3.6 それがどうした
「お待たせ」
約束されていたはずの苦痛は、結局訪れなかった。
瞬間、少年の懐に飛び込んできたのは、あの夜に見たものと同じ薄紫の光条。
「遅くなってごめんなさい、蒼くん」
体格に恵まれた蒼一を羽毛でもすくうように軽々と抱きかかえると、魔法少女は粘液で摩擦が少ないことを逆手に取り、駆け込んだ勢いそのままに滑り抜けて距離を取った。背後で肉塊が地に伏し、辺り一帯を全部まとめてひっくり返さんばかりの猛烈な揺れを見舞おうとも、彼女は振り向かない。慣性に逆らうことなく、自然に速度がゼロになった先で、グロリアはそっと息子を降ろして立ち上がる。
『誰……エ……グロりアチゃん……?』
魔物を【救済】するための
凛々しく立ち、異形をにらみつけるグロリアを見上げた蒼一は、助かった安堵から一転して血の気と言葉を失う。
花嫁衣装を思わせる薄紫色の
「オフ、グロリア、それ」
「大丈夫? 怪我はない?」
「どうすんだよ、その、怪我」
自分には無害だったはずの粘液が母親に深刻な外傷をもたらしている、その事実を前に動揺した蒼一の言葉は、どうしてもとぎれがちだ。常人なら痛みで発狂するか、それすら許さない痛みに見舞われているはずの傷を負ってなお息子を気遣うグロリアとは対象的だ。
「大したことじゃないわ」
幸いなことに、彼女の言葉は強がりで終わらなかった。少年の前で、水分を失いもろくなっていたはずの銀髪も、無惨に
「魔法少女ですもの、これくらいならどうとでもなるわ」
肉塊の一挙一動に注意をはらいつつ、蒼一にインカムとカメラを手渡す指は、それとわかるほどに緊張感がみなぎっている。魔犬のときと少し異なる風向きだ。
[こちら南郷、お友達の眠り姫はこちらで保護済みだ。命に別条はないことも確認済み。そっちは大丈夫かい?]
「ちょっと難しい仕事になりそうね。
白・黒・灰に彩られた
問題は、先程よりも勢いをまして噴き出す粘液だ。常人であればぬめりに不快感を覚え、足を取られるだけですんでいたところだが、こと魔法少女に対してだけは牙を剥く。傷も
粘液の厄介さはそれだけにとどまらない。グロリアの予想通り、牽制と挨拶代わりに繰り出した薄紫色の【鎖】は、どれ一つとして触手を絡め取ることはできなかった。それどころか、粘液に触れたそばから千切れて昇華し、虚空へと消えてゆく。
「私の魔力と、魔物の粘液が反応してるみたいね」
[嫌な相手だね。この調子だと、【救済】にまで支障がでやしないかい?」
「それでも、やるしかないわ」
【救済】を発動させるには対象との距離を詰める必要があるが、今のグロリアでは肉塊の動きを封じるどころか、乱れ飛ぶ肉の鞭を
「ちょっと強引でもかまわないかしら、桃香?」
[結構。後始末のことはあたしがなんとかする。思う存分やりたまえ]
指揮官の言質をとったグロリアは、いつものように幾本もの【鎖】を伸ばす。ただし、それらの行く末は例外なく明後日の方向で、
「あまり美しくはないけれど、これも使命のためですから」
グロリアが【鎖】を操る手振りは熟達した
一体何をしでかす気だ、オフクロ――!?
インカムを突き抜ける不協和音に顔をしかめた蒼一は、グロリアの【鎖】が絡め取ってきたものを見て危うく腰を抜かしかけた。
能天気に夜空に浮かんでいるのは、公園のあちこちに配されていたはずの設備だ。遊歩道に設えられていた照明やベンチに始まり、しっかりした土台に固定されているはずのシーソーやブランコ、挙句の果てはジャングルジムまでもが、大地の軛から解き放たれてそこにある。
魔力で編まれた【鎖】で捉えること
じゃあ、荒城は、どうなる――?
「グロリア、聞いてくれ」
「何かしら?」
インカムがあるから必要ないはずなのに、グロリアは癖でつい、切羽詰まった蒼一の方へ振り向く。
深紫色の真っ直ぐな瞳は、自らの選択を微塵も疑っていない。魔物の【救済】を果たすためならどんな手段でも使うと、全身で雄弁に語っている。決意を前に口をはさむなど、本来は無粋の極み。
それでも、あの肉塊の正体だけは先に伝えなければ、と蒼一は思った。
「あいつは荒城なんだ」
[違う。あれは魔物で、【救済】するべき対象だ」
「嘘じゃない、荒城が魔物になるところも、俺はこの目でちゃんと見たんだ」
[それがどうした]
桃香の冷たくも正確な指摘と、蒼一の願望がすれ違う。
[まさかあれが荒城くんだから手加減をしてやれ、なんていう気じゃないだろうな、蒼ちゃん?]
指揮官に真意をズバリと言い当てられて、少年もつい黙りこむ。紙一重の判断が生死を分ける今、甘さは魔法少女側の不利を助長する
[余計なことでグロリアを惑わすな、蒼ちゃん。あの肉塊を制さないことには【救済】は果たせないし、下手すれば君たちも死ぬ]
「私なら大丈夫。仕事はしっかり、こなしてみせる」
親友を安心させる声色こそ、いつもと変わらず穏やかで丁寧だが、今のグロリアは頭のてっぺんからつま先、果ては骨の髄に至るまで使命感に満ちている。
その覚悟は、なんの前触れも情け容赦もなく、ベンチが肉塊に叩きつけられたことで証明された。
『ドオしテ! どウシテ! ドオシて』
聞くに堪えない呪詛も練り込まれていると錯覚するくらいに歪んでいるけれど、蒼一の耳に届く絶叫は間違いなく荒城のそれだ。
痛みによる反射と痙攣か、肉塊は間断なく数メートル級の跳躍を繰り返し、血と粘液が混じり合った薄桃色の液体とともに触手が四方八方に振り乱れる。
『いてぇぇ! いてぇぇよぉぉ! ヤめてクレよぉぉぉぉぉ!』
「グロリア!」
ほうほうの
元をたどれば友人であるはずの異形に、情けも容赦も一切なく力を振るう
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