6.6 それが母親の努めだから

 少年と魔女の間に飛び込んだ薄紫色の疾風が、黒い殺意を遠い空へと弾き飛ばす。


「おまたせ、蒼くん」


 これ以上ないタイミングで颯爽と現れた魔法少女は、大柄な蒼一をこともなげに抱きかかえ、紗夜から一足飛びで距離を取る。その力強さに、不意打ちと人事不省の影はない。陽の光のささない雲の下だというのに、彼女の長靴ロングブーツも、装束ドレスも、ゆるく波打つ髪も、眩いばかりの輝きを放ち続けていた。


「来て、くれたのか」

「大切な人が待ってるんだもの、来ない理由なんてないわ」


 母親の無事で安心したか、折からの体調不良が牙を剥いたか。降ろされた蒼一は抗しきれずにガクリと膝をついてしまう。


「よく頑張ったわね」


 蒼一の頭の上から、冷たい雨とともに温かい母の声が降り注ぐ。女性としては上背のあるグロリアの背中は、普段よりずっと大きく見えた。

 

「無理に立たなくて大丈夫。あとは私にまかせて」


 幾度目かわからない変貌を遂げた紗夜に睨みを効かせつつ、蒼一をかばうように立ったグロリアに、鼓膜をろうさんばかりの大音声だいおんじょうが襲いかかる。

 とっさに頭を下げ、耳をふさいだ少年の眼前で、魔法少女は小さく指を鳴らした。

 直後、親子の視界の隅で、弾き飛ばされた瘴気が雲を破き、その向こうの青空を垣間みせる。天使がラッパでも吹きながら降りてきそうな風情だが、そちらに意識をとられるものなど、この場には誰もいない。


「……間に、合った、か! 無事か、蒼ちゃん、グロリア!?」


 瘴気の眷属に堕ちた紗夜、冷静に魔女の動きを見定めるグロリア、座り込んだまま置き去りにされかかっている蒼一。桃香が姿を見せたのは、均衡がギリギリ保たれている最中さなかだった。

 三十代半ばながら均整の取れた身体の彼女でも、表参道はいささか急に過ぎたらしい。息も絶え絶えで酸欠の一歩手前という頼りない足取りではあるが、動けない蒼一に寄り添い、境内をひとしきり観察するのは忘れない。当然、その目は変貌しつつある少女も捉えている。


「わかってるね、グロリア!」


 遅かったか、とばかりに膝を叩いた桃香は、荒れる呼吸をなだめすかす間すら惜しみ、叩きつける雨と唸る風の音に負けまいと声を張り上げる。ひたすら的確で、限りなく明確で、かつ残酷な事実を伝えるために。


藤乃井くんあのこは魔女だ! 魔女に対してやることは何だ? 『例外なく殲滅すべし』だ!」


 殲滅。

 真っ白な頭に入り込んできた絶望に体を震わせた少年は、ただただ、視線を彷徨わせるばかりだ。


「魔法と縁がないものは、【瘴気】に魅入られれば異形に変わる。でも彼女はそうじゃない、人の姿を保ってる。その意味を忘れたとはいわせないぜ、グロリア!」


 グロリアは振り向かないし、何も応えない。

 沈黙を迷いと捉えたか、指揮官は念を押すように呼びかけ続ける。


紗夜あのこが魔法少女で、それ故に魔女に堕ちた、他に何があるんだ!」


 神社ここに来る前に、蒼一は可能性を聞いていた。覚悟も決めていたはずだった。それでもなお、彼の呼吸と鼓動は早まり、脳の真芯から滲み出た恐怖に感覚をどんどん奪われてゆく。

 桃香の言葉が真実なら、グロリアと魔女さよがぶつかって、両方無事で済むことはない。想いを寄せる少女と、大切な母親、いずれか一方が失われる。


「本当に……助けらんねぇのか?」


 事態が終局へと転がり落ちる直前、すなわち今以外に機はないと絞り出した少年の問いは、図体からは想像できないほどに細くかすれている。


「蒼ちゃん、あの娘はもうルビコン川を超えちまった。戯言をいってられる時期は過ぎてる」

「俺に弾ぶっ放したときにさ、あいつ震えてたんだよ。わけわかんねぇ力に押しつぶされそうになってんのに、俺のこと傷つけたくねぇっていってくれたんだ。俺は本当のこと話してやれなかったのに」


 少年の悲痛な訴えを踏みにじるように、瘴気は紗夜から、可憐な姿を奪ってゆく。頭のてっぺんからつま先に至るまで漆黒に塗りつぶされているせいで、爛々と見開かれたまなこと、絶望と悪意を煮詰めたような昏さの瞳が返って目立つ。

 そんな彼女は、今や機嫌一つで天候までも思うがままだ。小さな背から再び飛び出した三対六枚の翼を振るえば、肌を切り裂きそうな風が集まり、身をすくめさせる稲光が宙を駆ける。甘美な力に溺れた魔女にはもう、あの健気な面影はない。

 それでもなお、蒼一は祈る。

 両親との思い出あふれる神社の再興という目標へ、真っ直ぐ進む紗夜。

 中途半端で宙ぶらりんな蒼一に呆れもあざ笑いもせず、支え、後押ししてくれた紗夜。

 たとえどんな姿に堕ちようとも、彼女の本質はそこに在る。そう信じたい、そうあってほしいとこいねがうのだが――蒼一の手中に、事態を変える力はない。


「あいつを助けてやってくれよ、頼むよ」


 両膝をついてうなだれ、やっとの思いで口にした懇願の言葉は、神域の主すらきき逃してしまいそうなほど、弱い。


「まかせて」


 でも、本当に届いてほしい相手に伝えるには、それで十分だった。

 ずっと引き結ばれたままだったグロリアの唇は、息子の言葉をうけてついに、ほころぶ。

 

「私があの魔女を【救済】します」


 紗夜が打ち放った瘴気を吹き飛ばした手の甲が、醜く焼け焦げ、ぶすぶすと煙を立てる。そんな傷など知ったことかとばかりに、グロリアは高らかに宣言した。


「バカなこというんじゃない、グロリア! こんな真っ昼間から活動し始める魔女相手に、【救済】なんて成立しない! やらなければこっちがやられるんだぞ? そんな余裕どこにある? 考え直せ!」

「ごめんなさい、桃香。それはできないわ」


 いつになく強い調子の桃香の言葉を、グロリアはやんわりと、しかし有無をいわさぬ態度で拒絶した。

 魔女の【救済】に挑んだ先達も、同期も、後輩も、例外なくたおれている事実は当然知っている。それでも彼女の決意は揺らがない。

 

「……魔法少女は全知全能でも万能でもない。できないことをできるという気はないわ。愛する人のお願いでも、それは変わらない」

「急になにをいいだすんだ、グロリア……?」


 振り向かずに語る魔法少女の瞳に何が映っているのか、蒼一たちにはわからない。魔女に堕ちた少女か、風と雨に揺れ続ける鎮守の森か、沈黙を保った神社の本殿か、それとももっと向こうに広がるなにかか。


「だからこそ、可能性から逃げ出したりしない。大人らしい背中を見せる。それが母親わたしの努めだから」

「……そこまでいいきるからには、勝算はあるんだろうね、グロリア?」

「大丈夫よ。やるわ」


 穏やかな人当たりと物腰で覆い隠された心の強さを持ち、ここぞという局面では絶対に譲らない。さりとて長い問答をしている時間的猶予もない。

 ためらいなく答える魔法少女を前にこれ以上異論を唱えても無駄と判断したか、指揮官はそれ以上口を挟まなかった。

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