6.5 わたしもう戻れない

 蒼一を拒むように、空模様は荒れに荒れた。通い慣れた表参道を登りきった先で、濡れた石畳に映る雨雲が波紋に乱れ、雷鳴が間断なく空気を震わせている。

 さんざん鍛えた蒼一の足も、ストライキを起こす寸前まで熱を帯びている。体中の細胞に脅迫されているように肺と心臓がフル稼働するから、頭痛はどんどんひどくなる。倒れ込んでしまえばどれほど楽になるかしれない。

 それでも、彼は決して頭を下げなかった。少女の元にたどり着いて話をするまでは、痛いだの辛いだのこぼしていられない。大きく数度深呼吸し、気持ちと体を力づくで落ち着かせて二の鳥居をくぐる。


 想い人は、果たして、そこにいた。


 本殿の軒下で雨を避け、膝を抱えて座る紗夜の姿は、いつも以上に小さく見える。

 だが、立ち上らせる気配は黒く、境内はおろか鎮守の森一帯を飲み込まんとする勢いだ。あと数メートル進めば彼女に触れられるというのに、輝きの消えた瞳で見据えられた蒼一の体はいうことをきかなくなる。目の前の少女が放つ圧に、固めてきたはずの決意が押し負けそうだ。


『蒼一クン、よクこコこがわカッタね』

「あんたが他に行きそうなところも知らねぇしな」


 魔物と化した荒城がそうであったように、今の紗夜の声は歪みきっている。浮かべている笑顔は、まがい物を無理やり貼り付けた不気味さだ。脳髄を直接引っ掻き回されるような不快感に襲われた蒼一だったが、こんなところで膝なんかついてられねぇとばかりに、なけなしの根性を振り絞る。


『なにシニ来タノカな?』

「少し、話をさせてくれよ」

『話? 何の?』

「グロリアと俺の関係だ」


 緊張は、空気が喉にへばりつくような息苦しさを生む。蒼一もつかえないように言葉を絞り出すので手一杯だ。


「付き合ってるとか、そういうんじゃねーんだよ。それは本当だ」

『ナら、ドうしてグロリアサんは、蒼一くンノお家ニ来てタの?』


 弁解は鼻で笑われた挙げ句、下手な直球よりも容赦ない質問が、少年の懐にさしこまれる。


「クラスメイトの見舞い以外に、理由なんてねぇだろ」

『……蒼一クん、見テナいノかな? ぐろリアさんが持ッテた買イ物袋の中身」

「食いモンだよな?」

『ソウ。ソれも出来合いのもノジゃナくて、全部、お家で料理シナきャイけなイモのダよ。クらすめイとノオ見舞いに、包丁と火ガ必要な食材はオカしクない? 本当ニフツうの関係かナ? おマケに玄関の鍵まデ持ッテたんダから、答えは出テルモ同然じャなイ?』


 それはあいつが俺の母親オフクロだからだ――。


 留学生たるグロリア・ヴァイオレットと、母である花泉紫音を統合で結びつけたとして、果たして信じてもらえるか。答えはおそらく、否だ。

 決め球を封じられて窮する蒼一から目を離さぬまま、魔女は境内へ降りてくる。自宅の庭先とは違う、背に一本芯の通った立ち姿だが、宿る真意は伺いしれない。


『わタシネ、実は、見ちャッたンだ』

「……何をだよ?」

『夏祭リノ夜に、蒼一くン、グロりあサんのことおブっテ帰ったデシょ』


 蒼一は呆然と立ち尽くす。

 よりによって、紗夜に――一番見られたくない相手に、一番見られたくないところを見られていた。

 言い訳の糸口もみつけられない少年に向けて吐露される心情は、今や恨み節の様相をていしつつあった。


『グろりアさン、すごイ嬉しそウダッたし、蒼一くンモマんザらでモない顔シてたし。預カり知らナイトころで信頼関係築かレちゃってタら、わたシが割ッて入る隙間なんテ、最初かラないも同然じャない……!』


 一方で、言葉に感情が乗るにつれ、紗夜を覆い隠していた能面が徐々に剥がれてゆく。


『わたシはね、蒼一くん。本当ノことを知リたいの』


 語ってはいけないことを黙っている、という蒼一の誠実さは、紗夜からすれば裏切りと大差ない。すれ違いはやがて亀裂となり、静かに広がってゆく。


『本当のことを話してくれたら、きっと諦められるの」


 思考が白く染まった蒼一の眼に、石畳の僅かな窪みに生まれた水面に、紗夜の微笑みが映る。

 それはどこまでも穏やかで、強い夏の日差しにさらされたらきっと消えてしまうと確信させるほど脆く、儚かった。


「夢も、恋も、なにもかも――」


 瞬間、少年の背後で、何かが弾け飛ぶ音がした。

 彼の人並み外れた動体視力でも捉えられない、その犠牲になったのは鎮守の森の木々だろう。末路は見なくともわかり切っている。

 

 桃香さんのいったとおりだった――。


 左の瞼の上辺りから溢れた生暖かな感触が、やがて頬を伝う。

 彼が抱えるは、もはや砂上の楼閣ろうかく同然だった。明確な根拠に裏打ちされた紗夜のを撤回できる余地が見当たらない。言葉での説得は成立の見込みゼロ、力で抑え込むのは不可能。

 もはやここまでか、と白旗を揚げかけた蒼一は、変化しつつある紗夜に気づく。

 こぼした雫は、足元を覆う水膜に溶けて消えた。素直に重力に従うそれに、絶望を煮詰めた黒の気配はない。


「ねえ、蒼一くん、本当のことを教えてよ」


 彼女の声につきまとっていた歪みも、いつの間にか消え、馴染みのある透明感を帯びていた。帰ってきたのは蒼一の好きな響きだ。

 でも、訴えは悲痛で、風雲急を告げるものだ。


「このままじゃわたし、またあなたを傷つけちゃう。本当は……本当はそんなこと、したくないのに!」

「紗夜!」


 膨れ上がる一方の力に抗う悲鳴に蹴飛ばされ、蒼一はようやく呪縛から解き放たれた。まだ紗夜を引き戻せると信じて踏み出し、手を差し伸べる。

 だが、彼女の意志の力は、もう限界に来ていたらしい。涙すら洗い流す雨模様の下、細い指先を震わせる少女の足元で、影に潜んでいた【瘴気】が再びうごめきだす。


「ごめん、蒼一くん、わたしもう戻れない――!』


 拒絶の言葉を聞いてなお、蒼一は退かなかった。

 しの突く雨粒が流線の果てで弾ける様はもちろん、紗夜から放たれた黒い塊が自分に牙をむく一部始終までつぶさに見える。

 凍りついた時の中、少年の脳裏に浮かんだのは、走馬灯か、好きな女の手で逝ける仮初の救いか。

 迫りくる瘴気を前に、苦痛の果ての安楽に身を委ねかけた蒼一だったが――その身に絶望が降りかかることはなかった。

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