5.7 今のお母さんには、それだけで十分よ

 グロリアの大技が過ぎ去り、頬を撫でていた穏やかな熱波の気配が薄れてようやく、蒼一は伏せていた顔を上げた。

 青い宵闇が【転調】の終わりを告げる一方で、球場の亡骸の外からは、いまだ収まらぬ混乱と喧騒の声がする。グラウンドは荒れたままだが、禍々しいあの気配は微塵もない。資材が燃え焦げる臭いが、現世に帰ってきた実感を蒼一に与えてくれていた。全ては、グロリアが成し遂げた証明だ。

 そんな功労者は、窪みの真ん中で両手両膝をついてうずくまり、動けずにいる。


「オフクロ!」


 大きく上下している背と肩をみるに、必死に酸素を求め喘ぐのが精一杯らしい。プラチナブロンドの髪色はそのままで、大人しおんの姿でもないが、魔法少女装束ドレスは維持しきれなかったか、紺に紙風船の浴衣姿にもどっている。

 蒼一はカメラを放り出さんばかりの勢いで駆け出した。不安定な斜面に足をとられ、こけつまろびつしながらもどうにか母親のもとにたどり着くと、背中を撫でて落ち着かせようとする。


「ほら、ゆっくり吸って、吐いて」

「だい、じょう、ぶ」


 グロリアも気丈に答えてみせようとするが、言葉を続けられずに咳きこんでしまう。立ち直るにはしばし時間を要しそうだが、グラウンドは相変わらず空気が悪いまま。どうにか場所を変えたいところだ。


[……つながった?]


 そんな二人のもとに、蘇った通信が指揮官の声を届ける。


[グロリア、蒼ちゃん、大丈夫かい!?]

「二人とも生きてるけど、オフクロは話せる状態じゃないっす! 桃香さん、どうすりゃいい?」

[なるべく人目がつかないように、現場を離れられないか? そこにいたと知られるのは厄介だからね]

「どうやって? 人がいなさそうな場所なんて、ぱっと思いつかねぇよ」

[こちらから指示を出す。どうにかグロリアを連れてきてくれ、蒼ちゃん]


 初めて訪れる運動公園、それも大混乱の最中という状況では、桃香だけが頼りだ。

 考えるのを大人に任せた蒼一は、なんとか息を戻しつつあるグロリアを背負うと、あたりをひとしきり見渡す。瘴気のいない今、視界を遮るほどの濃い煙はない。足元は不安定だが、今は泣き言をいえるときではない。そうわかれば、何を差し置いても、まずは地獄のすり鉢から抜け出すのが先決。空気の濁った場所にグロリアを留まらせてはおけないし、程なくやってくるであろう警察や消防と鉢合わせしたら面倒なのは桃香のいう通りだ。

 グロリアの疲れ切った吐息と荒れた鼓動を背にした蒼一は、窪みの縁を見上げながら、一歩一歩、坂を登り始めた。

 乾ききった砂利と土は、神社の表参道に比べればよっぽどマシな傾斜のはずなのに、窪みを脱するまで思った以上の時間がかかってしまう。遠間の見た目と違い、数歩進めば足を取られるものだから、あわやと転倒、とういう場面も幾度となくあった。最悪でも膝をつくだけで済んだのは、紗夜に励まされながら駆け上がったこの夏の特訓と、グロリアははおやを無事なまま連れて帰る使命感があるからこそだろう。

 難所を乗り切っても、安息の時間はまだ訪れない。ファウルゾーンを横切り、立入禁止の看板を力任せに蹴飛ばして帰路をつくった蒼一は、インカムの指示に従い、人知れず運動公園を後にする。ふと振り返ったさきでは、繰り返される祭りの中止と避難の案内、野外ステージからいまだ立ち上る混乱の声、近づくサイレンの音が折り重なった三重奏が木霊こだましていた。

 ようやく息をつくことができ、先に逃げたはずの荒城や雪村、演舞を終えて控室に戻っているであろう紗夜の無事を祈る蒼一の背で、魔法少女が小さく身じろぎする。


「グロリア? 大丈夫か?」

「歩くのはまだちょっと無理、かな。蒼くんこそ大丈夫?」

「心配ねぇよ」

「それなら、もうちょっと、背中を堪能させてもらおうかな」

「んなこという余裕あんなら降りろよ……」


 冗談よ、と息子の耳元でくすくす笑いながら、グロリアはしがみつく腕の力を強める。

 こそばゆいけれど、蒼一も疲れ切った母を振り落とすなんて無粋な真似はしない。少しくらいならワガママに付き合ってやるか、と背負い直すくらいには、気持ちに余裕が戻りつつあった。


「あんなに小さかった蒼くんが、お母さんをおぶえるくらいになったのねぇ」

「なんだよ、藪から棒に」

「なんか嬉しくなっちゃった」


 人々のざわめきが遠くなった頃合いで、グロリアしおんはしみじみと口にする。

 蒼一にも、おぼろげではあるが、幼い日の思い出くらいはある。熱を出し、母に背負われて家路についたのはいつのことだったか。


「お母さん重くない?」

「別に。……母親背負ってどうこうなるほどヤワじゃねぇよ」


 どっちの意味かな、と一瞬考えた蒼一だが、答えはどうしても、楽な方に流れがちだ。

 魔法少女となった母は、身長は息子よりすこし低い程度な上に、出るところは出て引っ込むところの引っ込んだ、同年代の誰よりも量と質の両方で恵まれた身体の持ち主だ。それなのに、背中におさまると軽く小さく感じられる。こんな体でよく魔物や瘴気あんなヤツらの向こうを張れるな、とつい心配になってしまうほどだ。


「日頃から鍛えてるものね」

「お、おう、まあな」


 意趣返しのつもりなどまったくないのだろうが、楽しそうなグロリアしおんの言葉に含みを感じて、蒼一はつい口ごもる。別にやましいこともやらしいこともしていないし、夏の秘密はすでに露呈しているのだが、どうもそれ以上の何かを見透かされている気がしてならない。


「俺のことはどうでもいいんだよ。んなことより、さ」


 蒼一はここでようやく、ずっと聞けずにいた疑問を口にする。自分のことから話題をそらしたいという目論見はあるが、今を逃すと機会が失われるという焦りのほうが大きかった。


「オフクロはさ、魔法少女やってて、虚しくなることってねぇの?」

「あら、急にどうしたの?」

「クラスのみんなも、街の連中も、魔犬のこととか荒城の話とか、誰も知らねぇわけじゃん?」

「そういうふうに統括機構が処理したからね」

「体張って瘴気を【浄化】したって、ニュースとかネットに載んないまま終わっちまう。街を守ろうがみんなを救おうが、誰も大っぴらに誉めちゃくれないし、認められたりすることもねぇ。それって淋しくねぇかなって」

「ありがとう。でも大丈夫よ、魔法少女ってそういうものだから」


 一つ一つ積み重ねられた不器用な配慮を受け止めたグロリアしおんは、息子の心配を優しく拭い去る。諦観のない声をきけば、それが本心であることは疑いようもない。


「誰も知られずに魔を祓うのが、魔法少女わたしたちの務めだから。皆がそういうものだと理解して、自分たちの使命を全うしてるのよ」


 若い頃には魔法少女としての思考と習慣を、大人となって相応の落ち着きを身につけた彼女にとって、活躍が表沙汰にならないのは当たり前なのだろう。虚無感が浮かび上がる余地すらないのかもしれない。


「それに、みんなが私のやってきたことを知らないわけじゃないわ」

「どういうことだよ?」

「蒼くんがちゃんとみてくれてたじゃない。今のお母さんには、それだけで十分よ。……心配してくれてありがと」


 嬉しそうなグロリアが、広い背に顔を埋めてくる。

 そんな母とは対象的に、息子はあくまでもそっけない。日に焼けた肌でもごまかせないほど熱を帯びた耳を隠そうとするのだが、無駄な抵抗になりそうだ。


「……オフクロ、もうそろそろ降りる気ない?」

「嫌です。お母さんは今、とても疲れています。歩くなんて無茶よ」


 抱えている足を手放し、グロリアを振り落とそうした蒼一だったが、彼の手はいうことをきいてくれない。

 まさか、と目をやれば、上腕から指先に至るまで極細の【鎖】が絡みついている。これでは身をよじって腕をほどくなんて無理だ。


「魔法使ってんじゃん! 十分元気じゃねぇか!」

「蒼くんは頑張ったお母さんをいたわってくれないの?」

「わかったわかった、いう通りにするから、大人しくしてくれよな」

「はーい」


 抗えば抗うほど、グロリアは顔を寄せるわ胸を当てるわとやりたい放題だ。ここはとっとと桃香と合流して、ジープの後部座席にグロリアを放り込むのが得策だろう、と蒼一はやけっぱち気味に歩みを進める。面倒そうではあるけれど、唯一の肉親である母親が無事なのだから、彼も嬉しくないわけがない。それ以上突き放すのも諦めている。

 息子をささやかなワガママで振り回すグロリアしおんは、実に楽しそうだ。

 禁じ手まほうを行使してまでじゃれつく様子は、魔法少女としての出で立ちも相まって、まるで仲睦まじい恋人。危機を乗り越えた開放感と、愛する息子に頼りにされる心の充足、そして人目のない帰り道が、彼女をさせ、少しだけ――淑女らしからぬ振る舞いに走らせたのかもしれない。



 離れた暗がりから見つめる少女の存在に、親子が気づくことはついぞなかった。

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