歌ってみたと気軽に言うけど

「コノ世の中はフジユウキワマリないデース! ヒトはもっとジユウであるべきだと思いマース!」


 ドカーンと、事務所のドアが吹っ飛んで粉微塵になって消し飛ぶんじゃないかという勢いで姿を現したのは、FMKきっての良心であるメリーアン・トレイン・ト・トレインことトレちゃんだった。

 いつも元気な挨拶と同時に飛び込んでくるトレちゃんにしては珍しく、今日はなんだか啓蒙活動家みたいな入り方をしてきたので、その場にいた全員が面食らってしまっていた。


「えーっと、どしたのトレちゃん?」


 一番最初に我に戻ったのは一鶴だった。

 FMKの自己紹介切り抜きを見終えた一鶴は、よほど暇だったらしく、お笑い芸人のコント動画を見てゲラゲラ笑っているだけ邪魔者になっていた。なので、そろそろ摘み出そうかと思っていたのだが、トレちゃんの相談役になるのならもう少し様子をみてやるとするか。というか暇なら配信しろ。


「聞いてくだサイ、イヅル! セッカクVTuberにナレタのに、ワタシの配信にはジユウがないんデス!」


「そうなの?」


 と言って俺を見る一鶴。

 こっちに振られてもな。

 トレちゃんが何を問題視しているのか俺も把握出来ていない。

 完全に寝耳に水の状態である。


「トレちゃん、不満があるなら俺が直接聞くけど、何かあったのか?」


「オオアリデス!」


 時間的に学校終わりから直接事務所に飛んで来たであろうはずなのに、何故か当然のようにエプロンドレス着用の完璧なるメイド姿のトレちゃんは、可愛い顔をぷくっと風船のように膨らませて怒りを表現した。


「ワタシはもっとジユウにウタ枠をヤリたいデス! デモ、アレもダメ、コレもダメのガンジガラメでノーフューチャーデスよ!」


「それはフューチャー・マジェスティック・ナイツとしては放っておけない問題ね。よく分かんないけど、きっとそう」


「デスよネ!」


 フューチャー・マジェスティック・ナイツって言うのやめろ。

 それはともかく、今のやり取りでトレちゃんの言いたいことは大体分かった。


「つまり、著作権うんぬんの問題で、好きな歌が歌えないことに文句を言いたいわけか」


「ソレデス!」


 なるほどな。

 著作権絡みの問題は配信者として活動する以上は避けては通れない道と言える。

 この世に五万と存在している知的財産の数々は、基本的には著作権者の許可がなくては勝手に使ってはならないのが絶対の掟だ。


 世間一般の人間は著作権に対する意識がガバガバなので、平気でアウトゾーンを踏み越えて、本来著作権者の許諾なしに使用してはならない曲だったり画像だったりを無断使用して問題になっているのをよく見かけたりする。

 昨今のSNSや大型掲示板などにも、普通に漫画の1ページないし1コマを切り取った画像が張られてたりすることがあるが、ああいうのも基本的には黒寄りの黒だ。親告罪なので著作権者がその気になれば大事になりうるくらいには黒い。

 もはやネット社会の日常となっているそういう文化も、著作権者の寛大なお目こぼしによって見逃されているだけということを忘れてはならない。


 で、だ。

 知的財産というからにはそこにはゲームや音楽も当然内包されており、動画投稿者や配信者がそれらの著作物を使ってコンテンツを生成し、尚且つそれで収益を得ようと思うと、様々な条件をクリアしなくてはならない。


 ゲーム作品(商業)に関して言えば、今は昔とは違って各ゲーム会社が専用のガイドラインを設けているので、その内容に沿って動画投稿や配信をする分には問題ないことになっている。収益化についてもガイドライン次第だ。ただ個人と法人によって扱いが違うのでそこだけは注意が必要だが。

 FMKは一応法人で団体だ。所属しているタレントは個人事業主だが、そこら辺のガイドラインは法人向けのものを参照しなくてはならない。

 そして音楽関係はもうちょっと権利関係が複雑だったりするので厄介な印象が強い。


「そうだな……ちょっとトレちゃんが配信で歌いたい曲をリストアップしてみてくれよ」


「ハイ、コレデス」


 用意周到なのか元からまめにメモしていたのか、トレちゃんはスマホのメモ機能に書かれたリストを俺の眼前に突き出してきた。


「なるほどな。この曲とこの曲と、それからこの曲も配信じゃ使えないかな」


「エー!?」


 トレちゃんはこの世の終わりみたいな顔で叫んだ。

 OMGとは叫ばないのか。


「著作権があるから使えない曲があるのは分かるけど、逆に使ってもいい曲があるのはなんで?」


 ショックで打ちひしがれるトレちゃんをよしよしと慰めながら、一鶴が純粋な疑問を口にする。

 VTuberに関してはそこそこ勉強していても、そこらへんの権利関係については一鶴もあまり調べていないらしい。


「えーっとだな……大抵の動画配信サイトなんかは、楽曲関係の著作権管理団体と包括契約を結んでたりするんだが、その管理団体が著作権を管理している曲に関しては、個別に許可を取らずに配信サイトで利用してもいいことになってるんだ」


「じゃあさっき配信じゃ使えないっていった曲は、その著作権管理団体が権利持ってないのね」


「そういうことになるな。もしどうしても使いたければ、著作権者本人に直接交渉して許可をもらうしかないかな」


「交渉シテ欲しいデス……」


「そこは任せておいてくれ」


 トレちゃんに涙目で言われたら俺も頑張らざるを得ないな。

 そこらへんをサポート出来なくては企業勢VTuberの意味もないし。


「ちなみに管理団体のデータベースで管理楽曲の検索が出来るから、今後は自分でどの曲が使えるのか調べておいてくれ」


「ハイ! ワカリマシタ!」


 ちょっとだけ元気を取り戻したトレちゃんが、いつも通りの快活さでビシっと敬礼した。

 やけに様になっている敬礼だな。


「で、注意して欲しい点があるんだが、楽曲の利用が許可されているって言っても、CD音源やカラオケ店で使われてるような音源は勝手に使ったらダメだからな」


「音源そのものにも著作権があるから?」


 気は狂ってるが地頭は悪くない一鶴が、正解を言い当てる。

 頭は悪くないのにな……別の部分が残念過ぎるんだよね……。 


「……そうだな。もしCD音源やカラオケ音源を使おうと思ったら、やっぱり著作権者に交渉して許可を取る必要がある。特にCD音源は許諾を取らなきゃならない相手が多くて手続きもその分大変になるな」


「相手が多いって具体的には?」


「作詞作曲者、アーティスト、レコード製作者……辺りになるかな。著作権の他に著作隣接権ってのも存在してるから楽曲制作に関わってる人間が多いほど許諾の難易度も上がるって思ってくれていいよ」


「へー、なんだか面倒なのね」


「メンドーすぎマスよ!」


 頭から煙をプスプスと出しているトレちゃんが慟哭する。

 楽曲が抱える権利関係の問題に頭を悩ませる配信者は多い。特に歌ってみたのような歌唱系をメインに据える人間にとって、著作権は面倒なしがらみに感じることもあるだろう。

 だけどこれらは全て著作権者を守るために必要なことなのだ。

 自由にやりたいことをやりたいトレちゃんは、今は周りのことが見えていないかもしれないが、しっかりと勉強すればこの著作権ってやつがいかに大事かを理解出来るはず。

 まあ、そこら辺はおいおい学んでいけばいい。

 今は音源の話だ。  


「で、その面倒な手続きをクリア出来るのならCD音源を使ってもいいわけだけど、そんな時間と手間のかかることをするくらいなら、自前で音源を用意したほうが早いし安上がりだ」


「なーる。自分で演奏したり、依頼してカラオケ音源を作ってもらったりすれば、そこは問題ないってわけね」


「だな。一応フリー音源が公開されてる場合もあるから、そっちも探してみたりするといい。ああ、それとオリジナル音源使うのは問題ないけど、編曲したりするのにも実は別個に許可を取る必要があったりしてだな――」


「モー! ヨク分からナイので全部事務所に丸ナゲしマス!」


「はい」


 トレちゃんが頭を爆発させてダウンした。

 歌ってみたなんてソフトなジャンル名だけど、しっかりと許可を取ろうとすると名前ほど気軽に挑めるジャンルではない。

 著作権関係は本当に複雑だからな。俺も最近になって勉強し始めたばかりで完璧には程遠いし。

 ただ、トレちゃんたちは企業勢という枠組みの中で活動している以上、そこらへんをなあなあで済ませてはならない。

 その分不自由は感じさせてしまうだろうが、不平不満は今みたいに俺にぶつければいい。もしくは七椿に。


「著作権者との交渉とか出来る限りのサポートはするから心配するな。ただ音源作成に掛かる費用なんかは、場合にもよるけど自費で頼むぞ」


「えー、なんかケチじゃない?」


「ケチじゃない。そこまで含めての活動費1000万支給だったんだからな」


「ゔっ」


 一鶴が絞められた鶏のような声を出した。


「配信で使うゲームの購入費や、曲の費用まで事務所が全部負担してたらキリがないだろ。甘えるな」


「くそぉ、あそこで11番が上がって来なければなぁ」


 未だに日本ダービーでの負けを引きずってる一鶴がぐちぐちと未練を口にする。

 絶対反省してないだろ、コイツ。


 それにしても音源か……今後トレちゃん以外にも歌枠をやりたいって人は出てくるだろうし、リクエストがある度に外注するのも面倒っちゃ面倒だな。フリーのカラオケ音源は権利関係が怪しいものも転がってるから企業勢としては触れがたいし。

 いっそ社内にDTMの経験有りなスタッフでもいれば良いんだけど。


「一応聞くけど七椿はDTMとか出来たり」


「しません」


 食い気味に否定されてしまった。

 事務系万能の七椿も、特殊技能が必要な分野は流石に難易度が高いか。

 となるとFMK所属のライバーたちはどうだろう。

 瑠璃はリコーダーも吹けないレベルだから除外するとして、


「一鶴も聞くまでもないか」


「一応聞いてよ」


「DTM出来たりする? 音源作って欲しいんだけど。いっそ生演奏でもいいぞ」


「今から勉強するから教材買う金を貸して」


「こいつも除外っと……トレちゃんは」


「ソレガ出来たら相談シテマセン! 楽器弾ケタラ弾きガタリして歌ってマス!」


「だよな」


 残るは幽名だけだが、パソコンに触ったのもついこの間が初めてな箱入り娘に、DTMなんて単語はそもそも理解すら出来ないだろう。

 ワンチャンお嬢様時代の英才教育で楽器の演奏くらいは出来るかもだが……。


「まあ望み薄かな」


「音関係に強い人材をどっかから探して来るしかないんじゃないかしら?」


「うーん、やっぱり次に仲間にするなら音楽家ってことか」


「コックと航海士が足りてないけど?」


「まずは音楽家だろ、だって海賊は歌うんだぜ」


 国民的海賊漫画ネタを擦って一鶴とゲラゲラ笑っていると、不意に事務所の扉が静かに開かれた。

 うちの事務所の扉を丁寧に開けてくれる人間で、この場にいないのは幽名だけだ。

 そして扉の向こうには案の定幽名と、その後ろに瑠璃が立っていた。

 二人してU・S・Aでお茶してくると言っていたが、随分と長い間お喋りしてたもんだ。もうすぐ晩飯時だってのに。


「御機嫌よう~。トレちゃん様もいらしてたのですね」


「ヒメ様、ゴキゲン麗しゅうデス! ルリも!」


「私はオマケ? 珍しいね、トレちゃんが二日連続で顔見せるなんて」


「代表さんに相談ガあったノデ、ジカダンパンしにキマシタ」


 どこで覚えて来たのか微妙に難しい日本語を使うトレちゃんは、身振り手振りを交えて歌枠での悩みを瑠璃たちにも説明し始めた。


「音関係は今どこも厳しいから仕方ないんじゃない? 文句言っても解決にならないと思うよ」


「ウウム、ソレはソウなんデスケド」


「私らは企業勢なんだから気を付けないと最悪炎上だよ? 分かってる?」


「……スイマセン」


 話を聞いた瑠璃は少しばかりドライな対応をトレちゃんに返した。

 瑠璃は俺以外の人間にも時たまこうやって冷たいことを言う時があるが、決して相手が嫌いとかそういうわけじゃない。

 今の言葉だって、本心ではトレちゃんが間違いを犯さないように気を使って注意しただけなのだ。

 ただ口が悪くて、あまり言葉を選ぼうとしないが故に誤解されがちなだけだ。


 しかしまだ付き合いの浅い仲間たちが、瑠璃の性格を完璧に把握出来ているわけがない。

 元気一杯がトレードマークのトレちゃんがしょげてしまい、なんとなく事務所内の空気が重くなる。

 こういう時に限って、ライバーの中で一番の年長者である一鶴はクソの役にも立たない。関わりづらそうにしながら沈黙を貫いている。どうでもいい時はうるさいくせに。


 仕方ないので、いつものように俺が何か適当なことを喋って空気を変えようと思ったが、その前に空気を読めないお嬢様が、


「少しよろしいでしょうか」


 と話に割って入ってきた。

 誰もダメだと言わなかったので、それを肯定と受け取って幽名が言葉を続ける。


「話を聞かせていただきましたが、ようするに人様の作った曲を勝手に使うのは世間的に許されない、という認識でよろしいですわね?」


「そうだな」


 幽名が話をしっかりと理解して付いて来れていることに感動を覚える。

 いや、幽名も常識がなさすぎるだけで、一鶴同様に地頭は悪くないんだよな。

 そんなゼロからのスタート故に伸びしろが人より多い箱入り娘は、不思議そうな表情で人差し指を顎に添えながらこう言った。


「人様の曲を自由に使えないのでしたら、自由に使える自分だけの曲を作ればいいではありませんの」


 パンがなければケーキを食べればいいと言ったマリー・アントワネットの迷言を彷彿とさせるような口調で、幽名はさらりとこの問題に対するもう一つの解決策を口にした。

 そう、歌ってみたのように、他人の曲をカバーするだけが歌唱系VTuberの道ではない。

 唯一無二の自分だけの楽曲――オリジナル曲を世に送り出すのも、一つの選択肢として存在している。


「オリジナル――デスカ」


 しょげていたトレちゃんの顔の明度が徐々に明るくなっていく。メイドだけに。


「いいデスネ、ソレ! オリジナル曲もヤリタイデス!」


「ええ、是非やりましょう。わたくしも微力ながらお手伝いさせて頂きますわ」


 幽名が楽曲制作の何を手伝えるんだろう。

 疑問しかなかったが、やる気になっている二人に水をさすような真似は俺も瑠璃もしない。

 むしろ所属ライバーがやりたいことを明確にしているのなら、それを応援するのが俺の仕事だろう。


「オリジナル曲の制作ね。歌の歌唱許可やカラオケ音源の用意と並行して、そっちも企画しておくか」


「ホントデスか!? サンキューデス代表さん!」


 喜びを露わにするトレちゃんが、勢いあまって俺に抱きついてきた。


「うおわっ!?」


 柔らかい柔軟性に富んだ物質が布越しに俺の身体に当たる。

 これは……オッパイじゃな。


「ちょっと! おに――代表! なにやってんの離れて!」


「はっ!?」


 瑠璃に言われて慌ててトレちゃんを引き剥がす。


「ストップフリーズ、ドンムーブ! トレちゃん、そっちの国じゃあどうか知らんけど、日本じゃ気軽に異性にハグるのは求愛行動と取られかねないんだが???」


「オゥ……ソレはスイマセンデス。そういう気はコレッポチもナイノデ安心してクダサイ!」


 これっぽっちもないのか……。

 ちょっと残念がっていると、他の誰にも見えない角度で瑠璃が拳を仕掛けてきた。痛い。

 というかトレちゃんは高校生。手を出したら俺の両手に鉄の輪っかが嵌められることになる。

 トレちゃんには俺に対する過度なスキンシップをしないよう個別に注意するとして、話を元に戻すとしよう。


「とりあえず、トレちゃんには不自由を強いるようで申し訳ないが、配信での楽曲の扱いは今後も著作権に則って厳しくいくしかないと思う。ただ好きな曲を歌わせられるよう、こっちでもしっかりとバックアップはしていくからそれを忘れないでくれ」


「ワカリマシタ。ワガママ言っちゃってスイマセン。リバティ自由は簡単ニハ手に入らナイモノ、というキホンゲンソクを忘れてイマシタ」


「気にしなくていい、そういう意見に耳を傾けるのも運営の仕事だからな。また何かあったら言って欲しい」


「ハイ!」


 むしろトレちゃんの我が儘なら全然聞いてやりたいね、俺は。

 他のモンスターガールどもの普段の暴走に比べたら、今日のトレちゃんの愚痴なんて可愛すぎて涙がちょちょぎれるね。


 その日はそれでお開きとなった。

 トレちゃんは家で配信したいらしく、話が終わると直ぐに事務所を後にした。

 一鶴と瑠璃はスタジオで適当に配信をしてから、それぞれのタイミングで帰っていった。


 一方幽名は、なにやら調べたいことがあるからと言って今日は配信をお休みすると言い、事務所のパソコンを使って何かを検索していた。

 両手の人差し指だけでキーボードを叩いていたが、この間初めてパソコンに触れたにしては使い方をちゃんと理解している方だと思う。

 何を調べているのかは聞かなかったが、翌日すぐに調べ物の内容が明らかになった。


 ■


「ちょっと、お茶の水という所までお買い物をしてきますわ」


 幽名はそう言って、一人で早朝からフラフラと出掛けて行ってしまった。

 心配と言えば心配だったが、スマホは持たせてあるし、ナビアプリの使い方も教えてある。

 それに社会勉強の一環として買い物くらいは一人で行かせるべきだろうと判断して、あえて付いて行かなかった。

 幽名にも早く自立して欲しいしな。いつまでも事務所に居候させておくのも問題がありすぎるし。一鶴やトレちゃん相手に誤魔化し続けるのにも限界がある。


 瑠璃がいたら勝手に買い物に付き合ったのだろうが、生憎とアイツは今日も学校だ。

 平日でも幽名が自由に行動出来ているのは、あいつがお嬢様学校から追放されてしまっているからだ。

 一度復学させてやれないかと思って、幽名が通っていた聖那須野院女学校に問い合わせてみたのだが、幽名については決して追放処置を取り消すことは出来ないと言われ、それ以上は取り付く島さえなかった。

 なにか奇妙……というか不気味なくらい、学校側は幽名について話をしたくないような空気感を出していたのが気になったが、ほとんど他人である俺が出来ることはそれくらいなものだった。

 あとは行方不明になっている幽名の両親さえ見つかってくれればいいのだが、そちらの手がかりもまるでゼロの状態だ。

 調べると言っていた七椿もまともな成果を挙げられていない様子だったし、仕方ないだろう。

 警察には届け出ているので何か分かれば報せてくれるはずなので、そっちに期待するべきだ。


 それはさておき。

 俺が今の幽名を一人で買い物に行かせたのが間違いだったと気付いたのは、高級そうなヴァイオリンケースを抱えたお嬢様が事務所に戻ってきてからだった。


「あのー、姫様。そのヴァイオリンケースのようなものは一体……」


 俺が恐る恐る尋ねると、お嬢様は誇らしげな顔付きで戦利品を胸元に掲げてみせた。


「ヴァイオリンですわ、昨日調べたお店で買ってきましたの。これで楽曲制作のお手伝いをと思いまして」


 楽曲制作……幽名なりにトレちゃんの力になろうと考えた末の行動なのだろう。

 そもそも幽名にヴァイオリンとか弾けるのかとかはともかく、だ。


「な、なるほど。ちなみにそれ幾らしたの?」


「お値段のことでしたら、ほんの880万円ほどの手頃な価格でしたわ。幸いにも事務所から頂いた1000万がありましたので、ありがたく使わせて頂きました」


「金銭感覚バグってる」


 買い物に行かせる前に庶民の経済感覚を刷り込ませておくべきだった。

 そんな感じでとうとう幽名までもがド派手に散財したのだった。

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