失した。
原因となる要素はいくつもある。
例えば、自分以上の才能に出会ってしまったこととか。
例えば、才能を妬んだ人間から、謂れのない悪口を言われたこととか。
例えば、自らの音楽が至らなかったせいで、就職先のテーマパークが落ちぶれてしまったこととか。
例えば、音楽の才能に目を付けた密林配信に拾われたにも関わらず、これといって音楽面での実績を残せなかったこととか。
その他にも色々と小さな原因はあるのだが、しかしここまで挙げた例よりも、もっと深刻で根深い問題が存在している。
それは、奥入瀬が紛れもない天才であったが故に挫折を知らず、壁を乗り越える方法を知らなかったことだ。
壁に当たろうとも、それを乗り越えるかぶち壊して次に進める者を真の天才と呼ぶ。
一度や二度や三度の挫折で心折れて自信をなくしてしまうのであれば、やはり奥入瀬は所詮そこまでの人間だったということなのだろう。
いつしか子供の頃に描いた『夢』さえも見えなくなり、奥入瀬本来の明るかった性格は鳴りを潜め、どんどん暗くてジメジメしてオドオドとしたナメクジみたいな性格になってしまった。
VTuber笛鐘琴里に対するリスナーの評価だって散々なものである。
陰気、声が小さい、よく黙る、演奏もそれほど上手くない、歌はド下手、でも音楽関係の話になると急に早口になる、それがちょっとオタクっぽい。
言いたい放題の言われたい放題だ。
それでも奥入瀬なりに頑張っていたつもりだった。
VTuberとして人気になれば、パークの宣伝にもなって復興の手助けになると有栖原に言われたからだ。
音楽以外の配信にも色々と手を出して、人付き合いの苦手も耐えてコラボに励んだりもした。
でもその些細な頑張りも、今日、有栖原とその王にあっさりと否定されてしまった。
お前は何もしてこなかったと、そう言われてしまった。
本当にあんまりである。
既に折れてしまっていた心を、更に裁断してプレス機にかけて粉々にするような鬼畜の所業。
R18方面へ活動の裾野を広げると言われ、奥入瀬が不承不承ながらも了承してしまったのは、挫折しすぎてやけっぱちの自暴自棄になっていたから、という側面もあったのだ。
■
――でもやっぱり、私には音楽しかないから。
自由に、そして楽しそうに演奏する姫様を見て、幼かったころの自分を少しだけ思い出した。
両親が褒めてくれるたのが嬉しくて、一日中楽器を弾き続けていたこともあったっけ。
今思えば、それこそが自分の原点だったのかもしれない。
――社長と王様の提案は、やっぱり断ろう。
昔を思い出して、もう少しだけ自分の力を信じてみたくなった。
密林配信はクビになるかもしれないけどそれでも構わない。
やりたくもない仕事をさせられるくらいなら、音楽をさせてもらえなくなるくらいなら、こっちから辞めてやる。
奥入瀬の肚は決まった。
「姫様、ありがとうございます!」
「?」
奥入瀬の感謝に姫様は首を傾げた。
こっちの抱えてる事情を知らないのだから当たり前だ。
「ええっと……姫様の演奏のお陰で、自分のやりたかったことを思い出せたというか、なんというか……」
「なるほど、そういうことでしたら、お礼は不要ですわ。上に立つ者として下々の民を導くのは当然のことですもの。むしろ、わたしくまた何かやってしまいましたの? という心境ですわね」
「おお」
この程度のことは日常茶飯事らしい。
流石本物のお嬢様は格が違うなと奥入瀬は思った。
「ところで、後学のために教えて頂きたいのですけれど、奥入瀬様のやりたいこととは?」
好奇心に瞳を瞬かせた姫様が、奥入瀬に素朴な質問を投げかける。
完全なる興味本位なのかもしれなかったが、姫様のような高貴そうな身分の人から向けられる好奇の目は不思議と不快にならない。
むしろ自分のような庶民にも目を向けてくれて嬉しいとさえ思ってしまう。
そんな、飼いならされた庶民代表の奥入瀬は、ちょっぴり気恥ずかしく思いながらも、自身のやりたいことを姫様に教えることにした。
知って欲しいと思った。
誰かに知ってもらうことで、いつかの夢が現実に近付く気がしたから。
「私、音楽をやりたいんです!」
口にしたら肩が軽くなった気がした。
散々思い悩んでいたのが馬鹿らしくなるくらいに。
やりたくない仕事もやるのがプロ?
クソ喰らえだ。
あのお子様社長にはこちらから絶縁状を叩き付けてやる。
それくらいの気概を持って大声で言ってやった。
「まあっ」
奥入瀬のシャウトに、姫様が手を合わせて目を丸くする。
「奥入瀬様も楽器を弾けますの?」
「あ、はい。数少ない自慢ですけど、弾けない楽器はないです……」
言いながら、事実とはいえ自分でハードルを高く設定しすぎかなと、奥入瀬の声は尻すぼみに小さくなる。
あんまりデカいことを口にしても、失敗したときの揺り戻しにまた心折られる可能性もある。
それに今の発言はちょっと謙遜が足りてなかったかもしれない。
自慢が鼻に付いてなければ良いのだけれど……。
反射的に卑屈精神が顔を出してしまった奥入瀬だったが、対する姫様の反応はというと、
「それは素晴らしいですわね」
ニッコリ笑顔で褒め称えてくれていた。
そして姫様はグイっと奥入瀬の方に距離を詰め、
「作詞作曲はどうでしょう?」
と問うてきた。
いきなりの距離感に思わず半歩後退る奥入瀬。
そんな奥入瀬を逃がさんとばかりに、姫様は両手で奥入瀬の右手を包み込むように握り締めてきた。
振りほどくのは簡単そうだけれど、心情的にそれだけはしたくない。
ある意味完璧に捕まった奥入瀬は、とりあえず質問に答えるように、コクコクと首を縦に何度も振った。
「作詞作曲も出来ます……というか実はそっちの方が得意だったり……」
「それは本当に素晴らしいですわね。では、こちらに」
「えっ」
「付いて来てくださいませ」
「えっ、あの、えぇ?」
姫様はヴァイオリンケースを片手に持ち、もう片方の手で奥入瀬の手を引きながら歩き始めた。
手を振りほどくような乱暴な真似を姫様相手にしたくない奥入瀬は、そのままずるずると引っ張られて何処かへと連れていかれる。
わけが分からないまま。
そして――
■
「代表様、作曲の出来る方を見つけて参りましたわ」
そして、公園でヴァイオリンの練習をしてくると言って出掛けていた幽名が、見ず知らずの女の子を拉致って返って来た。
俺は、幽名の後ろで涙目になってビクビクしている少女を見て、またもや厄介事が舞い込んできたのだと胃を痛めるのだった。
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