1.5 お話があります

 常軌を逸した夜もいつかは明ける。

 スマートフォンのアラームに叩き起こされた蒼一が目にしたのは、いつも通りに朝の支度をする母だった。昨夜に魔犬を【救済】して力を使い果たし、息子に背負われたのが嘘のようにキビキビと歩き、料理し、洗濯物を干す。その間、魔犬のことなど一切話題に登らなかった。

 普段のように振る舞えないのは、むしろ息子の方だった。朝食をとっている間も、ようやく慣れてきた気がするブレザーの制服に着替えている間も、ちょっとかごがひしゃげた自転車で登校する間にも、脳裏によぎるのは昨日の魔物の姿、母の背、そして桃香と交わした約束だ。

 チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、授業が始まってなお、心ここにあらずといった調子は変わらない。

 座学で指名されて完答しきれないのはいつものこととしても、こと得意なはずの体育の授業でつまらないミスを連発する。老教師の目を盗んで早弁を試み、見事に玉砕する悪友をみても、元気な女友達と一緒にツッコミを入れることもない。いつもなら母お手製の彩り豊かなドカ弁をペロリと平らげるのに、今日ばかりは妙に箸が滞る。委員長の少女に再三再四「大丈夫ですか?」と心配され続ける始末だ。いつもどおりにしよう、と思うほどに調子の狂う悪循環が彼を苛む。

 そんな蒼一のもとに、午後の授業中、一通のメッセージが届く。


 授業が終わったら、すぐ帰ってきてください。大事なお話があります――。




 歯車が噛み合ぬまま帰宅した蒼一を待ち受けていたのは、ささやかながら、しかし完璧に準備されたアフタヌーン・ティーだった。

 開け放たれた空の向こう、春の終わりらしい淡い色の空からやってきた南風が、立ち尽くす彼に淹れたての紅茶の香りを届けてくれる。ガラステーブルを彩るのはかわいらしいケーキの数々。紫音から送られてきたメッセージの文面や、昨夜の桃香の言葉から漂う重さとは釣り合わない、素敵な午後の一ページである。

 場にそぐわないのは、自宅の居間にいながら警戒心をあらわにする蒼一の出で立ちもそうだ。同級生の誰もが一端いっぱしのアスリートと認める体躯と日焼けのさめぬ肌には、ヤカンに煮出した麦茶のラッパ飲みや、大ぶりに切られたスイカがよく似合う。可愛らしいティーカップや宝石箱に詰まっていそうなお菓子とは対極の立ち位置にいた。


「おかえりなさい、蒼くん」


 そんな息子を出迎えた母・紫音の笑みには、後ろ暗いところは微塵もない。

 柔らかくウェーブしたセミロングの黒髪をかきあげる仕草と、黒いアンダーリムの眼鏡が大人らしい佇まいをもたらす一方で、顔立ちからはどこか幼さすら匂いたつ。成長期の息子に並ぶ長身はたるみや緩みと無縁ながらも、ハイネックの白いニットとタイトなブラックジーンズによって、成熟した女性らしい艶のある曲線が強調されていた。若さと色香が一点で均衡を保っているその姿からは、今春から高校に通う息子がいるとは想像しがたい。

 そんな紫音は、ほんの二十四時間足らず前まで、【鎖】を振るって異形の魔犬を圧倒していたはずだ。でも、こうしてティーセットを楽しそうに並べる様子を目にすると、それすらも少年の夢幻だったかのように思えてしまう。


「ほら、いつまでもそんなところでつっ立ってないで、座りなさいな。ちょっとしましょう?」


 現実逃避しかけた息子の思考を引き止めたのもまた、母の言葉である。何を話すつもりなのかはわかりきっている、昨日の事件の話だろう。


 話を聞いたら最後、俺は戻れなくなるんじゃないか――?


 蒼一は無意識のうちに後ずさろうとしていた。逃げたあとのことなんてとりあえずあとでいい、今はここを離れるのが先決だという直感が体を突き動かす。

 だが、彼のスリッパのかかとは硬い感触に遮られ、止まった。


 ――あれ、俺、扉閉めてないよな?


 弾かれたように振り返れば、扉は素知らぬ顔で間口を閉ざしている。誰の仕業かはきくまでもなく明らかだ。


「オフクロ! いったい」


 何をした――とまで、言葉にならなかった。

 お茶会の準備を終えた紫音が小さく指を鳴らせば、瞬く間に世界から色彩が失われる。温かみあふれる木目の床も、部屋の隅で揺れる観葉植物も、果ては窓の向こうの空にいたるまで、明度の差こそ違えど、すべて味気ない灰色グレースケールに染まってしまった。旧い映画のフィルムを切り取ったような世界なのに、母子だけが鮮やかな色を保っている。

 魔犬がいないだけで、昨夜と一緒だ。


 「、こっちにきて座りなさい。お話があります」


 紫音が柳眉を逆立てることはない。静かに、穏やかに、しかし威厳に満ちた顔で息子を呼ぶ。

 むき出しになった違和感に耐えられなくなった蒼一は、母親を無視してドアハンドルに手をかけた。たった四十五度だけ手首をひねれば、この世にも奇妙な部屋から抜け出し、いつもの平穏な日々に戻れるはずなのだ。

 そんな一縷の望みを、再び鳴らされた指があっけなく崩す。緊張感に欠ける音だが、今の少年にとっては絶望の鐘も同然。嫌な予感は脳裏に浮かぶ間もなく顕現する。

 いくら蒼一が力を込めても、ハンドルはビタ一文動かない。入るときはさしたる抵抗もなかったくせに、今は聞き分けのない子供のように、彼を部屋に引き留めようとする。


「なんだよ、これ、なんだってんだよ……!?」

「蒼一」


 母の声に振り向いた息子は、立て続けに身に降りかかる異常事態に顔を青ざめさせるばかりだ。普段はもちろん、野球の試合で大ピンチを迎えた時すら、そんな情けない面を晒したことはない。


「そこに座りなさい。ね?」


 狼狽を隠せない息子に、母がかける言葉は、あくまでも強く毅然としている。

 どこまでも真っ直ぐな瞳にしまけたか、厳しくとも自分を呼ぶ声にすがったのか、この色のない空間で自分ができることなどないと悟ったか。蒼一はややおぼつかない足取りで母に従う。腰を沈めたソファの反発は普段と変わらないはずなのに、この世のものといい切る自信に乏しい。感覚だけでなく、そこに紐付いた記憶すら、曖昧なものに変わってしまっていた。

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