5.6 私がやらなきゃいけない

 置かれていたありったけの花火が一斉に燃えれば、近くにあるものが無事で済むはずもない、というのは蒼一でも想像がついた。現に、出番を待っていた打ち上げ筒やそれを支える木製の架台は、吹き飛ばされるか、火に巻かれて爆ぜ続けるか、いずれかの末路を辿っている。

 だが、グラウンドにボウル状の――それもきちんと測量し、然るべき重機ですくい取られたような――窪みができているとまでは、さすがに思い至れなかった。揺らめく炎という頼りない明かりに目を凝らした限り、中心はおそらく二塁のあたりで、マウンドをすっぽり削り取るくらいの半径をしている。深さもなかなかのもので、黒土の下に敷かれた砂利層が見え隠れしていた。いずれにしても、爆発という暴力でちぎり取ったにしては整いすぎている。

 そんな奇妙な浅皿には、有機物から生まれる煙とは違うが沈殿していた。素人そういちすら反射的にタオルで口を覆い、吸わないように警戒するほどに禍々しい。


「まさか、こいつが、瘴気……?」

「ええ。ここまで濃いものはめったにないけれど」


 窪みの底に横たわる、一切艶のない、宵闇よりも昏い黒。

 、と称されるからガス状の塊かと思いきや、奇妙な物性のせいで名と体に大きな隔たりがある。冬を越そうとするむしのごとくみっちりとまとまり、耳障りな音とともに右へ左へとうごめき、きしみ、塩をまぶされたナメクジのようにのたうち回る。一方で、瘴気と大気の界面はもや状に揺蕩たゆたっており、真の形状がつかめない。


「打つ手はあんのか?」

「この密度の瘴気じゃ、【封印】はその場しのぎにしかならないわ。【浄化】で対応します。不安の芽をきちんと摘みましょう」


 百戦錬磨の魔法少女は、相変わらず決断が早い。

 だが、魔犬や肉塊に立ち向かったときでさえ怯えや迷いを見せなかったはずの指やまつげが、蒼一にも分かるほどに震えていた。


「……大丈夫なのかよ?」

「危なくない、といったら嘘ね。それでも、ここでやらなかったら、被害が拡大するだけ。私がやらなきゃいけない」


 どこか他人事のような物言いは、わずかに鈍りそうになる決意を押し隠そうとしているのか、息子を安心させようと務めているのか。

 グロリアしおんは息子の方へと向き直り、繊細な両手で節の目立つ硬い手を包む。記憶以上の小ささと、震えからは想像できないほどの熱が伝わり、蒼一の心臓が不意に跳ねた。

 プラチナブロンドの髪、情熱を奥底にたたえた瞳、引き結ばれた唇。そのすべてをもって、眼前の魔法少女が訴えかけてくる。


 私をみていて、私を呼んで、私を頼って、必ず成し遂げるって信じて――!


 親子。

 年月とともに距離の遠近こそ変われど、生まれてからずっと一緒に暮らしてきた、たった二人だけの存在。

 何もかもとはいかないけれど、言葉にせずとも伝わることは、確かにある。


「……頼んだ、オフクロ」

「ええ、まかせて」


 ほんの少しだけ名残惜しそうに手を振りほどいたグロリアは、改めて瘴気と対峙する。

 常世でも変わらぬ夜の闇の中、魔力煌めく薄紫色の髪をかきあげたときにはもう、彼女の顔は子を慈しむ母から、戦地を征く強者つわもののそれに変わっている。

 どこか不安げな少年の視線を背に受け、魔法少女は堂々と窪みのふちに立つ。瘴気はさらに膨れ上がり、地鳴りもますます大きくなる一方だ。


「……行きます!」


 蒼一が構えたレンズの先、淀む空気を前にしたグロリアは、決意と覚悟を胸に抱いて飛び、奈落の中心に降り立つ。

 変化は、瘴気に足を浸した瞬間から始まった。ずぶりと沈むことはないかわりに、足元と装束ドレスの裾を伝って、穢れに似た黒が侵食し始める。

 足裏、くるぶし、ふくらはぎ。

 瘴気の動きは、痕跡を残そうとする軟体動物のように鈍いが、執拗しつようだ。グロリアも魔力をもって抵抗しているようだが、肌と肢体が黒く塗りつぶされる速度のほうが勝っている。


「くぅ……っ!」


 息子が見守る前で、胸の前で祈るように両手を組み、目を伏せて立ち尽くしたままのグロリア。

 彼女の静かは抵抗をあざ笑うように、澱みは太ももを、色香の薄く漂うヒップから続くくびれた腰回りを、大きく張り出した胸元を、丹念に舐めしゃぶってゆく。時折走る不快感と痛みに眉を寄せ、蒼一に聞こえぬよううめき声を噛み殺す以外に、グロリアは身じろぎしない。柔らかい肉を欲望まかせに這い回る瘴気に身を委ねているようにもみえる。


「グロリア!」


 焦燥にかられた少年が叫んでも、瘴気がたてる不協和音に押し負け、魔法少女には届かない。

 黒い気配はついに、グロリアのむき出しの肩を征服し、肘から先にかけても汚しつつあった。


 瘴気に飲み込まれてしまったら、歴戦の魔法少女であっても、があるのではないか――。


 そう思っても、蒼一は助けに行くこともできない。蛮勇を振りかざして窪みの底へ飛び込んだとしても、彼自身が魔物と化すのが関の山だ。そもそも瘴気が叩きつけてくる威圧感が、彼をその場に押し留めてしまっている。止め方がわからないくらいに震える手でカメラをむけ、現状を記録するので精一杯だ。

 グロリアが嬲りものにされるだけのワンサイド・ゲームは、瘴気が白く細い首に手をかけ、終焉を迎えようとしている。

 へし折るか、締め上げるか、辱めるか。約束された悲劇に、蒼一が思わず顔を背けかけた――その瞬間。


「お待たせ」


 彼女の声は、こんな時だというのに暖かく、穏やかだ。


「あなた達の無念は、私が全部背負ってゆくから大丈夫」


 絶望しかけた少年の前で、瘴気は目に見えて勢いを失ってゆく。

 黒いくびきを引きちぎって掲げた白い手は、すべての心配を振り払うに足るほど力強い。


「行け……」


 蒼一のかすれたつぶやきが、窪みの底まで届くとは到底思えない。


「行けっ……!」


 それでも、息子に後押しされるかのように、グロリアは高らかに指を鳴らす。


「いまは眠りなさい、安らかに――【浄化】」


 魔法少女の指先から、瞬きよりも早く、太陽に似た輝きがあたりに広がる。

 少年が思わず目を覆い、カメラを否応なしに白飛びさせる光の前に、瘴気は黒を保てない。粘りを捨てて流れ落ちようとも、霧に姿を変えて風に乗ろうとも、慈愛に満ちた白が即座にその尻尾を捕まえる。

 魔法少女を取り込もうとしていた黒い気配は例外なく駆逐され、夏の夜の灰燼かいじんと化して、消えた。

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