第四章、傘宮優理とアイリス・アヤメ。

優理とアヤメの日常(朝)。

 十一月も中旬が近く、紅葉も深まり秋風冽冽と、日によって木枯らし吹き荒ぶ季節が訪れていた。


 十一月の十一日。土曜日のことである。

 朝より肌寒さに身を震わせ、傘宮かさみや優理ゆうりは目を覚ます。


 インナーシャツとパンツだけの睡眠スタイルはいつもと変わらないが、季節柄そろそろ靴下を装備してもいいかと思う男だ。しかし毎年のことながら、シャツ、パンツ、靴下のみの服装は変態度が増して抵抗感が強い。誰に見せるわけでもないならよかったが、大体一か月ほど前から優理の一人暮らし生活は終わりを迎えていたのだ。


「……」


 目覚め、身体に纏わりつく熱と柔らかさ、鼻孔をくすぐる甘く爽やかな色めく香り。さらには視界に映る繊細な銀糸の束に気づく。

 白い肌に薄い桃の唇、小さな鼻に銀の睫と眉が妖精染みていて、体温と感触がなければ夢か何かと勘違いしてしまう。


 傘宮優理、童貞。

 普遍世界(男女比1:1)から性欲逆転世界(男女比1:10)に転生して二十年。

 優理は多くの女性と知り合い、様々な初体験(手を繋ぐ、恋人繋ぎ、頬に口づけ、あーん、告白等)を乗り越えてきた。その中でも最上位に君臨するであろう出来事――――添い寝。


 そう、優理は既に添い寝童貞を卒業していた。


 時間にして今より三週間ほど前だろうか。

 同居人の銀髪美少女アヤメ・アイリスとお出かけデートを行い、様々なモノを購入した。それは食料に始まり各種生活用品、さらには座椅子、座卓、絨毯と家具にまで及ぶ。


 家具が到着するまでに優理の仕事(配信業)でごたごたがあったり、知り合いの美人とプラトニックなやり取りがあったりしたが、既に過ぎた話だ。


 優理は家具の購入に際し、兼ねてよりどうにかしなければと思っていた、ベッドと床布団問題を解決することにした。

 同居する人がいるにもかかわらず一人だけベッドで寝ていることに罪悪感を持つアレである。もう一人分のベッドを買おうか、と考えもあったが生憎優理の家はそこまで広くない。


 ということで、優理はベッド生活を捨てることにした。

 二人敷布団を並べて寝る。夢にまで見た同棲生活っぽい時間の始まりである。


「……」


 しかし誤算が一つ。

 十月、一緒に寝始めた頃は何事もなかった。

 物凄い喜んでにぱー!っと幸せな笑顔が見られて優理は嬉しかった。それで終わりだ。寝る時はじぃっとこちらを見つめてくる藍色の瞳にそわそわしたり、興奮で眠気の薄い美少女を頑張って寝かしつけたりと、思ったのと違う現実に困惑しつつもやはり幸せではあった。


 十一月になり、並んで寝ることにも慣れた美少女がよく寝てよく遊ぶお子様に戻ったところで、問題は起きる。


『――ユーリ、お手を繋いでほしいです……』


 この一言がすべての始まり。

 それは、よく雨の降る日の出来事であった。





 十一月一日。夜。二十一時過ぎ。


「アヤメー。そろそろ寝ようよ。いつもならもう寝てる時間でしょ?夜更かしはお肌に悪いよー」


 姉のようなことを言うこの男、姉でもなければ母親でもない。ただの一般童貞の男性である。

 布団で座って足を伸ばし後ろに手を置いてだるそうにベッドを見つめている。


「うぅ……でも、でもユーリ。お外ずっとうるさいですよ……」


 優理の視線の先、解体せず残されたベッドの上でぺたんと座っている少女がいた。

 銀髪に、深い藍の瞳。雪色の肌に浮いた桃色の唇は可憐であり、豊かに移り変わる表情がなければ人形か何かかと思ってしまうほどの造形美をしていた。


 銀の長い髪がベッドに流れ、華奢な体躯に淡い滝を作る。身じろぎで揺れた髪がさらさらと流れ、波打つ滝が可憐な容姿に幻想性を足す。


 しょんぼりと下がった眉が少女の不安を示し、優理は苦笑し窓を見る。

 カーテンの閉められた窓の先は見えないが、耳に騒がしいざあざあとした物音を忘れることはない。雨だ。今日は雨が降っている。それも大雨、豪雨と呼ばれる類の雨だった。


 アヤメと言う少女は特殊な出自をしている。

 両親はおらず、人の都合で生み出された次世代人類であり、その肉体は奇跡の賜物として存在している。大衆に知られれば必ず悪意に狙われる技術の粋が詰め込まれ、"世界のため"と犠牲を強いる者も出てくる唯一無二の存在、それがアヤメだ。


 不幸中の幸いか、アヤメが目覚めた環境は社会より隔離された空間にあった。


 目覚め、育ち、三年。

 出会いは少なく、インストールされた知識以外はインターネットで得た偏った情報しか知らない。

 数少ない出会いの一つが、彼女にとって人生を変える"傘宮優理との出会い"であった。


 優理と共に暮らすようになり、日々世界に新しさを見出しているアヤメではあるが、未だ彼女の心は幼いままだった。

 肉体年齢十九歳。精神年齢三歳。見た目は大人、心は子供の純粋無垢な銀髪美少女だ。


 話は戻り、今日である。

 まだまだ色々なことを知らないアヤメは、外の大雨と煩わしい雨音に怯えていた。

 雨は知っている。原理もわかる。昔と違って見たこともある。曇り空も青空も、朝焼けも夕日も夜空だって。優理と過ごすことでたくさんの空を見てきた。


 けれどこれは知らない。大雨なんて知らなかった。

 しとしとと冷たく、でもなんだか安心する音をくれる雨じゃない。轟々ざあざあ。風も雨も、うるさくて怖くて逃げたくなってしまう。


 逃げたくても、逃げ場はない。だって既に家の中にいる。ここが逃げ場のようなものだ。だからと言って布団に潜るのも怖かった。眠ってしまうと明日起きられないんじゃないかと思ってしまい、眠りたくなかった。眠気はあるのに眠りたくない。不安で変にドキドキしてしまう胸が苦しい。


「……なるほど」


 少女の内心を読み取ったわけではないが、一か月近く一緒に過ごしていればわかることもある。好奇心旺盛で表情豊かなアヤメのことだ。あんなに固まって怖がっている顔を見てわからないわけがない。


 優理は布団から立ち上がり、わー!っと勢いよくアヤメに近寄った。


「ぴゃうっ」

「はははー。怖い時はぎゅーってしてもらうといいんだぜー。どこかでそんなこと聞いた」


 記憶にはないがきっと幼い頃自分はそうしてもらったのだろう。

 寂しい時、辛い時、怖い時。誰かに手を繋いでもらう、誰かに抱きしめてもらう。最も効果的な対処法だ。

 可愛く驚いてすぐ、強張っていた身体から力が抜けていく。優理の背に腕が回され、少し息苦しかったのか左肩に小さな重みが加わる。


「……あったかいです」

「そっか。ぽかぽかする?」

「ぽかぽかします。……ユーリ、あったかいです」

「アヤメの方があったかいよ」


 柔軟性に富んだ薄い下着とシャツ越しに胸の感触がふにょりと伝わってくる。

 ぎゅぅぅっと強く抱きしめられればられるほど、胸元で潰れるパイおっぱいは官能的な心地良さを齎してくる。五感で感じるエロティシズムに何も思わないかと言われると、無論思う。


 思うが、だからといって童貞のように即座の反応はしない。いや童貞ではあるが、優理も成長しているのだ。既に今日は処理を済ませているし、アヤメとのハグにはある程度耐性もできてきた。上手いポジショニングや性的興奮以上に少女への親愛が心に浮かぶようになっていた。


 隙あらばエロイことを考える時代は終わったのだ。

 今はプラトニック・イチャラブライフ。ラブは大事だ。ラブは。


 少女を撫で甘やかし、徐々に力が抜けてきたのを感じて小さい身体――と言っても優理より十五センチほど小さいだけだが――を抱えて布団に連れていく。


 コアラのようにしがみついてきた美少女の体重は見た目よりずっと軽く、自由に体重を変えられるのは羨ましいなと頭の隅で微かに思う。


 少女に布団を掛け、電気を消し、薄い闇の中もちもちの頬を甘く撫でて自身も布団に潜りこむ。

 外は変わらずうるさいままだが、アヤメはすっかり眠気に惑わされてしまったようだ。


「ゆー……り。……お手を……さみしい、です」

「了解、お姫様」

「……えへへぇ……」


 可愛い銀のプリンセスに従い、優理は少女の小さな手を優しく握った。

 布団の中で体温を分け合うように手を繋ぐ。豪雨に呑まれた世界に、二つの布団を繋ぐ架け橋ができていた。


 先んじて夢の世界に旅立ったアヤメを追い、優理も微睡に身を任せる。

 雨音が聞こえる。ざあざあ、ざあざあと。





「……」


 手を繋いで寝るようになった大雨の日より一週間と少し。

 あの日より優理は毎日毎晩アヤメと手を繋ぎながら寝ている。妖精曰く"とっても安心できますっ!"と。きらっきらな笑顔でそう言い切られてしまっては拒否もできまい。童貞の流されやすさが露呈した。


 さておき、手を繋ぐだけなら優理もそこまで気にはしない。いや気にはするが、別に嫌じゃないしエッチな気分にもならないからまあいいかと思える。


 問題はその後、寝て起きた後の朝だ。

 流れを羅列するとわかりやすいか。


・目を覚ます。

・身体に柔らかさと熱を感じる。

・甘酸っぱい色気に満ちた匂いがする。

・視界に銀色が映り込む。


 つまりそういうこと。添い寝である。


 何がどうなったのか、朝起きたらアヤメが優理の布団に侵入し、当たり前のように童貞の身体を抱き枕にしていた。

 起きてすぐ銀の髪が見えるだけならまだいい。目の前、ほんの数センチの先に整った顔があって呼気が届いて気の迷いでキスしそうになったあの瞬間はもう――――人間の理性の強さを感じ取った漢だ。


 また、人の腕や足を抱えて太ももに挟んだり胸に抱え込んだりするのはやめた方がいいと思う。際どいしエッチだし、なんなら朝勃ちのせいで目覚めて即危機一髪を味わわされて辛かった。主に性欲が辛かった。その後処理したけど。


 国に提供する精子が増えて喜べばいいのか、親しい妹のような相手で致してしまったことを恥じればいいのか。でもアヤメも僕でストレス解消しているし、お相子なんじゃ……。そう自己正当化したくなってしまうくらいに、優理の日常には桃色が増えていた。


 今日、十一月十一日もまたアヤメは優理に添い寝をしていた。

 幸せそうな寝顔をさらし、半開きの口から涎が垂れている。美味しいものを食べる夢でも見ているのだろう。以前開いた口に悪戯で指を入れたら、あむあむと食べられてゾクゾクした。そして噛まれて普通に痛かった。性欲と罪悪感と好奇心と、あとちゃんと痛くて、起きたアヤメに曖昧な顔で笑いかけた童貞だった。変な悪戯はするものではない。


 寝ているアヤメを適当に引き離し、優しく布団を掛けてあげて髪を撫で頬を撫でておく。

 少女自身が言っていたように、手を繋いで寝ると本当に安心して眠れるらしい。朝までぐっすりだ。以前は優理より早く起きていたのに、最近はずっと幸せそうにだらしなく眠っている。可愛い。


 今のところアヤメは、優理と添い寝しているという現実に気づいていない。よく寝てよく食べる可愛いお子様になっているので、優理がご飯を用意して起きるまですやすや眠っている。時には食事の香りで自然と起きることもあるが、まだ一度だけだ。


 布団から出て、服を拾って部屋着に衣装チェンジして朝支度を整えていく。

 顔を洗い、うがいをし、口を濯いで化粧水と乳液を塗りたくって目を覚まさせる。小用を済ませ、ぱぱっと朝食を準備する。昨晩の残りと、毎日作る簡単オムレツだ。


「今日は悪くない形してるじゃん」


 気を逸らしたり雑にすると形が崩れるオムレツ。今日はちゃんと楕円形だ。

 優理の分は卵二個、アヤメの分は卵三個で作ってある。当然アヤメの分が後である。


 時計を見れば短針は七の数字を示していた。七時を過ぎたばかりだ。休日とはいえ、アヤメに規則正しい生活を送ってほしい優理の親心が働いた結果、大体いつもこの時間には朝ご飯を用意し終えている。


 布団に戻り、丸まって眠っている少女の傍にしゃがむ。


「おねぼうなお姫様。朝ですよー。ご飯ですよー」


 気分は異国の姫に仕える執事。

 執事にしてはかなり緩いが、そこは一般童貞と見て採点を甘くしてもらおう。


 もちもちな頬を撫でさすり、やんわりつまんで軽く引っ張って、なかなか起きないお姫様に頬を緩める。本当によく寝ている。


「エイラ、アヤメまだ寝てる?」

『肯定。アヤメ様はノンレム睡眠中です。覚醒期は近いため、声をかけ続ければ目覚めます。エイラは口付けを推奨します』


 枕元のぐにゃんと引き伸ばされた黒い携帯がピカリと点滅する。

 平坦な女性の声が聞こえてきた。声の主は汎用人工知能のエイラだ。アヤメとは異なる技術体系で作り出された超技術の塊で、こちらもアヤメ同様世間にバレたら狙われる存在である。


「口付けはしません。おでこならしてあげてもいいけど、お姫様を起こすのは食欲って決まってるからね」

『困惑。そのような知識はエイラの情報網に存在しません』

「アヤメ姫様限定だから。最近朝ご飯で起こしてあげてるようなものでしょ?」

『理解。そうでしたか。それならば優理様の発言通りに行動してください』

「おっけー」


 アヤメはまだまだお眠なようなので、頬を撫で回してから耳元に唇を寄せて囁く。

 ASMR配信をやっている優理にとって囁きなぞ朝飯前だ。文字通り、朝食前でもある。


「オムレツー。バター使って、今日はオーロラソースだよ。出来立てだよー。チキンソテーもあるよ。レモン塩味。納豆食べる?ご飯は十六穀米だよ。ソテーのソースかけたら美味しいよ。甘みもあるからねー。牛乳飲む?ホットミルクにでもしようか?」

「んぅ……おむ……オムレツ…………オムレツ……?」

「ん。オムレツ。甘しょっぱいよ。オーロラソースやドレッシングも合うかな。胡麻ドレッシング、和風ドレッシング。最近はトリュフドレッシング美味しいよねー」

「……オムレツ」

「あ。起きた?」


 目覚めの一声は"オムレツ"だった。

 銀の睫毛がふるふると震え、開かれた瞳は藍色の輝きで満ちている。

 ぼんやりしていた焦点が合わせられ、次第に頭がはっきりしていく様子が手に取るようにわかる。ぱちぱちと瞬きを行い、大きな瞳が優理の顔をしっかり捉える。


「おはよう」


 挨拶を投げると、ゆるっと口元が緩んで目尻が下がった。可愛いお姫様のお目覚めだ。


「……えへへぇ。おはようございますっ」

「ん。おはよ。起きて朝ご飯食べようか」

「はいっ」


 最後にもう一度頬を撫で、優理は先に立ち上がる。

 アヤメも身体を起こし、もぞもぞっと立ち上がって追いかけてくる。顔を洗ってきなーと伝え、てとてと歩く姿を見送ってホットミルクを準備してあげる。


 マグカップに注ぎ、電子レンジでボタン一つだ。

 ジージー流れる音をBGMに、素早く戻ってきたアヤメに微笑みかける。


「ユーリ!えへへー、私起きました!」

「そかそか。すぐミルク温まるから、ご飯食べようか?十六穀米どれくらいほしい?」

「たくさんです!」

「了解」


 少女の見た目には似合わない大きな茶碗へぽんぽんとご飯をよそっていく。

 ミルクを座卓に置いて、二人で一緒に"いただきます"をして食事を始める。


 今日のオムレツはオーロラソース味だ。

 新調した座卓と座椅子は広々としており、二人分どころか四人分は置けるサイズ感だった。


 ニコニコな笑顔で幸せそうにご飯を食べるアヤメに、優理もまたにっこりと笑みを浮かべる。

 いつもの一日が始まる。当たり前で特別な、優理とアヤメ(+エイラ)の一日が。





――Tips――


「添い寝」

男女の夢、あるいは乙女の妄想。

添い寝を経験するまでに至った乙女の九割九分九厘は結婚妊娠幸せ家庭生活までノンストップで進むため、夢見る乙女が現実に添い寝を味わえる機会はない。何故なら現実を味わった時点で夢見る乙女を卒業しているからだ。

また、添い寝は多くのシチュエーションの中でも想像しやすく、ベッドに寝転びながら致せるため性欲にあふれた女性の多くが妄想に使うことが多い。

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