1.6 ちょっとくらいはお楽しみがあってもいいとは思わないかい?
「さ、お茶にしましょうか」
紫音が指を鳴らすたびに、ケーキが自分から可愛らしい皿に飛び乗り、従順なポットがで新しい紅茶を入れて戻ってくる。
彩りの死んだ世界で、陰気なケーキセット一式が誰の手も介さずにサーブされる一部始終を、蒼一は頬を引きつらせて眺めるばかりだ。目を凝らせば、薄紫色のごく細い【鎖】が絡んでいるのがみえたはずだが、少年にはもはやそこまでの余裕がない。
「はい、蒼くん、あーん」
「わかった、もうわかったっての!」
紫音の忠実な
自分の知らない色調の世界でひきおこされる、常軌を逸した現象の数々と、高校生にもなって母親に――直接ではないにしても――ケーキを手ずから食べさせてもらうことへの羞恥心が、蒼一に白旗を挙げさせる。
「ちゃんと話をきく! あとケーキは自分で食う!」
「魔法使いじゃないわよ、ま・ほ・う・しょ・う・じょ」
年甲斐もなくふくれっ面をした紫音は、乗ったケーキを倒さない絶妙なバランスを保ったフォークをけしかけつつ、発言の修正を要求する。
「はい、復唱ね。お母さんは?」
「オフクロは」
「お母さんは?」
ここでつまらない意地を張ったところで、堂々巡りになるのは目に見えている。蒼一の心の天秤が言い直しの方に傾くまで一秒もかからない。
「お母さんはもぎゅっ」
は、までいい切ったその瞬間、身震いしたフォークが狙い過たず、少年の口内へ甘い一欠片を叩き込んだ。
「魔法少女です」
「……
「はい、よくできました」
不服もあらわにいい切った蒼一が、少々乱暴な手付きでフォークを奪い取っても、さしたる抵抗はない。
灰色の空間で母親に転がすだけ転がされ、してやったりと微笑まれるのは癪だが、さりとて勝てる気は一切しない。彼にできることといえばせいぜい、舌に広がる甘さを忘れたような渋面を浮かべるくらいのものだ。
「とりあえずさ、俺の視覚をもとに戻してくれねぇか? 食えるもんも食えねぇよ」
「大丈夫よ蒼くん。【転調】は空間にしか作用しないから、あなたの感覚に後遺症が残ることはないわ」
「ごめん、ちっと何言ってるかわかんねぇ」
紫音が合図すれば、世界は何事もなかったかのように元の色を取り戻す。
ケーキと紅茶を吟味するのもそこそこに、蒼一は横目でリビングを観察する。自分の知らないうちに何かが微妙にずれているのではないかと不安がる素振りに、育ち盛りの高校生らしさはない。壁時計の秒針が再びルーチンワークに戻り、窓の向こうの空で雲が動き出していたことにも気づかないあたり、自宅にいながらにして余裕までもが失われていた。
口に広がる砂糖の甘さも、紅茶のほろ苦さも、紫音の言葉も、なにもかも薄皮一枚向こう側の出来事のようで、どうも現実味に乏しい。それでも、想像の範疇の斜め上を
ただ、母を魔法少女と称するのは、まだいささか抵抗がある。
大人――年齢と人生経験をより多く積み重ねた存在のうち、生まれたときからそばにいる最も親しい間柄。蒼一にとって母・紫音とはそういう位置づけだ。彼女と少女という言葉がなかなか結びつかない上に、日常会話ではまず使うことのない魔法という枕詞も、難易度を一層高めている。
「いずれにしても、オフクロが、その……魔法少女だってのは、わかった」
葛藤と逡巡をどうにかこうにか乗り越えた蒼一の口ぶりは、勉強したばかりの未知の言語でも喋ってるのか、と疑いたくなるくらいにぎこちない。
「それを俺に知らせてどうする気なんだよ?」
「大丈夫、彼女が教えてくれるわ」
紫音がそういうと、まるで待ち構えていたかのように、チャイムが鳴り響く。
あなたもよく知ってる人よ、と静かに言い残した紫音は、スリッパを鳴らして訪問者を迎えにでる。リビングの扉は、先ほどの抵抗がまるで悪い夢のように、スムーズに開いた。
花泉家のリビングに、大人が一人増えた。
「すまないね、もう少し早く来る予定だったんだけど、会議が長引いてしまって」
「
「その通りさ」
スーツを着こなした赤髪の女性――
「普通、説明が先じゃねぇの?」
「こいつは手厳しいね」
そのままケーキに手を付けようとした彼女よりも、小さく舌打ちした蒼一が皿を脇に退けるのが、一拍早かった。
「ちょっとくらいはお楽しみがあってもいいとは思わないかい?」
「当然の権利を主張してんすよ」
ガラステーブルを傷つけまいと、天板にキスする寸前のフォークを手中でくるりと回す仕草から、ちょっとした言葉選びに至る、どこか芝居めいた振る舞い。ベリーショートヘアー、シャープな顔の輪郭と鼻の造形、小柄で細身な体躯にフィットしたブルー・グレーのパンツスーツという、できる女と伊達男を足して二で割った出で立ちにピタリとハマった桃香の一挙一動は、蒼一の神経を逆撫でする。
「それこそ、お菓子と紅茶が必要な話さ。なにせいささか長くてね」
そういって分け前を取り返した桃香にあわせて、紫音は如才なく、紅茶のおかわりを注いだ。
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