4.9 あんた、素人じゃねーな?

 蒼一が過去を明かし、紗夜が涙してから数日。

 遠くの空に入道雲が湧き上がる午後、紗夜は例によって、西参道を駆け上る少年をじっと見つめていたのだが、顔つきがいつになくきびしい。

 石段を蹴る蒼一の足が、今一つ力強さにかけているように見える。腕の振りももがくような動きが目立ち、上がった顎も自分の意志で引ききれなくなっているようだ。手元のノートを見ても、記録タイムは右肩下がり。

 でも、蒼一の眼はいない。走る当人の気力の問題ではなさそうだ。


「蒼一くん、今日はもう、ここまでにしましょう」

「何いってんだよ、俺はまだ」


 長い坂を登り切った少年にかけられたのは、極めて後ろ向きな提案。思わず反旗を翻しかけた蒼一だったが、自分よりもずっと小柄な少女に肩を軽くこづかれたくらいでたたらを踏んでしまうのだから、なんの説得力もない。


「外から見てわかるくらいだもの。本人に自覚がないなんて、ありえない」


 花泉蒼一は疲労している。

 この上なく明確な状況証拠を突きつけられては、事実を受け入れざるを得ない。でも、走る方は一旦休むとしても、代わりになにかしたいという気持ちは残っている。

 そんな少年の意思を汲み取った紗夜は、ちょっと待ってて、と社務所に駆け込んだ。程なくして戻ってきた彼女が手にしているのは、よりによって古ぼけたグローブだ。


「……藤乃井、俺、もう投球ピッチングはできないんだけど」

「あいにく、他に体を動かすのに使えそうな道具、持ち合わせてないもので」

「んなこといわれても」

「それに、昔好きだったものを、嫌いになったまま生きてくのは淋しいし」


 蒼一の顔が露骨に曇るが、少女はここでも優しく、しかし強引に話を進める。


「サイドスローで軽めのキャッチボール。それでも傷に差し障りがあるなら、すぐにやめましょう。そもそも蒼一くんの本気の球は、わたしじゃ絶対に捕れない」


 久しぶりにはめた借り物のグローブは、今ひとつ手になじまない。だがそれ以上に、軟球の手触りが強い違和感を産んでいる。幼い頃から硬球に慣れ親しんできたというだけでは説明できそうにない。体が無意識のうちに野球を締め出そうでもしているのか、指の収まりが悪かった。

 おまけに、これから試すのは未経験の投球動作。過去に勉強と称していろいろな投手の映像をみてきた彼だが、それらは自身と同じオーバースローの速球派だ。シャドーピッチングでサイドスローのイメージを固めるにしても、しばしの試行錯誤が必要になる。


「……あんまり期待してくれんなよ?」

「お手柔らかに!」


 十メートルほど向こう側、素人らしからぬ手付きでグローブを叩く紗夜をちらりとみやった蒼一は、二年ぶりに白球を投じた。

 しっかり体重を載せてから軸足を蹴り出し、前足の接地と同時に腰と肩を連動して腕を加速させるのは、オーバースローとほぼ同じ。地面と平行とはいかず、少し下がり気味に伸ばされた腕が円弧を描く。フォームを確かめつつの動作ゆえに力感に乏しい。

 だが、緩やかな腕の振りとは対称的に、指先から離れた球には思いもよらぬ鋭いトップスピンがかかっていた。

 やばい、と蒼一が思ったときにはもう遅い。少女をあざ笑うように、球はガクリと


「よっ、と」


 紗夜は至って冷静だった。肩幅ほどのスタンスからさらに足を開くと同時に、柔らかく膝を曲げて重心を落とし、沈みゆく球シンカーを下から迎えに行く。無駄も迷いもない、蒼一すら見惚れるほど自然な捕球キャッチングだった。


「すごい落ちたね! 蒼一くん、腕は大丈夫?」

「今んとこは平気、だな」


 前の肘をしっかりと相手に向け、正しく狙いを定めてから放たれた紗夜の一球は、その細腕に似合わない力強さで、蒼一のグローブに吸い込まれる。少なくとも、かつての彼のチームメイトに、これほど基本に忠実で美しいフォームの持ち主がいた記憶はない。


「さ、もう一球!」


 蒼一は腕と肩の様子を伺いながら、サイドスローの感覚を自分のものにするべく、試行錯誤を繰り返す。相棒さよを試すつもりは全くないのだが、慣れないフォームも相まって、コントロールがどうも定まらない。意図せず球がすっぽ抜けることもあれば、初球のような意図せぬ回転スピンが生まれることもある。

 それでも、紗夜は慌てず騒がず、一球一球をの軌跡をしっかりと見極め、逸らすことなく捕まえる。破れかぶれに出したグローブに偶然白球が収まった、というケースは一つもない。


「藤乃井、あんた、素人じゃねーな?」

「前にもちょっといったけど、わたしも野球やってまして……。スタメンにはなれなかったけど、関東大会でもベンチに入ってたよ」

「それなら、俺たち、どこかで会ってるかもしれないな」

「かも、じゃないよ」

「……へ?」

「対戦してるよ、わたしたち。覚えてないかな?」


 彼女が口にしたチームの名前は、蒼一も覚えていた。

 関東大会で決勝進出をかけて対戦した相手で、勝ったはいいが苦い思い出が残る試合だった。ノーヒットノーラン達成を目前に控えた蒼一は、途中交代で出てきた小柄な選手にファールで粘られ、ついには根負けしてヒットを許したのだ。


「蒼一くん、それ、わたしです……」


 少し申し訳なさそうに打ち明けた紗夜をみて、蒼一はセットポジションのまま固まってしまう。短髪で真っ黒に日焼けし、元気いっぱいのプレーを見せていたあの選手と、物静かで色も白い眼の前の少女を重ね合わせろといわれたって、どだい無理な話だ。


「実は日焼けしやすい体質で……。こまめに日焼け止め塗り直したり、なるべく日なたを歩かないようにしたりしてるんです」

「おう、そうか、そいつは大変だな……」


 夏の盛りだというのに、紗夜が手足も含めて露出の少ない服を選ぶ理由は、これで明らかにはなった。


「でも本当に上手い。どれくらいやってたんだ?」

「二年間……よりはちょっと長い、かな」


 そんな短期間であれほど綺麗なフォームを身に着けたとなると、本人の資質もさることながら、相当よい指導者に巡り会えたのだろう。


「この街に帰ってきて中学受験するつもりだったから、関東大会のあとに退団したの」

「……帰る?」

「うん。もともとわたし、ここの生まれだから」


 捕球姿勢を取らず、手中に視線を落として黙り込んだ紗夜を前に、蒼一はいったん構えを解く。どこか思いつめたような少女の逡巡が、彼をためらわせた。

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