姫と乙女と童貞。


 一時間ほどが経ち。

 優理たちは映画館に戻って来ていた。途中でフードコートに寄りたこ焼きを買ったり揚げパンを買ったりしたが、特に何もなかった。購入品も既に銀色お姫様のお腹に仕舞われ証拠は隠滅済みだ。


 優理とリアラは映画館の壁際に立ち、それぞれ両手にトレイを持って開場を待っていた。

 映画上映まであと二十分。トレイの上にはドリンク、ポップコーン、ホットスナックが載せられている。二人で三人分なので空きスペースはあまりない。まあ優理のトレイはほとんど食いしん坊お嬢様の物で埋められているのだが……。


 そのお嬢様は現在お手洗いに行っている。


「雨、止みますかね」

「今日ずっと雨の予報だったからね……。えっと、帰り、どうする?」


 窺いがちな視線。


「どうするも何も……ん、そういえばリアラさん。今日車でした?」

「う、うん」


 なるほど。そういうことか。

 リアラはほぼいつも車移動なのでもしやと思ったが、わざわざ車で駅まで来て待ち合わせしてくれたのか。申し訳ないやら嬉しいやら。


「えっと……そうですね。じゃあ帰り送ってもらってもいいですか?」

「うんっ……えへへ」


 なんでそんな、手間かかるだけなのに嬉しそうなんだ、とは口にしない。

 理由なんてわかってる。好きな人と居られる時間が一秒でも長くなる、それだけのことだろう。


「明日、仕事ですよね?」

「うん。優理君、学校だよね?」

「はい。……泊まっていきます?」

「――……ぜ、是非に」

「……おぉ」


 全力で目を逸らしたまま、リアラは深々と頷く。

 まさかの肯定に感心の声を出してしまった。遠慮しいなリアラがまさか、と思う一方、この人も変わってきているんだなと変な感慨も浮かぶ。


「じゃあ映画見て、ご飯食べて、そのまま車で僕の家ですね」

「う、うんっ」

「……なんだか、色々してもらってばかりですね」

「? 色々?」

「送り迎えも、アヤメのことも、休み取ってもらったりも、お店選びだって。……お返し、全然できてないなって」

「ふふっ、なんだぁ。いいんだよそれくらい。私がやりたくてやってることだもん。それに……優理君からは、もう返し切れないくらいもらっちゃったから」

「……そんなあげましたっけ」

「うん。恋を教えてもらっちゃった。こんな幸せなもの教えてもらっちゃって、これ以上お返しなんてもらえないよ」

「……欲がない人です」

「ふふ、私なんて欲だらけだよ」

「可愛い欲ばかりなんですね」

「か、可愛くないよ?」

「へえ。ならエッチな欲ですか?」

「え、エッチじゃないよっ!」

「あはは、わかってますよ」

「も、もう……」


 そんな話を続けて、トイレより戻ってきたアヤメと三人で待つ。

 隣の美少女が繰り返しポップコーンを見て、こちらを見て、リアラを見てと繰り返しているが努めて見ないフリをする。あと一分もすれば開場なのだし、ホットスナックも食べたばかりなのだし……。よく見ればホットドッグに加えてケバブサンドもなくなっていた。この子、短時間で二個も食べたのか……。


「……うん」

「ユーリ?」

「いいや、なんでも。お腹壊さないようにね」

「? はいっ」


 皆まで言うまい。

 頭を撫でるに留めておいた。


 館内アナウンスが入ったところで、のろのろと歩き始める。チケットを渡し、軽く案内を受け上映シアターへ。


 シアターは上から三番目の大きさだ。映画館自体が大きいので、液晶?モニター?のサイズ感は気にならない。とはいえ、それも前世で似通ったものを見てきた優理だから言えることではあるのだが。


「おっきいですっ!!」

「おっと声は小さくねー」

「ぁ、ご、ごめんなさい。ユーリ、リアラ、おっきいですっ」

「大きいね」

「ふふ、初めてだとびっくりするよね」


 はしゃぐお姫様を伴って座席に着く。

 深い椅子はゆったりしていて座り心地が良い。そういえばこんな椅子だったなと懐かしくなる。トレイをセットするスポットもあるのは、新しいような新しくないような。優理はトレイを必要とするほど映画館で物を買っていなかったので、これは新体験だった。


 並び順はリアラ、優理、アヤメの順で、特に異論はなかった。

 三人の中だとリアラが一番並び順を気にしていた。優理の隣が良い、しかしアヤメの隣も捨てがたい、どうせなら真ん中が良い。でもさすがにアヤメを優理と引き離すのは可哀想等々。悶々としている間にちゃっちゃと椅子に座ってしまい、隣に好きな男がいる現実が嬉しくて舞い上がっていた。とことん乙女なリアラである。


「ユーリユーリ、食べていいですか?」

「あったかいものはいいかもね。ポップコーンは後にしようか?」

「はいっ」


 口元を汚したら拭いてあげ、食べ物をこぼしそうになったら手を皿にしてあげ、髪が邪魔そうなら流してあげ、一緒に食べて欲しそうならあーんに付き合ってあげ、甲斐甲斐しく世話を焼く。


 今日は外なのでいつも以上にお世話をしていたら、隣の美人さんからくすくすと笑われる。当のお姫様はニコニコ幸せそうにスナックを頬張っている。


「ふふ、ふふふ。優理君、お母さんみたい」

「ええ……せめてお父さんにしてくださいよ」

「ふふっ、じゃあ私がお母さんだね」

「んぐ……急に夫婦じゃ、過程を味わえないんじゃないですか。恋人とか、新婚とか」

「あはは。うん。でも私、アヤメちゃんと一緒だから急に夫婦でも変わらないかなって。その……私が、ね? 子供できちゃったら、お話変わるかも、だけど」

「……今日のリアラさん強いですね」

「ふふ、映画館だからかな」

「なんのお話ですか?」

「ん、家族計画みたいなアレ」

「? 家族ですか?」

「うん。私と優理君と、アヤメちゃんと。三人家族のお話」

「とっても嬉しいお話ですっ」

「ああこら。ポップコーンこぼさないの」

「あぁごめんなさい優理っ」

「いや服だったからセーフだよ」

「さすがユーリですっ」


 拾ってもぐもぐする。

 家族と言えば優理には母親がいる。リアラ経由でアヤメのことも少しは伝わっているだろうが、ちゃんと紹介したらどうなるのだろうか。


『じゃーん、僕の妹だよ』

『優理……あなたの妹なら私の娘でもあるのね。ふふ、いらっしゃい、アヤメ』

『えっと……ママ?』

『――……優理、あなたは最高の息子よっ』


 みたいな。猫可愛がりする母親の姿が目に浮かぶ。

 あの人は結構寂しがりだから、リアラのことでさえちょっとした娘のように捉えているし、なんとも……。


「ユーリユーリ」

「あいあい」

「コマーシャルです!」

「あぁ、もうそんな時間か。注意事項とかあるからちゃんと見ておこうね」

「はいっ」


 ワクワクした顔の少女に微笑む。

 艶のある銀糸の髪に、同色の眉。深みのある藍色の瞳は丸っとしていて、小さな鼻と淡い桃の唇が目立たないよう配置されている。丸みを帯びた頬は昔よりモチモチ度が上がったように思えるが、実態は変わっていないはずだ。彼女は次世代人類である。


 細く華奢で、なのに男の優理でさえ一切敵わない膂力を持つ超人少女。漫画に出てくる魔法少女のようだ。物理だけど。


 慈しみ見つめ、そっと頬を撫でると横目でくすぐったそうにする。真っ白な歯を覗かせ、目を弓なりにして声を我慢している。前に集中しようとして、でも撫でられるのが嬉しくて嬉しくてしょうがないと言った顔だ。


 いつもいつも、アヤメは可愛いなぁと思う。

 この子の笑顔を守りたいと思う。我が子への愛、なのだろうか。それとも恋情由来の何かだろうか。わからない。ただ、でも、単純な性欲由来でないことは確かだった。

 その事実だけで優理には充分だった。十二分に、自身が手を尽くす価値がある。


 手を離すと、名残惜しそうに、物欲しそうに指先を目で追ってくる。くすりと笑い、さわさわ少女の頭を撫でて手を引いた。自分も前を向こう。


「……」

「……」

「……」

「……あの、なんでしょう」

「え、や、な、なんでもない、よ?」


 左より感じる視線。ビシバシと横顔に当たる熱視線は隠す気が一切感じられなかった。


「なんでもないならいいんですけど……」

「やや、やっぱりなんでもある、かも……」

「……いいですよ。今できることならなんでも。さっきの話じゃないですけど、お返しです」

「! じゃ、じゃあえっと……ね? 私にも、今の……ね?」

「……アヤメにしてたの?」

「う、うん……や、だ、だめならいいんだよ? そ、そうだよね。やっぱりだめだよ――はぅ、っん」

「これくらいは、ええ、構いませんよ」


 美人の頬を撫でる。

 手にファンデーションが付着する気配はない。べたつきもなく、人肌らしいもちっとした触感だけが残る。つるつる美肌だ。やはり時代はリキッドか。お値段も相応に張るものを使っているとわかる。だって乙女だもの。


「ん、ぁ、ふっ、ぅあ……ふぁ」


 ふるふると震える長い睫毛に、徐々に温度が上がっていく頬。薄暗いとはいえまだ明るい館内だから、頬色の移り変わりはよく見えた。

 というか、声我慢しているせいでエッチに聞こえて変な気分になってくる。


「リアラさん声……エッチなのはだめですよ」

「あぅ……そ、そんなエッチ、んん……エッチじゃ、ない、よ?」

「……録音して聞かせてあげたいですね」

「だ、だめだからねっ」


 うっとりした顔で撫でられている美人も、録音はNGらしい。あわあわとしていて可愛い。

 数十秒ほどやんわりと撫で続け、限界(性欲的に)が来たのでやめさせてもらった。


「ぁ」


 物欲しそうな目を向けるのはやめていただきたい。

 努めて見ないフリをし、前に向き直る。


「ユーリ」

「はいはい」


 忙しいなぁ、と再び右側へ意識を寄せる。左手は暇だったのでリアラの手の上に置いておいた。きゅっと繋がれる。あたたかい。


「ジュース飲ませてくださいっ」

「飲ませるって……」


 アヤメを見れば、視線は画面に釘付け、片手にホットスナック、もう片手にポップコーンと食べたり見たり超忙しそうにしていた。


「しょうがないなぁ」


 右手で飲み物を持ち、ストローを口元へ持っていってあげる。


「ふむ……」


 出来心で、ストローの位置をちょこっとずらす。


「あむ……む」


 桃の唇が挟み損ね、ストローは宙をスライドした。少女の眉間に皺が寄る。

 

「はむ……むー」


 あむあむとついばむように唇を動かすが、優理もこういう悪戯は無駄に得意なのでストローは逃げていく。


「……ユーリぃ」

「ふふ、ふふふ、ごめんごめん」


 お姫様がむくれてしまったので、すぐに謝って口元へストローを持っていってあげた。


「んふふー」


 オレンジジュースを飲めてご満悦なお姫様だ。可愛い。

 淡い唇からしゅぽっとストローが引き抜かれ、ぺろりと顔を出す艶めく舌。つい目を逸らしてしまった。それもこれも先ほどのリアラの喘ぎ声が悪い。

 気持ちを誤魔化し唾を飲み込み、やれやれと手を戻そうとする。が、普通にアヤメに手を掴まれてしまった。そのまま繋がれるかと思ったら。


「あむ」

「なにをぅ……っ」


 指が食べられる。人の手だと思って好き勝手舐めてしゃぶって遊んでくれる。

 驚きからすぐ、その表情と指先から伝わる感覚に背筋が震える。これはよろしくない。


「んふぅ」


 ぴくっと肩が跳ねた。少女の流し目がひどくエロティックで、否応なしに彼女との"ストレス解消行為"が思い起こされてしまう。普段は娘だ妹だと思い接しているが、それはそれとして定期的にエッチなこともしているのだ。意識してしまうと、それだけで顔が熱くなってくる。


「お、終わりっ!」

「ぷぁ……えへへー、いっぱい食べましたっ」


 無理やりに引き抜いた指先はぬらりと濡れていて、ほんの一瞬繋がった唾液の糸はいろんな意味で優理の理性を粉々に砕いた。

 ただまあ、優理は漢なので即座に理性を固めて取り戻して、そっと指先をタオルで拭……。


「――」


 忘れてはならない。傘宮優理、美女美少女とイチャイチャしていても童貞である。

 人並みの――いや、人並み以上に性欲は持ち、日々悶々としている。「あーエッチしたいエッチしたいエッチしたい」とは性欲MAX日の優理の一言である。


 童貞なら誰だって思う。目の前に美少女がねぶったモノがあれば間接キスの一つや二つしたくなる。何故ならそれが童貞だから。


 躊躇い、早鐘を打つ心臓のまま性欲が理性を埋め尽くしていく。のちの後悔も周囲の視線も思考から消え去り


「……」

「――――」


 視線を感じた。それは、緑茶色をしていた。

 惑いは消え、指はタオルで拭われた。後悔はある。けれどこれでよかったとも思う。傘宮優理の品格はここに保たれた。


「……さ、さーてそろそろ暗くなるし携帯電源切っておこうかなー」


 左からの疑念混じりな視線と、右からの元気いっぱいなゆらゆら肉体言語を感じながら、優理は鞄へと手を差し込んだ。


 その指先に、微かな未練を携えて……。





――Tips――


「煩悩×指先」

例えばあなたが美女もしくは美少女と共に過ごしているとして。

彼女が何の縁かあなたの指先を口に含み舐め遊ぶことになったとして。

その時、艶美な唇から引き抜かれた自身の指を見て、あなたはどうするか。あなたが童貞であれば、当然指を咥えるだろう。「これが関節チッス、か」と多大な興奮を抱きながら堪能することだろう。味わうことだろう。おお素晴らしき天啓と神に感謝するかもしれない。

それが煩悩である。自身の指であっても、そこに可愛い女性のエッセンス(唾液)が入った瞬間千金の価値を持つ。性欲的に。

ただしこの行為、時と場合を見極めなければいろんな意味で零度の視線を向けられるため注意が必要。

また、今回リアラが傘宮優理に向けていた視線は「……私も同じことしてみたいなぁ。指、私の唾液でも受け入れてくれるのかなぁ……さ、さすがにまだそこまで勇気ないよぉ……ううぅ」といった意味合いであり、自分自身への葛藤を大いに含んだものであった。

優理が咎められていると感じたのは、彼自身の罪悪感故である。漢よ、機を失するべからず。

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