第6章 少女は蝶へと羽化を遂げる

6.1 一体何があったんだよ

「……七度八分。夏風邪でもう間違いないわね」


 祭の夜の事件から二日後。補講日の朝を迎えた蒼一は、明らかに体調を崩していた。

 食卓につく足取りは目に見えてふらついていたし、いつぶりか思い出せないくらい久々に朝食を残す。育ち盛りの高校生なのに飯が喉を通らないという一大事を、紫音が見逃すはずもない。大丈夫と誤魔化し通そうとした蒼一だったが、柳眉を逆立て、正直な体温計を錦の御旗とばかりに振り回す母には勝てなかった。

 結局、出てきたはずのベッドに強制送還され、今に至る。


「鍛えてんだけどなぁ……」

「いくら蒼くんでも、雨の中走り続けて、あれだけずぶ濡れで帰ってきたら体調も悪くなるわよ」


 亊の発端は昨日の夕方。

 午後から一人でロードワークに出た蒼一は、家から遠く離れた折り返し地点で、間の悪いことにゲリラ豪雨に見舞われたのだ。軒下で雨をやりすごすという発想はその時の彼にはなく、雨に烟る街を走り続けて帰宅したのだが、冷えにさらされた体は正直だった。


「病院、行かなくて平気?」

「こんぐらいなら、寝てりゃ治るだろ」

「本当に大丈夫?」

「大したことねぇよ」


 起き上がろうとした蒼一だったが、紫音に優しく肩を押されただけでマットレスに沈んでしまう。ため息にまでいやな熱が混じっているので、何をいってもまるで説得力がなかった。


「あまり平気そうには見えないけど……」

「ちったぁ息子を信じろって」


 そういってみせた蒼一だが、不調を押し隠し、崩した体調をさらに悪化させる悪癖持ちであるのも事実。上がらないだけでなく冷えると痛む肩、古傷の残る肘こそ、その証拠である。

 そんなも相まって、母の心配は加速し続ける一方だ。看病についていたい親心がうずくどころか暴れ回っているけれど、あいにくグロリアしおんが仮初とはいえ留学生の身分で、花泉蒼一とはただの友人関係でしかない。蒼一も夏風邪以上の症状は認められないから、少なくとも午前中はグロリアとして活動するのが懸命だろう――という判断を、桃香に促される形で下している。


「スマホとかいじってないで、ちゃんと寝てなさいよ?」

「わかってる」


 迷いを振り払うのにギリギリまで時間を費やした紫音は、息子におとなしくしているよう釘をさすのを忘れなかった。


「授業終わったらすぐ帰るから。何か食べたいものある?」

「オフクロが作ってくれるのは、なんでも美味いから大丈夫だよ」


 小さく答えた蒼一は、夏掛けを肩までかぶって母に背を向ける。ついこぼれる言葉はただの本音か、それとも弱気の裏返しか。


 「なるべく早く帰るからね」


 そう呼びかけたときにはもう、返事はない。寝入っているのか返事すら大儀なほどの不調なのか。

 いずれにしても、母の心はただ乱れるばかりである。そっとドアを閉じ、音を立てぬよう廊下をゆく足取りはいつも通りでも、外で学生グロリアとしての顔を保てるか疑わせるくらいに、後ろ髪を引かれているのは間違いなかった。事実、学校に向かう道すがら、遠くを振り仰いではため息をつく姿が数人の生徒に目撃されている。




 グロリアしおんが登校し、静寂の戻ってきた自室で、蒼一は一人悶々としていた。

 まず彼を悩ますのは、劣悪にも程がある体調だ。体力に自身があるゆえに、患うこと自体が歯がゆく、気が滅入る。残念ながら、先程飲んだ風邪薬はまだ、彼に安息をもたらしてはくれない。煮詰めすぎたジャムのように流動性のない思考に、調子に乗った坊主がつく鐘のような頭痛がかぶさってくるのも神経に障る。とはいえ、いずれも自分の不始末の結果で、怒りの矛先の行き場はもちろん、それを振るう気力もない。

 彼の心を沈ませるもう一つの要因は、同級生の巫女から連絡がないことだ。

 夏祭りのの後、現場から立ち去った時を皮切りに幾度かメッセージを送っているのだが、どれにも既読がつかぬままだ。電話もかけてみたけれど折り返しはない。少年のスマホは沈黙を守り続けている。


 ――何かあったんじゃなかろうな。


 桃香経由で情報をきいた限り、事故に巻き込まれた、病院に担ぎ込まれたという線はなさそうだった。祭りの関係者が警察の事情聴取を受けるとのことだが、以降の動向は不明。紗夜が誰かと連絡をとれる状態にあるのかないのかも定かでない。


 ――愛想つかされたか?


 祭の夜に迎えに行けず、紗夜がへそを曲げてしまった可能性も頭をよぎったが、熱のせいか単に認めたくないだけか、思考がそれ以上に広がってくれない。でも、をうけて全ての催しは即時中止となり、会場一帯には放送で避難命令のお沙汰が下っていた。詫びの連絡は手が空いてすぐに入れている。そもそも、演舞の前まではきちんと話ができていたのだ。それだけの状況の中で、彼女の態度が一転した理由を探ってみても、心当たりがない。


 ――じゃあ後は……なんだ?


 蒼一は重い頭をもたげ、枕元のスマホを覗きみる。昨夜から変わったところといえば日付と時刻くらいのもので、やはり返答はない。メッセージを送ろうかと思ってはみたが、指は動かなかった。


 あんまりしつこくしすぎて嫌われたら、俺は――


 蒼一の思考は低い方へ転がり落ちる一方だ。 

 一夏をともに過ごした少女の存在は、彼の中でもう、どこにも動かせないくらいに大きくなっている。紗夜と疎遠になってしまったら、果たして立ち直れるかどうか。野球以外となると想像以上の脆さをみせる彼の心は、おそらくどん底まで堕ちるだろう。

 それですむなら、まだいい。心が弱った者が行き着く最悪の結末を、彼はすでに目の当たりにしている。


 ――瘴気にやられて、魔物に堕ちる、かもしれない。そのときは――


 グロリアが【救済】するのが先か、あの黒い剣士が引導を渡しに来る方が早いか、それとも別の結末が待つか。程度の差はあるだろうが、先に明るい未来が待っているとは、蒼一には思えない。


 一体何があったんだよ、紗夜――

 

 蒼一は鳴らないスマホを放り出し、夏掛けを肩までひっかぶる。

 心が弱っているのは体が本調子じゃないせいだ、と無理やり言い聞かせ、熱のせいで冷たく感じる枕に頭を沈める。

 それでも、一度鎌首をもたげた嫌な可能性はなかなか消えてくれなかったし、眠りをしばらく妨げ続けた。

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