3.7 やらせない

『ぐろリアちゃン、ひデェよぉ、なんデこんナコとすんだよぉォォォぉ!』


 が泣こうがわめこうが叫ぼうが、降りかかる粘液に装束ドレスごと肌を蝕まれようが、グロリアは意に介さない。

 彼女が跳び、駆けるたびに銀髪がふわりと舞う、時おりあらわになる耳元に収まるのは、華やかな装いに似合わぬ無骨なインカムだ。しかし、空気ごとあたりを揺さぶる肉塊の声の前では、小粒な通信機械の遮音などないも同然。グロリアにも、荒城の濁った悲鳴は届いているはずなのだ。


「あいつの声、きこえてるはずだろ、グロリア」


 肉塊の絶叫は四重奏、五重奏、六重奏とエスカレートする一方。あらゆる傷口から血や粘液とともに吹き出してでもいなければ、おそらくこうはなるまい。

 友人の悲鳴に動揺しているところに、音圧で膝が砕けそうになっている蒼一とは対称的に、グロリアの走りと【鎖】を繰る指使いはますます冴え渡る。どこからか引きちぎってきた街灯が、日に焼けて色あせた案内看板が、肉塊に容赦なく突き立てられた。


『蒼イチぃぃぃぃ、助けテくれよぉぉォぉ! オれマだ死ニタくねぇェ! 何ダコれ、チがトマんねェヨぉ!』

「もうやめろ!」


 業を煮やしたというには悲痛で、悲鳴としては芯の通りすぎた叫びを上げながら、蒼一は身の程も顧みず飛び出そうとした。グロリアが無視し続けるならとっ捕まえるまで、と意気込んでいたが、目論見は完全な空回りに終わる。


 一歩も動けない。


 脳は身体に走れと伝え、筋肉もそれに答えようとしているのに、それ以上先へと進まない。

 彼をその場に押し留めているのは、グロリアが伸ばした【鎖】の一本だ。音もなく彼の足元に忍び寄り、たくましい胴から足にかけて絡みつくそれは、力自慢の少年といえども引きちぎるには至らない。


「そこから動かないで、蒼くん。危ないわ」


 魔法少女として、そして母親としての至極真っ当な指摘が、かえって少年の頭に血を上らせる。


「あんた、荒城を殺す気かよ!」

「魔法少女の任務は、魔物を【救済】し、瘴気をはらうことよ。その障害になるものは全て跳ね除ける」

「何だよそれ……? あいつは俺の……の友達だぞ?」

「使命を果たして、大切なものを守るためなら、私は手段を選ばない。魔法少女の力はそのためのものよ」

[グロリア、ワガママに付き合うな]


 、とことさら強調してみせても、魔法少女たちの意志は微塵も揺るがない。

 あの魔物は自分の友達だから痛めつけないでくれ、悲鳴を聞くのは耐えられない。そんな願いはもはや戯言でしかないのだが、それを理解していないのはもはや蒼一だけだ。


「いわれなくてもわかってるわ。桃香も騒がないで。救えるものだって救えなくなる――!」


 けぶりながら再生を果たすグロリアの肩にも、場の緊張感にそぐわない揺れ方をする後ろ髪にも、もはやあの余裕はなかった。肉玉は醜い叫びと裏腹に、魔法少女の動きに適応しつつある。グロリアが【鎖】で重量物を振りまわしても触手に絡め取られ、逆手を取られるようになった。

 【救済】を発現するための後一歩が、あまりにも遠い。

 歴戦の魔法少女は、余計な魔力の消耗がいつ牙を剥くかわからない状況に焦りつつも、どうにか活路を見出さんと試行錯誤しているのだが。


[何だこの反応……? ここに向かってる! 気をつけろグロリア!]

「そんなこといったって……!」


 ノイズまじりの桃香の警告が、肉塊のほうへ傾きつつあった嫌な均衡に差し込まれる。

 同時に空を駆けるのは、未調律のヴァイオリンをド素人がむしゃらにかき鳴らしたような軋み音。それは少年をあっけなく萎縮させ、状況を判断したり大人たちに問いかけたりする余力を奪っていった。

 イヤホンの上から耳を覆った蒼一は、その代わりに、常世の裂け目から垣間見える星空をみた。

 馴染みある風景は、彼に不意うちめいた安堵をもたらすも、それは一瞬の幻に終わる。瞬間、無理やりねじ込まれた白刃が、常世と現世の境界線もろとも、彼の拠り所を割く。

 グロリアの魔法が、力でもって破られた。

 その事実を受け入れるよりも速く、見覚えなどあろうはずののない黒い影が、蒼一の視界を横切る。とっさにその姿をカメラに収めようと試みるも、レンズは見当外れの方を向いていた。抗えない力――【鎖】によって放り出されたと気づいたのは、無様ながらも受け身をとってからだ。痛む体に鞭打って起き上がったときにはもう、割って入る隙間なんて見当たらない。


『ダァれェ……だぁぁぁぁぁぁ!』


 力づくで平行世界を破壊したにも、肉塊は躊躇なく触手を伸ばす。鞭打の奏でる風切り音は重い。傷つき血を流してなお、立ちふさがる全てを片っ端からなぎ倒そうとする勢いも健在だ。

 だが、影の速さの前では、触れるどころかあっさり返り討ちに合う。

 宵闇に白刃一閃、切り飛ばされた肉鞭と血の雨に一拍遅れて現世の夜空にこだましたのは、肉塊――荒城の悲鳴だった。


『おぉレが、ナんで、なぁぁンでコンナメにぃぃぃィィぁああああああああぁああああぁあああああ!!』


 辺りの木々と地を震わす大音声にも、影法師は動じない。少しうつむき加減のまま、いかにも慣れた手付きで、刃にまとわりついた血と粘液を振り落とす。

 ようやく足を止めた黒ずくめの闖入者は、拍子抜けするほど小柄で細かった。黒いパーカーのフードを目深にかぶっており、表情はうかがい知れない。袖から覗く腕はグロリアに負けず劣らずの白さなうえ、冗談のように細い。しっかりと握られた一振りの無骨さが病的に際立つ。

 性別すら定かでない背格好の剣士を明確に敵と認識したのか、肉塊は再生もそこそこに反撃に転じようとするが、叶わない。目にも留まらぬ早業で放たれた短刀に、すべての触手をはりつけにされる。


『ああああ! 痛ぇぇぇぇ! いテぇぇよォォォォ! グろりアちゃン、そウ一、ヤだ、嫌ダ、やだ、死にたくネェ、オレまだ死ニたクネぇよぉぉぉ』


 肉塊のの影で、地や木々に刃が縫い付けられるのを待つことなく、影は走り出す。大気まで割りかねない殺気もあらわにしたまま、青白い抜身を引っさげて征く様はまるで荒武者。さらに瞠目すべきはその速さだ。手の届く距離に肉塊を捉えるまで一呼吸とかからない。刃が血を吸うのはさらに速いだろう。


 だが、大上段から振り抜いた白刃が、命の華を散らすことはなかった。


 黒い剣士の細い胴に、肩に、腕に、果ては指先に至るまで、薄紫色の【鎖】が絡みつく。

 元をたどって行き着くのは、たった一度の起死回生の機会を掴むべく、グロリアが伸ばした腕だ。彼女の装いは剣士とは真反対の満身創痍。纏う装束ドレスは半分ほどが溶け崩れ、顔を含めて焼け爛れていない肌はない。


「やらせない……!」


 でも、肉塊と乱入者を見据える瞳の輝きは変わらない。【鎖】を握りしめる力強さも、また然りだ。


「瘴気に魅入られし哀れな者に」


 体格の差に物をいわせ、影法師を引き戻す反動を利して、グロリアが跳ぶ。一息で肉塊との間合いを詰めながらも、遠方へ投げ出された闖入者の位置を確認し、再び肉塊と自分を常世に閉じ込めるのを忘れない。

 でも、その動き自体は、先程のと比べれば鈍い。

 肉塊にも新たな触手を伸ばされて抵抗されるが、魔法少女は長い手足を折りたたみ、身体を無理やり捻って一撃をいなしながら詠唱を続ける。


「もとの平穏と安らぎを――」


 衝撃は灼けた背を掠め、割れた肉からは鮮血が散る。それらすらもう、彼女に対する抑止力とはならなかった。


「【救済】!」


 伸ばされた左手、半ば骨の見えかかった指を鳴らしたところで、自身の耳にすらあの軽快な音は届かない。

 けれど――大技の発動には、それでも十分に過ぎた。

 太陽と同質の眩さが、体液を垂れ流す肉塊を包み込む。輝きの強さとは裏腹に、なんとなく温かみを感じる程度の熱を帯びた光に触れるそばから、グロリアをむしばみ苦しめた血と粘液が嘘のように消えてゆく。

 現世うつしよと薄皮一枚隔てた向こう側で、光の奔流が瘴気の影響をことごとく押し流したあとに残ったのは、沈黙ばかりがあたりに漂う夜の公園。

 辛くも役目を果たし、大立ち回りで荒れきった地に立つグロリアの足もとでは、ボロボロの荒城が倒れ伏したまま身じろぎもせずにいた。

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