1.3 【救済】

「……行きます!」


 グロリアの言葉は、息子にきかせるためのものか、それとも自らを鼓舞するためのものか。

 いずれにしても、彼女の行動は迅速で、迷いがない。鋭い牙と爪、【鎖】すら切り刻む尾を持つ上に、圧倒的な体格差のある魔犬に真っ向勝負を挑もうと、自分から距離を詰める。

 魔法少女を迎え撃つ魔犬が振り下ろす尾は、蒼一からみてもわかるほどに、勢いに欠けており、一見虚を突かれたようにみえる。一方で、地を踏みしめる太い四肢は、これ以上ないほど力をみなぎらせていた。油断なんてそこにはない。

 魔犬は内心、ほくそ笑んでいたことだろう。尾は相手を誘い出すための囮でしかなく、本命はあくまでも接近戦――爪で斬りつけるか、牙で喉笛を噛み切るか。偽りの一撃をかわそうと切り返す、僅かに足が止まる瞬間に罠が仕掛けられているのだが、魔法少女は意に介さない。

 傾いだグロリアの重心は、誰の目から見ても、右へ跳ぼうしているのが明らかだった。魔犬の濁った瞳も、現在ではなく、最後の一撃を見据えている。

 眼前に迫る刃を避けようとした魔法少女の左足がアスファルトを捉えるのと、魔犬が飛びかからんと地を蹴ったのはほぼ同時。


 だが、巨躯が宙を駆けることは、なかった。


 黒髪と装束ドレスの裾を踊らせながら鋭い一撃を避けたグロリアは、白黒灰モノクロの世界で静かに微笑わらう。彼女の視線の先では、魔犬の足元から蒼一の腕ほどもある太い【鎖】が生え、四肢にガッチリと絡みついていた。

 しかし、【鎖】が地に縛り付けたのは異形の巨躯だけ。全力の跳躍へと転じかけていた勢いまで、その場に留め置いてはくれなかった。魔法少女の力によって生まれた現世このよならざる空間でも、行き場を失った力は消失することは、決してない。魔犬の目論見はすべて、自らに襲いかかる凶器に転じた。

 瘴気によって変質した筋肉が、骨が、腱が、全てきしみ、ちぎれ、砕け、破れる。

 かつて、自分の肩ひじがあげたものと同質の破滅の音に、蒼一は青ざめ、思わず耳を覆った。

 直後、ボロキレのように崩折れた魔犬が地を揺らす。歪む口元からうめき声の代わりにあふれる白い泡、過負荷に耐えられなかった関節から吹き出す青黒い血をみれば、どちらに軍配が上がったかは明らかだ。


「最後まで気を抜かずに行きましょう。【救済】に移行します」


 異形の手足はもちろん、力なく垂れ落ちるばかりの尾に至るまで、魔法少女はきっちりと戒めを施す。固く締め付けられた【鎖】には僅かな緩みも、霧散する気配も見いだせない。だが、魔犬はこの世のものならざる存在。グロリアがそうであるように、破壊された組織が復元するのも時間の問題だろう。締め付けられた【鎖】の隙間から漏れ出す血は、勢いを弱めつつある。


「ねえ、蒼くん」


 ちらりと振り返ったグロリアの顔に、最後の仕事――【救済】を控えた緊張はない。少年の目を引くのは、憂いを帯びた笑みだ。


「今の蒼くんに、私はどう見えてるかしら?」


 どこぞへと去ってしまいそうな淋しさに、蒼一は無意識のうちに手を伸ばしていたが、彼女の背には届かない。

 すがりつくような少年の視線の先、装い以外は見慣れた母親しおんのはずだったグロリアの姿が、三十秒にも満たない間に変貌する。

 息子と並べば年の離れた姉と間違えられる童顔は更に幼くなり、身長も足の長さも豊かな胸も、全てがひと回りコンパクトにまとまる。装束ドレスの身幅や丈も身体に合わせて縮んでいるのだが、声まで高くなっていたことにくらべれば瑣末事だ。

 それはまさに、変身。

 原因はわからないが、間違いなくグロリアは――。


「なんつーか、その、若くなった?」

「……そう。でも、まだここはそのままなのね」


 グロリアはひとしきり、細い指で黒髪を弄ぶ。嬉しがりも照れもせず、かといって失望や絶望といった負の感情もない。あるがままを受け入れたような顔で髪を跳ね上げると、最後の仕事に挑む。

 拘束したままの魔犬の鼻先へ右手を伸ばしたグロリアから、装束ドレスと同じ薄紫色の光が溢れ出す。

 太陽ほどの熱はないけれど、月のように侘しくもない輝きには、優しさに包まれているような確かな温かみがある。先ほどの張り詰めた雰囲気から一転し、蒼一が思わず感嘆の声を漏らすほどに、空気は穏やかに凪いでいた。


「瘴気に魅入られし哀れな者に、元の平穏と安らぎを――」


 魔法少女の発した憐憫れんびんの言葉によって、質量などないはずの光が一転して渦を巻き始める。

 その勢いについ後ずさってしまう少年だったが、じっと魔犬を見つめる魔法少女からは目を離さぬままだ。

 先ほどまで自分を苦しめ、息子を生命の危機に晒した異形へ向けるものとは信じがたい慈愛が、彼女に宿っているような気がした。


「【救済】」


 グロリアの合図とともに、せきを切ったように広がる、光の大河。

 その柔らかい輝きは、最後まで見届けようと耐えていた蒼一すら顔を覆わずにはいられなくなるほどの強さで、常世せかいを塗りつぶした。




「任務終了しました。あとをお願いします」


 一瞬のはずなのに、ひどく長い時間がすぎたようにも思える。

 終演を告げる母の声に、蒼一は恐る恐る顔を上げ、あたりを見回した。

 彼の目に映るのは、いつの間か見慣れた色を取り戻した帰り道。遠くの空に浮かぶ月、青みがかった夜の闇を切り取る街灯、家々の窓から滲み出る明かりと、質も強さも違う光が、少年の心に落ち着きと安堵をもたらしてくれる。【救済】の輝きも【転調】の痕跡もすっかり消えた橋の下からは、これまでと変わらぬ水音が轟いていた。

 そんな現世せかいの片隅で、幕を引いた主演女優ヒロインは、アスファルトに片膝をついていた。が解けたのか、装束ドレスではなくハイネックのニットと黒のデニムの普段着を身につけており、見慣れた大人の背格好に戻っている。肩にかかる黒髪はすこしばかり乱れているけれど、艶は変わらない。


「そいつが、あのバケモンの正体か?」


 紫音の足元では、大きめの柴犬が丸まっていた。弱々しいながらも呼吸はあるようだが、目を覚ます気配はない。


「弱っていたときにに触れてしまったのかしらね」

「しょ……なんだって?」


 聞き慣れない言葉に疑問を投げかける蒼一だが、母は答えることなく、橋のたもとの歩道まで柴犬を抱えてゆく。


「あとはにおまかせしましょう。きっと悪いようにはしないはずだわ」

「ちょっと待ってくれ、オフクロ。さっきからいってるそれって」


 紫音が発する耳馴染みのない単語。その意味を問いただそうとした蒼一だったが、母の異変に気づいて慌てて駆け寄る。

 立ち上がって膝を払おうとした紫音は、ぐらついたまま踏ん張りきれなかった。息子がとっさに支えていなければ、受け身も取れずに倒れていたかもしれない。


「ったく、大丈夫かよ」

「ごめんなさいね、思った以上に無理しちゃってたみたい」


 いつもなら気丈に振る舞い、息子を心配させまいとしたところだろう。だが、今はその気力を絞り出すせるかどうかも怪しいようだ。

 彼女らしからぬ弱々しい言葉に、蒼一は思わず紫音の顔を覗き込む。ぽそりと本音をこぼしたその目元には、三十半ばに相応しい疲労が色濃く浮き出ていた。

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