3.5 きけよバカ野郎!

「……ねえ、荒城?」

 

 拒絶と侮蔑の視線から一転した日奈が、困惑と不安を顔いっぱいに浮かべながら呼びかけても、返事はない。

 頭を抱えたままの荒城は、熱病に冒されたように細かく、断続的に震えている。呼吸の勢いは、人の肺から漏れ出るものとは到底信じがたいほど強く激しい。


「ちょっ、花泉、離せ! 止めんなバカ!」


 高圧蒸気が漏れ出すような音を、蒼一は過去に――しかも比較的最近――目の当たりにしている。だからこそ、友人の異変に腰を上げて駆け寄ろうとした日奈を、羽交い締めにしてでも力づくで引き止めずにはいられなかった。そのうえ、彼のポケットでは、借り物のスマートフォンが振るえ続けている。決まりきった相手から時々仕事の連絡が来る程度の端末が、嫌になるくらい自己主張する意味がわからないほど、彼ものほほんとはしていない。

 瘴気か、魔物が、近くにいる。

 目の前で友人に起きている異変が起きている状況とあわせれば、答えは火を見るより明らかだ。


「気持ちはわかっけど落ち着け、雪村!」

「だけど、荒城がっ」

「フツーじゃねぇのはみりゃわかんだろうが!」


 下手に近づいたらどうなるかわからない以上、爪を立てられようが噛みつかれようが、蒼一は力を緩めない。

 痛みも相まって強まる少年の語気と剣幕に圧されてか、日奈はようやく抵抗をやめるが、その間に太陽は沈み切り、魔の時間帯が訪れる。

 二人の目の前でゆらゆらと立ち上る、夜の闇とは明らかに異なる気配は、徐々に凝縮し、いつしか視認できるほどに密度を増していた。音もなく染みでた黒は、どこか大儀そうにを巻きながら、未だ苦しみに身動きの取れない友人にまとわりつく。

 禍々しさに屈しそうになる蒼一だったが、この場で何もしなければそれこそ最悪の事態になりかねない。まずは日奈を自分の背後に追いやる。


「……逃げろ、雪村」

「逃げろって、アンタは」

「いいからとっととこの場から離れろ!」


 荒城を抱えこんだ瘴気は、徐々に球状にまとまりつつある。その直径は目測で二メートル強といったところ、異質なサイズなのは疑いようがない。その表面にはサナギを彷彿とさせる不規則な凸凹や有機的な渦巻模様が浮かぶ。たとえ理性や直感に背中を蹴飛ばされたとしてもお近づきにはなりたくない、そんな危険な臭いがプンプン漂っている。


「早く!」


 蒼一が叫べども返事はなく、その場を立ち去る気配もしない。

 新たな異変に振り返った彼がみたのは、元いたベンチに倒れ込み、気を失っている日奈だった。

 一転して顔を青ざめさせ、思考を空白に陥らせた少年だったが、件の球体が未だ危害を加える気配をみせないことに気づく。


 雪村を魔物こいつから引き離すなら、今だ――!


 瘴気に取り込まれ、異形と化しつつある友人相手に、できることなんてほとんどない。

 まずはとにかく安全なところへ、と日奈を背負った蒼一は、上がる息もきしむ足も痛む肩も全部無視し、一も二もなく少し離れた東屋あずまやの影へ走る。敷いたジャケットの上に横たえた少女は、意識こそ戻らないままだが、手首には確かな拍動があるし、吐息も決して弱くない。命に別条はないと判断した少年は、震える指をなだめながら、要救助者アリ、の速報を統括機構へ送る。

 マニュアル通りの処置はここまで。あとは自分で判断して動かなければいけない。

 広場に取って返した蒼一は、スマートフォン片手に黒い球体の様子を伺う。丸い蛹は一定のリズムで膨張と収縮を繰り返しており、に向け着々と力を蓄えているように思える。


「ちっと待て、おい、どうなってやがる……?」


 グロリアが来るまでこのままでいてほしい、という彼の淡い期待をあざ笑うように、変化は想像よりはるかに早く訪れる。無機質なスマホのレンズと、腰が引けた少年の視線の先で、蛹は拍動をどんどん強めてゆく。乾いた表皮は極めてもろく、うごめくたびにひびが走る。

 程なくして、一拍毎に無数の小片が剥がれ落ち始めた。


「なんだよ……あれ……」


 中から現れたのは、美しい蝶でも、毒々しい蛾でもない。ただただ醜悪で、巨大な肉の玉だ。

 勢いよく脈打ち続ける赤青大小の血管が、鮮やかな桃色の皮膚に透ける。表面では無数のイボとコブが破裂と再生を繰り返し、とめどなく粘液を吹き出していた。荒城が瘴気に堕ち、魔物と化したことに、もはや疑いの余地はない。

 それでも、蒼一は悪あがきしてしまう。


 声が通れば、花泉蒼一おれだとわかれば、もしかしたら――


「荒城、俺だ!」


 変わり果てた姿の友人を前に、彼が試みたのは対話だった。

 肉玉にそれとわかる感覚器はないけれど、もとを辿れば荒城だから言葉だって通じるはず。蒼一を突き動かすのは、甘く不確定な目論見だった。


「きこえねぇとはいわせねぇぞ! きけよバカ野郎!」


 昔とった杵柄とばかりの大声に乗せた願望は、突如伸ばされたによって跡形もなく砕かれる。

 縦横無尽に振るわれる触手自体は、動体視力に長けた蒼一なら目で追って避けられる程度の速度ではある。問題は受け止めようのない重さだ。一本一本が、アスファルトの小道を押し潰すほどの衝撃をもたらす。そんな凶器を間断なく差し向けられるのは、嬲り殺しと大差ない。


『邪魔スるなァ……ソウいチぃ!』


 命の危機という心理状態でこわばる体を無理やり動かし、飛んで伏せて転がってをしばらく繰り返していれば、蒼一とてすぐに息を切らしてしまう。肉塊のを解することすら、もはや体力を奪う余計なノイズだ。


「その触手ブン回すの、やめやがれってぇの……!」


 触手だけではなく、肉塊がとめどなく垂れ流し続ける粘液も、蒼一を追い詰める。

 持ち前の運動神経で鞭をかわせても、粘液からは逃れようがない。B級映画のように服や体が腐りおちることはないだけマシだが、足が滑って踏ん張りがきかないのでは致命傷も同然だ。自分の体をイメージ通りに動かすのに慣れた少年ですら、派手に転ぶ。だからといって、動きを止めれば狙い打たれるのは明らか。今の蒼一にできることといえば、泥と粘液にまみれながら転がって逃げおおせるくらいのものだ。無様さは塩を撒かれてのたうち回るナメクジといい勝負で、あざはおろか、打ち身や打撲も避けられないだろう。それすらも、ここから無事に帰れるなら安いくらいだ。

 徐々に追い詰められる少年をあざ笑うように、肉塊自身が大きく跳ぶ。

 あるのかないのかもはっきりしない脳は、ちまちました搦手からめてではらちが明かない、とでも判断したのだろう。沈む、たわむといったを一切省き、突如として数メートルの高さまで跳ね上がったものだから、蒼一の初動は完全に遅れた。

 上、と気づいて顔を上げてももう遅い。重力にかれて迫りくるさまはゆっくりと、はっきりと見えているのに打つ手がない。あまりにも短すぎる蒼一の生涯では、走馬灯の再生時間もたかが知れている。


『オレハ、もウ……!』

「荒城……!」


 少年のつぶやくような呼びかけは、もう届かない。

 圧倒的な質量と重力加速度の積算の前にはただ、轢死体となる未来しか転がっていなかった。

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