4.7 もう確かめようがねぇんだよ
午後、神社の仕事を少しこなし、日が傾きはじめてからしばらくが、蒼一に割り当てられた時間だ。ジョグの後の入念なストレッチ、境内での軽いダッシュ数本のウォーミングアップを終えてから、本格的な走り込みが始める。
メニューは至ってシンプル。息を切らし、汗水たらしながら、参道を愚直に何度も駆け上がる。木々の影さす短くも急な階段の表参道と、長く緩やかながらも曲がりくねった西参道を、日毎にとっかえひっかえ走るのだ。
蒼一が自分勝手に始めたトレーニングなのだが、紗夜は律儀なことに、毎日、はじめから終いまで付き合ってくれる。
ストップウォッチとノートを手にした彼女は、部活の敏腕マネージャーよろしく、蒼一の一挙一動に目を光らせて手抜きを許さない。フォームが崩れたとみるや「アゴ上げない!」「腕の振り弱い!」と抜け目なく指摘してくるし、頂上間際でスピードを緩めようものなら間髪入れず「手ぇ抜かない!」と厳しい言葉で
それでいながらも、
人生の二週目を歩いているのではと疑わせる如才のなさはありがたいが、蒼一からするとそこまでしてくれる理由がはっきりとは思い当たらず、申し訳なく思うくらいだ。
紗夜の細やかな気遣いは、練習の最中にとどまらない。
ある日の練習後、風鈴が機嫌良く歌う縁側で、蒼一持参のスイカを楽しんでいた時のこと。彼女はなんの前触れもなく、蒼一の方へ身を乗り出してきた。
「……やっぱり。蒼一くん、脱いで」
「はぁ?」
かすかにただよう甘い香りで心をかき乱されたとたん、首元から頭のてっぺんへと熱が駆け上った蒼一と対象的に、紗夜はあくまでも冷静だ。
「シャツの袖、破けちゃってる。繕ってあげるから脱いで」
「あ、そういうこと?」
「別に恥ずかしがらなくていいでしょ、男の子なんだし。アンダーも着てるじゃない。ほら早く」
別室から年季の入った裁縫箱を持ち出し、慣れた手付きで針に糸を通す紗夜に急かされて脱いだまではいい。
先程まで着ていたシャツは当然、汗で湿っている。本当にこれを手渡していいもんだろうかと抵抗を捨てきれない蒼一だったが、少女に半ばひったくるように奪われてしまい、ただただ恐縮するばかりだ。
「ちょっとまってて、すぐ済ませるから」
「悪い、頼む」
袖の付け根が三分の一ほど裂けたTシャツをひっくり返し、まち針を打ち始めた紗夜の横顔から、蒼一は目が離せない。
この娘、大人しそうにみえて結構強引だな、と思うことがこの頃増えた。神社の仕事絡みになるとなおさらだ。役所に出向くと、静かながらもしっかりと自分の意見を通し、一線を決して譲らない。少年が「もうちょっと考えて決めたほうがいいんじゃね?」と口を挟まなければ、あらゆる判断を即決しそうだ。まさか彼女にブレーキ役が必要になるとは予想していなかった。
そんな紗夜は、いつしか蒼一に対してだけは、敬語を使うのをやめていた。多くの時間を二人で過ごしたことで信頼が生まれたから――というのは、さすがに少年のうぬぼれだろうか。
「花泉くん、聞いてもいい?」
「どうした?」
「答えられないなら無理に、とはいわないけど……肩とか肘、やっぱり、具合よくないのかな?」
遠慮がちに問うてくる紗夜は、手元から目を離さない。
疑問に思うのも無理もない。並の大人を凌ぐ上背の蒼一だが、右肩が挙がらないせいで脚立の世話になる機会が多い。おまけに炎天下でも長袖のアンダーシャツを欠かさないとなれば、相当悪いと見立てるのが普通だ。
「肩はもうどうしようもねぇ、医者にも匙投げられちまってる。寒いと痛むしな。肘はマシだけど、傷跡が残ってるのは変わんねぇ」
蒼一にしてみれば、別に隠し立てすることでもないから、答えは素直だ。
手術をしてからこっち、冷えが痛みにつながるから、冷房を効かせる夏場も油断はできない。半袖のワイシャツを着るときさえ下にサポーターを忍ばせるくらいに、彼のケアは徹底している。
「神社の仕事で、痛みがぶり返したとかない?」
「それはねぇよ」
紗夜を安心させるように即答した蒼一は、繕い終わって元通りになったシャツに袖を通した。
「花泉くんって、昔、どんな選手だったの?」
「……あんまり面白くねぇけど、それでいいなら」
先を促された蒼一は、昔のようには動かない肩を時折見やりながら、ぽつリぽつりと昔語りをはじめる。あぐらをかいたその背は丸く、こころなしか小さく見えた。
「六つのときに地元のチームに入って、公式戦に始めて出たのが九歳かそこらだったかな? 上級生に混じって
「なんか、予想以上にすごい話みたいだね……。体も大きかったの?」
「まあな。死んだ親父もプロの選手だったし、オフクロも
「お母様も背が高いんだ」
「俺と同じくらいあるし、スポーツも得意だったって話もきいたな」
紗夜は腑に落ちたようにうなずく。同級生と比べて優れた身体能力を持ち、父という手本と憧れがいたとなれば、蒼一が野球の道に進むのもごく自然と思えたのだろう。
「小さいときに、無理、しちゃったのかな?」
「そうだな。監督が勝利至上主義でさ。普段からバカみたいに練習してんのに、試合で負けたら余計に練習量増やされてよ。勝ちたいとかうまくなりたいってよりも、負けたくないって気持ちのほうがでかかったな」
大体の事情を察したか、紗夜はいたたまれなさそうな顔をして、裁縫箱のふたを閉じる。
勝負には
「いろんな大会で優勝したけど、あの頃の写真に、笑っているヤツ一人もいなかった気がする」
「……気がする、って?」
「写真とか、記事の切り抜きとかは、野球やめるときに全部捨ててもらった。もう確かめようがねぇんだよ」
蒼一はなるべく軽い調子で語ったつもりだったけれど、大きな背からにじみ出る、後悔と未練からくる澱みは隠しきれなかった。
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