1.2 いまの私は魔法少女グロリア、いいわね?
「え……? まほ、え?」
「詳しい話は落ち着いてからにしましょう」
紫音はひとまず事態の収拾に専念するつもりらしい。現状を受け止めるので精一杯の息子を背に、
現実のそばにありながら、現実から切り離された世界――
「さあいらっしゃい、ワンちゃん」
ドレスの裾から覗く同色のロングブーツ、その踵を軽く鳴らせば、薄紫色の【鎖】が術者の意のままに踊り、魔犬の気を引くようにひらひらと揺らめく。
だが、相手は魔法少女の誘いに乗る素振りをみせない。鋭い鱗に覆われた尾が執拗に狙うのは蒼一ばかりだ。野球で鍛えられた彼の動体視力をもってしても目で追うにはいたらず、紫音が守ってくれなかったら何度絶命していたかしれない。
「嫌な子ね、私が相手するっていってるのに」
母が普段と変わらぬ落ち着きをみせているから、現実と夢の
「蒼くん、そこから動いちゃだめよ?」
「……おう、頼む、オフクロ」
「あと、この姿のときは、うっかり人前でお母さんって呼んじゃダメ。いまの私は魔法少女グロリア、いいわね?」
「まほ……なんだって?」
「ま・ほ・う・しょ・う・じょ。魔女じゃないわよ? いいわね?」
「なんだよそりゃ」
「い・い・わ・ね?」
「わかった、気をつけるよ、オフ……グロリア?」
噛んで含めるように突きつけられた要求に、蒼一はつい
全ての奥歯に大物がは挟まってでもいるかのように、少年が
「さて……おいたはだめよ、ワンちゃん?」
普段から子犬にそういってきかせるだろう、と容易に想像できる声色で、グロリアは魔物に語りかける。一戦交えている最中とは思えぬほど穏やかだし、微笑み混じりなのも場にそぐわない。
だが、彼女がみなぎらせる気迫は強い。先ほどまでのそれが
グロリアの背後で守られる立場の蒼一でさえ声が詰まり、真っ向から相対している魔犬も一歩退いて威嚇する。攻めあぐねているのか、何らかの策を巡らしているのか、暗く濁った眼からは読み取れようはずもない。
「オフクロ……!」
数秒も立たずに出てきた答えは、
「大丈夫よ、蒼くん。それと呼び方には気をつけて」
余裕なのか空気が読めないのか、気が気でない息子に年甲斐のないウィンクを返したグロリアは、見かけからは想像できない俊敏さで跳んだ魔犬に呼応するように動き出す。体躯に恵まれる異形が剛ならば、ドレスの裾を翻す魔法少女は柔と、二者の動きは好対照。
一見すると、魔法少女が魔犬を翻弄する絵ではある。立て続けに仕掛けられた攻撃を軽やかなステップでいなすさまは、まるで自由な蝶々。
しかし、時折攻勢に転じるグロリアが、有効打を与えられているかと問われれば否である。
彼女が振るう薄紫色の【鎖】は、魔犬の表皮をくまなく覆う銀の鱗に阻まれる。眼前の巨体に、標的にできそうな柔らかい部位はほとんど見当たらない。関節までもが曲げ伸ばしを遮らないサイズの鱗に覆われているし、数少ない例外である眼や鼻は、【鎖】の扱いに長けた彼女をもってしても的としては小さすぎる。
「おっと!」
何度目かわからない躍動の後、ついたたらを踏んで傾いだグロリアの身体を見て、魔物は体の使い方を明らかに変えてきた。
魔法少女が牽制代わりに振るった【鎖】は、尾と交錯した途端、バラバラに切り裂かれて霞と消える。動物並みの耳をしていれば、魔犬の尾を鎧う鱗が耳障りな高周波音とともに振動していると気づいただろう。交わる度に弾きあっていた互いの獲物は、刃が鎖を一方的に散らす関係に変わった。
魔犬はもう、自分から距離を詰めたりしない。横薙ぎ、振り下ろし、細かい
「ちょっと作戦を変えましょう」
一転して逃げ続ける立場となったグロリアだが、余裕はいまだ揺らがない。紙一重で刃を見極めた回避を強いられ、時に
「オフクロ!」
「大丈夫よ、これくらい」
グロリアの言葉に嘘はない。魔力に支えられた旺盛な回復力は、普通なら命に関わる怪我もたちどころに治し、切り裂かれた装いすらもとに戻す。
「どういうことだよ……?」
魔物と渡り合う魔法少女もまた、人智を超えた存在であると、蒼一は改めて思い知らされる。常識を裏切りながら上回る現象を前にした少年には、母の姿が実際の距離以上に遠く見えつつあった。
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