1.4 今は何もきかないでほしい

 ほんの少しだけ迷いを見せた蒼一だったが、すぐに意を決し、母に背を向けて屈みこむ。


「蒼くん?」

「おぶってやるから、ほら」

「でも」


 平均的な日本人女性より大柄なぶん、背負う側に相応の膂力りょりょくが必要になる、彼女特有の事情。

 女性らしい恥じらいもあろうが、相手は息子で、それも年齢不相応に恵まれた体格の持ち主だ。心配なんて最初から無用である。


「オフクロ一人背負って歩けねぇほどヤワじゃねぇよ。ほら早く」

「……ありがとう」


 必要以上に時間をかけて悩んだ紫音は、申し訳無さそうに、蒼一の背に体を委ねる。


「蒼くんも、お母さんをおんぶできるくらいになったのね」

「やかましい、放り出すぞ」


 かつてと逆の立場となった紫音は、照れ隠しの混じった悪態に微笑む。女性としては外れ値もいいところの高身長で、誰もが羨むメリハリの効いたスタイルを持つはずの彼女だが、その身体は蒼一の想像以上に軽かった。


 ――なんか、妙な感じがするな。


 ゆるく波打つ紫音の髪や、柔らかい吐息が耳元や首筋をくすぐってくるのは、たしかにこそばゆい。でも、違和感はそれだけにとどまらなかった。

 蒼一の記憶の中にある母は、いつだって凛々しく、美しく、堂々としていた。実際の数字以上に大きく見えた背中を、彼は未だに覚えている。先ほどの魔犬との一件もまた然りだ。

 そんな紫音が、今、自分の背にすっぽり収まって大人しくしている。腕にかかる重み、背から伝わる温もりが存在を証明しているのに、どういうわけか実感だけが乏しかった。


「ごめんなさいね、蒼くん」

「どうしたよ?」

「十五年ぶりくらいに【救済】したせいかしら、ちょっと疲れちゃった」

「なんだそれ?」


 命を助けられた息子としては、感謝こそすれども、謝られる理由は何一つない。

 軽口混じりに母の言葉の意味を問おうとしたのだが、返事は帰ってこなかった。


 ――寝ちまった?


 ちらりと見やれば、紫音が安らかな寝息を立てている。さっきまで魔犬と大立ち回りを繰り広げていたとは思えないくらいに力が抜けており、ちょっとだけ子供っぽい。

 その様子に少しほっとした息子は、母を起こさぬようにそっと背負いなおすと――魔法少女とは、魔法とは、瘴気とは、あの怪物は何なのか、どれ一つとして明らかになっていないことに思い当たる。


「肝心なこと、何もきけてねぇな」


 この橋の上でただ一人真相を知る紫音は深い眠りに落ち、今の彼を導いてくれるものは誰もいない。


「つーか、こっからどうするよ……?」


 そして、道の向こうには乗ってきた自転車と、通学に使っているメッセンジャーバッグが転がったままだ。バッグは頑張って前抱えするにしても、自転車は母親を連れて帰った後で回収しなければいけない。

 腹を括って歩き出そうとした蒼一だったが、ふと、一台のジープが近づいていることに気づいた。闇夜からすっと現れたつや消しの黒い車体は、巨体に見合った落ち着きとともに、親子から数メートル離れたところで停まる。

 鬼が出るか蛇が出るか、とばかりに警戒心をあらわにした少年の目の前に降り立ったのは、思いのほかよく知った顔だった。


「蒼ちゃん? どうしてここに?」

「桃香さんこそ、なんで……」


 母の友人・南郷なんごう桃香ももかによって、蒼一の混乱が再びぶり返す。

 短身痩躯に合わせてわざわざ仕立て直した男物のスーツに身を包む、燃えるような赤い短髪の女性は、最後に少年の背を見ると得心したようにうなずいた。


「だいぶ大変だったみたいだね」


 偶然行き合っただけか、それとも何らかの意図があってここにきたのか。桃香の様子を見るにどうも後者らしい。事情はともかく、困っていたところに知っている大人がきてくれたという事実は、少年の心に安心感をもたらしてくれる。彼女に促されるまま、後部座席に目覚めぬままの母を横たえた蒼一は、自分のメッセンジャーバッグを抱えて助手席に乗り込んだ。


「……車、出さないんすか?」


 だが、人を急かした当の桃香が、なかなかジープを発進させようとしない。

 自転車の回収はあとだと告げ、運転席に乗り込んでエンジンをかけてからこっち、手元のタブレット端末に目線を落としたままだ。数分も経たずにしびれを切らした蒼一が声をかけても、桃香は自分の考えの沼から抜け出せていない。よりによって彼か、とか、身内だけど規則は規則だけどな、などとぶつぶつ呟くばかりだ。


「……大変な思いをしたところすまないんだが、蒼ちゃん」


 急かされても決して焦らなかった桃香は、ついに覚悟を決めたのか、運転席から身を乗り出して蒼一を見つめてくる。短髪と端正な顔立ちがあいまった、どこぞの歌劇団の男役を思わせる出で立ちから繰り出される言葉は、母の友人でなければいたかもと錯覚させるくらいに熱がこもっている。


「色々疑問はあるだろうけど、頼む、今は何もきかないでほしい」

「な、なんだよ」

「今夜のことを忘れろとはいわない。ただ、誰にも喋らないと誓ってほしいんだ。写真や動画は撮っていないね?」

「んな暇なかったって」

「理由は明日、必ず話す。必要な説明もその時にする。紫音にはあたしから話をつけておくから、放課後、寄り道せずに帰ってきたまえ」


 麗人の物腰は穏やかだが、押し付けてくる気配の圧は強い。お願いの域にとどまらず、それ以上の問答は無用とばかりに黙り込む。有無をいわさぬ態度は、何が目的なのか問いただす余地を少年に与えなかった。

 ドライビング・ポジションに戻った桃香は、紫音を起こさぬようそっとジープを走らせる。何時もならうるさいくらいに話しかけてくるはずの母の友人が、今夜に限ってだんまりを決め込むのが返って不気味だ。蒼一も妙な重さの空気を跳ねのけられず、窓の外の暗闇を見つめることしかできない。ロードノイズも、風切り音も、エンジンの鼓動も、全てが耳ざわりだ。


 結局その夜は、帰宅する途中も、帰宅してからも、最低限の言葉しかかわされることはなかった。

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