性欲逆転世界における父親。

 朝だ。

 カーテンの隙間から漏れる弱い光で目を覚ます。


 ぼんやりとした意識のまま、股間が突っ張っていることに気づく。健全な男子足る証、朝勃ちだ。


「……」


 目が覚めた。息を殺し、周囲を確認して耳をそばだてる。

 寝息が二つ。安堵の息を音なくこぼし、同時に股間も沈んでいく。ギャグっぽいが当の本人は冷や汗混じりだった。危険度の高い状況だった。


 何せ状況が状況だ。簡単に羅列するだけでも。


・女友達の家。

・女装中。自身は女と偽っている。

・隣の布団にはこちらを向く友達の姿がある。


 やばすぎる。にしても香理菜の寝顔が結構色っぽくてエロい……煩悩よ、立ち去れッッ!!!


 脳内劇場はそこそこに、お小水のためと布団を這い出る。音を消して動くのは慣れているので苦なく部屋を出られた。

 トイレに入り、個室に安堵しながら小さな置時計で時間を見る。朝の六時半だった。


 早いなぁと思うが、最近は遅くとも七時半までに起きているのでそこまで普段と差はない。

 アヤメは早寝早起きなお子様なので、それに付き合って起きている形だ。優理が起きるまでずっと寝顔を眺めてニコニコしている幸せいっぱいな美少女がいるとかいないとか。そのうち添い寝でも覚えることだろう。優理の添い寝童貞が奪われる日も近い。


「……ふぅ」


 スッキリ一息。

 トイレを出て、二階から物音が聞こえることに気づく。朝食の用意か。優理も毎日やっているからよくわかる。ここは一つ、デキる美少女由梨ちゃんとしてお手伝いでもしましょうか。


 勢い込んで上に――行かず、ささっと顔を洗って口を濯いでおく。

 ニコッと笑い、化粧はなくともパーフェクト由梨ちゃんが完成したところで忍び足で階段を上った。


 二階では予想通りに朝食の準備中だった。ただし、想定外も一つ。


「――おや、傘宮さん、だったかな」

「え、あ、はい」


 つい素で返してしまった。

 取り繕う暇もなく、けれど料理人――モカパパは気にせず微笑んで話を続ける。


「早いね。普段から早いのかい?」

「は、はい。……えっと、モカパパはいつもお料理を?」

「ふふ、モカパパか……うん、悪くない響きだ。あぁ、うん。朝食は私が作ることも多いのだよ。妻は朝に弱くてね」

「あぁ……そうだったんですね」


 あの金髪巨乳美人、朝に弱いのか。

 おっとりゆるふわっとしている感じだからなんとなくわかる。モカパパが起こしに行って、あと五分あと三十分あと一時間を繰り返す光景が見えてしまう。


「ははは、もう長いことだけれどもね。最初は驚いたものだが、今となってはそんなところも愛おしく思えるものさ」

「そんなものですかぁ」

「そんなものさ」


 急に惚気られたが気にしない。

 良い夫婦だなと素直に思う。羨ましい限りだ。


 さて、と。何か手伝うか。

 てっきりモカママがいると思っていたからぼーっとしてしまったが、お手伝いで二階に上がってきたのだ。相手が男性とはいえ臆することはない。むしろ優理的には気が楽だ。珍しい同性だし。


「モカパパ、由梨ちゃんお手伝いしますよっ」

「おや、そうかい?ならそうだね。まだ調理しか進めていないから食器の用意をしてくれるかな?」

「はい、お任せあれっ☆」


 あざとく敬礼し、最初に物の場所を聞いて準備を進めていく。

 モカ家両親と四姉妹で六人、そこに由梨と香理菜を加えた計八人分の食器はそれなりに多い。大皿と小皿と、箸とスプーンと。食卓に置くものもあれば盛り付け用でキッチンに置くものもある。


 他人の家でこういうことをするのは存外に新鮮で、不思議な面白みがある。

 この年にして初体験とは……まだまだ知らぬことも多いものよ。冷静に考えたらモカパパより総年齢は上の童貞だ。


「傘宮さんは料理をするのかい?」

「由梨でいいですよー!お料理はしますっ。一人暮らしなので毎日やってます。結構手抜きばっかりですけど」


 てへへと笑う。

 レトルトとか冷凍食品とか缶詰とか。頼りがちになるが、それだと栄養バランスが崩れてしまうので割と料理はする。野菜炒めとか野菜炒めとか野菜炒めとか。調味料変えて料理の素使って、投入する野菜や肉魚を変えて炒めることが多い。というかほとんどそれだ。


 冷蔵庫に置いて数日かけて食べられるし、最近の料理の素はバリエーションも豊富で本当に助かる。まあアヤメが来てからは数日どころか一日で無くなるので、今後の調理は今までと少し変わるかもしれないが。

 やはり冷食の時代か……。


「ほうほう。確かに一人暮らしなら料理もするか。モカはあまりキッチンに立たないからね。私やママが作れる間は良いが、一人暮らしすることになったらと思うと少々心配だ」

「ふふっ、モカちゃんしっかりしてるし大丈夫ですよぉー。それに、一人になったらご飯どうにかしなくちゃいけないんですからモカちゃんだってお料理すると思いますよ?」

「はは。それもそうか。もしかして傘宮さ――由梨さんの経験談かい?」

「はいっ、私もそうでした!」

「なるほど。由梨さんも実家にいた時はあまり料理しなかったんだね」

「あ、あははー。お恥ずかしながら……」

「気にすることはないさ。私も同じだからね。あまり同性に・・・尋ねる機会はなかったが、実家で料理しないのはやはり男女問わずのようだね」

「そうですねー!――――……?」


 優理の思考に違和感の波が走る。

 何か今、聞き捨てならない台詞があったような気がする。


「よし、卵料理はこれでいいだろう。由梨さん、冷蔵庫からレタスを取り出してもらえるかい?」

「え、は、はい……?」


 いやおかしいことは何もなかったか…………?

 疑問を飲み込み、まだ頭が覚めていないのかもしれないと首を傾げる。


 冷蔵庫の下段が野菜室だったので、開けてまん丸のレタスを取り出した。買ってそう経っていないのだろう。葉が瑞々しく新鮮だ。


 モカパパに手渡し、千切られたレタスの葉を水道で洗ってボウルに入れていく。


「しかし、慣れたものだね」

「え?野菜洗うのがですか?ふふ、そう難しくないですよぉ」

「あぁいや。そうではなくて。その姿のことだよ」

「――――」


 手が止まる。

 ぶわりと、背中が熱くなり嫌な汗を感じてしまう。止まっていた呼吸を無理やり動かし、何事もなかったかのようにレタスを洗っていく。


「――ふふ、パジャマは女の子の嗜みですよっ?」

「誤魔化さなくてもいいよ。五感誤認アクセサリーは隠せないだろう?」

「――……」


 息を吸って、深く吐いて。

 じっと、流れる水の滝を見つめて呟く。


「……いつからですか?」

「違和感自体は昨日、顔を合わせた時だね」


 なんだ、最初からじゃないか。

 はぁ、と息を吐く。誤魔化しは効かない。油断した。相手が男性なら当然誤認アクセサリーのことも知っているか。リアラからは対女性へのアドバイスしか受けていなかった。距離感とか着替えやお風呂の時の警戒とか。……全然守れてなかったけど。


 それより、隣のモカパパだ。

 こそっと横を窺ってみるが特に気にした様子はなかった。世間話の流れで話すらしい。意図は不明だが、優理としては好都合だ。


「最初からですか。よく私を家に入れましたね」

「うん?はは、モカの友達を入れないわけないだろう?それに、言うなら由梨さんの側じゃないかい?よく女性の家へ入る気になったね」


 言われて気づく。

 そうだった。一般的には男の方こそ警戒して女の家に行かないものなんだった。つい自分を基準にして忘れてしまっていた。


「そう、ですね。けど……モカちゃんですから。私、モカちゃんのお友達ですもん」

「ははは。……あぁ、だろうね。見ていればわかるよ。由梨さん、君は本気でモカと友達でいるんだね」

「当然です。だってちゃんとモカちゃんのお友達のつもりです」


 何が楽しいのか、うんうんと微笑みながら頷いている。

 だが伝えたことは事実だ。由梨としてだけでなく、優理としてもきちんとモカや香理菜のことは友人だと思っている。


「やはり、モカは良い友達を持ったようだね。由梨さん、君も私と同じなら、わかるだろう?……いや同じではないか。その格好は、その、趣味かい?」

「急に梯子外すのやめてくださいっ。……趣味ですけど、実用性あるんですよ?」

「ほう。実用性か……。女性として強く見られることかな?」

「そうですね。紛れますし、違和感なくなりますし、何より可愛いです☆」

「……結局趣味じゃないか」

「えへへー☆」

「やれやれ、昔を思い出すな……。あぁ、首を傾げなくていいよ。君と同じようなことをしている友人が昔はいたのさ。その友人はまあ……気づいたら後輩と結婚していたね」

「……わー」


 リアル過ぎて笑いも出ない。

 男あるある。気づいたら結婚している!


「話を戻そうか。君も……色々と隠し事があるだろう?」


 問われ、こくりと頷く。

 モカパパの言う隠し事は、私生活のエッチなアレコレではない。誤認アクセサリーとか、男の事情とか、精子提供のこととか、男特有の物事だろう。


「そう。どうしたって言えないことは多くなってしまう。それは当人だけに限らず、その周囲の人間も同じだ。由梨さん、ご家族は?」

「お母さんがいます」

「そうか。……私も母には苦労をかけた。妻にもね。君も、お母様には苦労をかけたのではないかな」

「そうですね。とても……本当にとても苦労をかけました。お母さんには感謝しています」


 しみじみ呟く。

 モカパパも同じような顔をしている。こんな話をできる相手はいなかったから、なんだか新鮮だ。だけど、今のでモカパパの言いたいことがなんとなくわかった。


「ふふ。良いお母様のようだね。……由梨さん。私の場合の苦労は、娘たちにもなのだよ」

「……でしょうね」


 ちらと見た横顔には深い苦笑が浮かんでいた。


「家には友達一人呼べない。説明するには少々、私たちの存在はリスクが高過ぎるからね。いくら平和を謳っていても、嫉妬に狂った人間を止められるほど社会は出来あがっていない。……あの子たちには、私のために苦労をかけた」

「……」


 父親がいる。それだけで周囲から羨望の眼差しを向けられるのは避けられないだろう。

 優理の前世よりも善性寄りな人間が多い世界とはいえ、人は人だ。嫉妬はするし、罪も犯す。

 感情の抑制が下手な子供なら尚更だ。父親がいると言うだけで排斥を受けることもあれば、敵視されることもある。


 だから皆、そのリスクを避けるために父親がいない体を装っている。

 悲しいが、仕方のないことでもある。


「だから由梨さん。モカの友達になってくれてありがとう。由梨さんにも事情があるだろう。私もある程度はわかるつもりだ。すべて明らかにする必要はないし、全部モカに話してくれとも言うつもりはない。ただ……これからも、大学を卒業してからもモカの友達でいてくれないかい。あの子が友達を紹介したいと言ったのは……真剣な目で私に頼んできたのは初めてなんだ……」

「……モカパパ」

「あぁ」

「……気持ちはわかりますけど、ちょこっと親心強すぎるかもですね☆」

「うぐ……」


 狼狽えた様子のモカパパにくすりと笑う。

 子供は持ったことないが、優理も結構な年を重ねたからわかる。年を取ると。ついつい親しい相手にはお節介を焼きたくなるものだ。でも。


「モカちゃんももう二十歳になりますよね?立派なお姉ちゃんです。だからモカパパが頼まなくたって大丈夫ですよ」

「……しかし、それは普通の場合の話だろう?」

「ですね。けど、さすがにもう二十歳ですから。それに……」

「……それに、なんだい?」


 声量は抑え、一瞬だけ誤認アクセサリーのボイスチェンジ機能をオフにする。


「――モカパパに言われなくても、はずっとモカちゃんの友達でいますよ」

「そう、か。……それは、由梨さん……ありがとう」

「どういたしまして☆」


 微笑み、盛付けの終わった皿を運んでいく。

 全員分を運び終え、お休み中の女性陣を起こしに行きますかと思ったところで。


「――そういえば由梨さん」

「はーい☆」

「その姿と服装で、先ほどの声は少し……いやかなりキツかったからあまりおすすめはしないよ」

「余計なお世話ですよぉ!!それこそ本当にっ!要らないお節介です!!」

「ははは、悪いね」


 口では謝りつつも、一切悪びれた様子のないモカパパに優理は溜め息を吐いた。





――Tips――


「父親」

男女比1:10。十人に一人は男の時代。

なら父親も十人に一人いると思うだろう。しかし、人口別の年齢層を考えると少し話は変わってくる。

性欲逆転世界の日本でも少子高齢化は進んでおり、人口グラフはピラミッドではなくツリガネ型とツボ型の中間に位置している。ただし男女比が歪んでいるので異様に傾いた形だ。

単純に六十歳以上の男女比が1:10だったとしても、少子高齢化に加え男性減少も日々進み続けていることを鑑みると、今の十代の男女比は1:15や1:20程度になっていると言える。

優理が高校生の時点で、同学年150人に対し"男子生徒"は10人に満たなかった。中には転校で一人も男子生徒がいないクラスもあった。これが世界中で起きている現象であり、いったいどこに男子はいるんだとむせび泣く女生徒は多かった。その男子生徒は誤認アクセサリーで普通にクラスメイトをやっているわけだが、それを知る者は少ない。運良く知った者は、"ワンチャン恋人ルート行けるじゃん!!!"と狂喜乱舞するため、絶対に他人には言わない。性欲&恋愛欲>>>越えられない壁>>>女の友情である。

父親という存在は、男性数減少と少子高齢化を乗り越えた果てに居るものなのだ。今後より減っていく男性数=父親であるため、父を得た子はその身の幸福を余すことなく享受するべきだろう。

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