ホームシック男の面倒くさい女ムーブ。

 ☆


 

 ――カポーン


 表現技法の一つとして、こんな擬音語がある。

 お風呂、温泉に入った時の音であり、密封され広く湯の張られた空間に響く物音を再現したものだ。日本であれば木製の湯桶ゆおけが床に落ちた時、あるいは木槌で物を叩いた時のような音が鳴る。それを言語化すると「カポーン」になる。故に、アニメや漫画、映画にドラマでは定期的にこんな擬音語が採用される。


 何故このような不要な解説を挟むのか。それは解説が不要でないからである。

 要不要というか、現状に即していて優理の脳がなんとなく考えてしまっただけだった。


「……ふぃー」


 極楽に息を吐き、益体のない思考を湯気と共に打ち捨てる。

 

 現在時刻、十九時半前。場所、モカ家、お風呂場、浴槽内。温度、三十九度。少し熱め。

 あまり湯を張らずシャワーで済ませる質だからか、熱湯あつゆでないと言うのに結構な熱を感じてしまう。全身浸かっているとのぼせてしまいそうだ。


 身を起こし、浴槽の縁に腰掛ける。

 背中側の窓はくるくるとノブを回してガラスを開ける回転式だった。外から内は板状の磨りガラスが斜めに重ねられ見えないようになっている。少し開いたガラス窓からは夜色に染まった景色が覗き、秋夜の涼風が吹き込んでくる。


 肌に伝う湯を無視し、心地よい風を全身で感じる。


 優理は度々たびたび感傷的になる面倒な男だが、今もまた一人浸っていた。

 友人であるモカの家に来て、温かさと幸せに満ちた家族を見て。傘宮優理は、自身を振り返っていた。


 前世はもう終わった話だからいい。きちんとある程度の親孝行もしたはずだ。だから考えるのは今世のこと。


 優理は二十歳はたちだ。二十歳にじゅっさい。性別は男。

 優理が男として生まれ、母は苦労したことだろう。初めての子。初めての子育て。

 父親がいない時点で、男とは縁が少なかったとわかる。一人で産んでいる時点で、ある程度状況を察することはできる。恋愛、結婚、夫婦を掴み取る一割でなく、独り身で過ごす九割になったのだ。


 祖母は既にいない。以前母から聞いたが、母が成人する前に事故で亡くなったそうだ。


 子供を産む前も苦労して、産んだ後も苦労して。

 労苦を重ねて育てた子は勝手に独り立ちして。……イチャイチャライフを夢見て一人暮らしなんて、今さらながら母に申し訳なくなってきた。


 人生長いようで、大事な人と過ごせる時間は限られている。

 友人もそうだし、恋人もそうだし、家族もそう。


 このまま優理が一人暮らしを続けるなら、今後母親と一緒に食事をする機会は数えるほどしかないだろう。それだけでなく姿を見ることすら………………。


「……あぁ……ほんと……」


 考えていたら涙が出てきてしまった。

 こういうところは前世を強く引きずっている。年を取ったら涙脆くなると言うのは本当だ。未来を考えると、別れだとか残された時間だとかばかり考えてしまう。


 水を流して顔を洗う。あふれた涙は少しだけ。

 実家で一人過ごす母親を思って泣いてしまった。情けない。情けないが……本気で親孝行を考えてもいいかもしれない。こんな世界で男を産んで、不安も心配もたくさんあっただろう。ただでさえ心配性な母だ。普段電話する時ですら心配の言葉ばかりをかけてくる。自分のことなんて一切言わず、子の心配ばかりをしている。


「……」


 また泣きそうになってしまった。というかちょっと涙出た。

 モカのように父親はいないが、良い家族に恵まれたと思う。母には感謝しないといけない……。


「……エイラ。聞いてる?」

『肯定。聞いています、優理様』


 風呂場に持ち込んだ携帯。当たり前にエイラはアクセスしてきているので、返事も当然だった。


「お母さんにさ、電話かけられる?」

『受諾。優理様の御母様に電話をかけます』

「うん。ありがとう」


 急な電話なんて、と自分でも思う。それでも、この世界で唯一の肉親に”ありがとう”を言っておきたかった。ありがとうもごめんなさいも、思っているだけじゃ伝わらない。言葉にして初めて、自分の心を相手に伝えられる。


 伝えられる時に伝えておかないと、後悔するのは自分だ。

 今の年齢より歳を重ねてから学んだことに苦笑しながら、静かに声を待つ。


『――優理?どうしたの?急に電話かけてきて大丈夫?お母さんすぐ行くからね。体調悪いなら言うのよ?』

「あぁうん。大丈夫。元気だよ」

『……ねえ優理?お母さんと話す時は声変えなくていいのよ?』

「あ。そうだった。戻すよ……っと、うん。僕さ、ちょっと今友達の家にいるんだ」

『そう……。ふふ、知ってるわよ。けど……本当に優理も友達の家に行けるようになったのね。女の子の友達でしょう?』

「うん」


 母に伝えていたかなと思って、リアラ経由かと納得する。母親と通話していると、伝えていないのに知られていることが多々あった。少々の恥ずかしさはあるが、もう慣れた。


「お母さん、心配じゃないの?」

『心配よ?けど優理が選んだ友達だもの。大丈夫でしょう?』

「……まあ、うん。大丈夫そうだよ」


 信頼が嬉しい。さすがは母親か。


『なら安心ね。優理は全然友達と遊んだりしてこなかったから、一人暮らししてもずっと一人ぼっちなんじゃないかって、お母さん心配してたのよ』

「……ありがとう。良い友達ができたんだ。いつか、お母さんにも紹介できたらいいな」

『ふふ、いつかね。優理がちゃんと優理だってこと伝えられたら、私にも教えてちょうだい』

「うん」


 優理も由梨も、どちらのことも知っているからこその言葉だった。

 良い母親を持てたなと心底思う。


「ねえ……お母さんさ。してほしいことない?」

『優理が元気で過ごしてくれればそれでいいわ』


 間髪入れずに返ってきた言葉に苦笑する。


「……そういうの以外では?」

『……もしかして、親孝行でもしようとしてくれてる?』

「うん」

『ふふ、どうしたのよ急に。けど……そう思ってくれただけでお母さん嬉しいわ』

「うん……。お母さん、ありがとうね」


 なんだか視界が揺れていた。

 別にそんな、泣くような場面でもないというのに……。おかしな話だ。けれど……伝えたい言葉を、伝えたいと思った時に伝えられる。それはとても幸福なことだと優理は知っているから。


「ずっとずっと……ほんとうに……ほんとうに、ありがとうね」

『もう……優理は昔から変な時に泣き虫になるんだから。いいのよ、別に。優理が元気に育って、健康で良い子に育ってくれただけでお母さんは幸せなの。だからそんな、泣くほどありがとうって言わなくていいのよ』

「っ……うん。うん……ありがとう……」


 前世の家族を思い出して、今の家族を思い出して。

 いろんな思い出と共にあふれてしまった涙が落ち着くまで少しだけ。母にはとりとめのない話に付き合ってもらった。


「――今度、家帰るから。今日はごめん。ありがとう。急に話したくなっただけなんだ……」

『うん。待っているわね。料理のリクエストあるなら連絡してね。なんでも作るわよ。……それじゃあ優理、長風呂もいいけど、風邪は引かないように気をつけるのよ?』

「……うん。お母さんも気をつけて。またね」

『うん。また』


 通話が切れ、泣いたことによる妙な疲れで身体が重かった。

 エイラに短く感謝を告げ、もう一度風呂に沈む。

 

 家族って、いいな。


 一度人生を終えて、再度新しく始めているからかもしれない。時々こうして、親との別離を思って無性に泣きたくなる。実際に泣く。

 自分も相手も健康なうちにできることをしよう。今伝えたかった感謝は伝えられた。本当は母の日なんかに言うのが良いのかもしれないが、”ありがとう”に決められた日付は存在しない。


 あと、すぐにできる親孝行と言えば……。


「……手紙、書くかぁ」


 面と向かって言うのは少し恥ずかしいことでも、文字にすれば伝えられる。

 感謝の手紙だなんて前世以来だろう。いつかきっと、母親が死んだ後になって、あの時手紙を書いてよかったと強く思うのだ。実際、前世がそうだった。手紙を送ってよかったと強く思った。火葬する時に、自分の送った手紙を棺に入れたことを覚えている。……そう、確かにそうだった。ちゃんと両親は看取っていた。


「……」


 記憶は曖昧で、はっきりとしたことは少ないけれどこれは確かだった。

 だからこそ、今世でも手紙を書こうと思えた。


 母への親孝行はこれでいいとして……。今の優理には、もう一つ気がかりなことがあった。


「……エイラ」

『返答。お呼びでしょうか、優理様』

「うん。……アヤメに、電話ってかけられる?」

『受諾。アヤメ様に電話をかけます』

「ありがとう」


 ぷるぷるとした発信音を聞きながら、もう一つの気がかり――アヤメを思う。


 アヤメは……あの子は、同居人だ。家族ではない。ただの居候でしかない。けれど、優理にとってアヤメは妹のように思えて仕方なかった。

 もしも年の離れた妹がいれば、甘やかして可愛がって、少し距離を取っただけでも今のように寂しく感じるだろう。境遇が境遇なので、身勝手ながら同情心も強い。"守護まもってあげねば……。と強く思う。


 自分より肉体性能上だろうとか、妹なら欲情しないだろうとか、同情するならエロイことするなとか。そういう正論は要らない。そんなの優理とてわかっている。それでも欲情してしまうのだ。だってエッチだし……。


 アヤメと知り合って……何日だ。

 ボイスチャットで話したのが先月だったから……もう三週間か。しかし同居を始めてからまだ一週間も経っていないと言うのに……毎日電話していたおかげか親しみは強い。


 とはいえ、それだけじゃ説明し切れないくらいに優理からアヤメへの好感度は高かった。

 理由。自問自答してみて、すぐ出てくる答えに苦笑する。


 可愛くて、懐いてきて、純真で、エッチで、頼めばすぐエッチなことさせてくれそうで、妹っぽくて……それでいて、庇護欲を掻き立てられるから。わかりやすいことこの上ない。


『――ユーリ!!!!』

「うわぷっ!?」


 驚いて鼻に湯が入った。溺れる。


「けほけほ……うえー、ツーンてする」

『だ、大丈夫ですか?』

「うん。平気平気。アヤメは……元気?」

『はいっ。ご飯食べていました!えへへー、リアラとお買い物しましたっ。いっぱいゲームもしています!――あ、そうです。リアラー、ユーリがお電話してくれました!』

『え、ゆう、優理君!?!?ちょ、くぅ!アヤメちゃん!この魔法パレット遠距離魔法がないですよ!!!』

『ふふふー、接近戦です!』

『ああぁ!このボス絶対遠距離必須ですよぉ!うぅ、あぁぁ……また精霊が……』

『ふふっ、リアラは戦うのが苦手ですね!』

『うぅ、現実ならもっと身体動くのに……アヤメちゃん、ご飯食べ終えましたか?交換しませんか?』

『えへへー、まだ食べていますっ、頑張ってください!』

『優理君は……いえ、はい、頑張ります』

『ふふ、ユーリユーリ。ユーリは何をしていたんですか?』

「えっと……お風呂入ってたんだー」


 戸惑いながら返事をする。

 思っていたより……全然普通に楽しそうだ。


『お風呂ですか!私はさっき入りました。ルゼルを助けないといけなかったので、今日はシャワーを浴びて終わりです。リアラが髪の毛を拭いてくれて嬉しかったですっ』

「よかったね。どう?寂しくない?」

『寂しいですよ?』

「え」

『ユーリがいないと寂しいです。でも……寂しいですけど、ユーリは約束してくれましたから』

「……うん」

『ユーリは絶対私を置いていなくなったりしないって言ってくれました。ちょこっとお出かけしても、帰って来てくれるんです。だから我慢できます!』

「アヤメは……すごいね。強い子だ」

『えへへー。私、強い子ですっ』


 傍に居る時と変わらず朗らかに話すアヤメと、五分ちょっと通話を続けた。

 リアラはゲームで忙しいらしく、遠くから時折子供っぽい悲鳴が聞こえてきていた。ご飯を食べ終えたのか、露骨に電話先でそわそわし始めたアヤメに楽しんでねと伝え、軽く息を吐いて電話を終える。


「――……はぁ」


 溜め息。

 アヤメは大人だった。楽しく元気なら寂しくないのかとも思ったが、そんなことはなかった。ちゃんと寂しくて、それでも優理を信じて我慢していた。


 それに比べて自分はどうだ。

 ホームシックになって、"自分がいないと寂しいだろうなぁハハハ"と調子に乗ったことを考えて…………一番の寂しがりは僕だった。


「……はぁぁ」


 深く息を吐く。

 年を取るとだめだな。涙腺は弱くなるし、考えは凝り固まるし、煩悩もひどいし……いや煩悩はずっとひどいか。


『疑問。優理様。どうかしましたか』

「うん。……いや、ちょっとね。僕はどれだけ上から目線でいたんだって思ってさ」

『理解。アヤメ様への対応についてですね』

「え、うん。そうだけど……え、理解度高くない?」

『肯定。エイラは人類最高傑作のAIですから。優理様とアヤメ様の会話を保存している時点で類推は可能です』

「えー……」


 沈んでいた気持ちが切り替わる。ありがたいが……なんとも言えない。

 確かに慰めてほしいから話そうと思った。しかしこう、一瞬ですべて悟られると肩透かしを食らった気分になる。


『報告。現状までのアヤメ様への対応は間違っていませんよ、優理様』

「……そうなのかな」


 人工知能に言われて安堵はする。しかし不安もある。そう簡単に納得できたら人生二回目でずっと童貞持ったまま生きてなんかいない。


『肯定。優理様が自己肯定感の低い男性であり、自身の発言・態度・行動を疑問視していることは承知していますが、それでもアヤメ様への対応は間違っていません』

「……そこまでわかっちゃってたか」


 湯面に視線を落とし、指を揺らして小さな波を立てる。

 揺らめくさざなみは自身の心そのもののように感じられた。AIはなんでもお見通しか、と苦笑する。


『肯定。優理様。アヤメ様本人の思考はともかく、客観的にアヤメ様の現状が現代人から見て同情に値することは事実です』

「……まあね」

『肯定。優理様がアヤメ様に憐憫の情を向け、庇護の対象、保護の対象として行動を起こすのは当然の帰結だったでしょう』

「……うん」

『肯定。現状のリアラ様の思考も根底にあるのはアヤメ様への同情であり、情報管理者としての立場より生じる使命感から行動していることは自明の理です』

「それはそうだろうね……」

『肯定。同様に、優理様もアヤメ様を自らの庇護下に置こうと考えるのは正しい思考回路です』

「……」

『疑問。それならば、優理様はいったい何に悩んでいるのでしょうか』


 何に、か。

 指を沈め、首元までお湯に沈めて考える。他者から指摘され、自分を省みてなんとなくわかってしまう。自分のことだ。わからないわけがない。


 単純な話である。ただただ、優理は拗ねていた。


 でも、考えてみてくれと思う。

 ほんの前日まで「やだやだ離れるのやだー!」と泣き転げて……はいないが、泣き喚いて……もいないが、かなり渋っていた寂しんぼの美少女がいたとする。それもとびっきりに可愛く自分に懐いている。


 それを自分から離れておいて、距離を取ったら思ったより寂しくて、逆に相手はサラッとカラッとしていて。さらには元気さの源が我慢と信頼にあると知って。


 "なんだよ、僕の方が寂しがりやじゃん"とか"やっぱ僕はだめだ……"とか色々思うことはあるが、何より。


「……もっと寂しがってくれてもいいじゃん」


 その一言に尽きた。

 ガキと思いたいなら思え。

 可愛い女の子……それもとびっきりに可愛くて、一緒に居て楽しくて、同居もしている。そんな女の子は初めてなのだ。


 辛いことは知っている。苦しいことも知っている。嫌なことも寂しいことも、しんどい気持ちなんていくらだって経験してきた。嬉しいことや楽しいこと、幸せなことだってたくさん知っている。


 だてに前世から長々生きていない。


 でも、優理は童貞だ。


 女経験はない。職場や学校以外で、まともに女性と長く接したことはない。ましてや自身に好意を持つ女性と同居した経験なんてあるわけがない。

 恋愛相談に乗ったり恋バナを楽しんだりはしても、結局優理はユツィラリスナーと同じ、この世界の大多数の女性と同じ、恋愛未経験の恋愛弱者でしかない。


 一人暮らしで一人ぼっちの寂しさは知っていても、同居する女の子と離れて外泊する寂しさは知らない。


 もっとめちゃくちゃに寂しがって、今すぐ会いたい会いたい会いたい!!!と連呼してくれるようであれば、こちらもよっしゃすぐ帰るぜ!!――となっちゃだめだった。どうせ帰れないし。あぁ、なんだこのもどかしさは……。


『――理解。優理様、その感情は拗戻おうれいと呼ばれるものですね』

「おうれい?」

『肯定。拗ねて戻らない、心がひねくれた状態を指します』

「あぁうん……。そうだね……」

『理解。優理様。優理様はエイラの想定より恋愛を知らないようですね』

「うぐ、そ、そうだよぉ……知らないよ……はぁ」


 口元まで湯に沈んだ。ぶくぶくはしない。自分の家じゃないから。でもぶくぶくしたかった。恥ずかしいし寂しいし自己嫌悪ひどいし、ゆだってきたし疲れた。


『提案。優理様、拗戻を解決する方法があります』

「――ぷぁ、そんなのあるの?」

『肯定。あります』

「……その方法とは?」

『回答。アヤメ様に優理様の感情を直接訴えることです』

「ぐぁ……そ、そんなことできるかー……」


 期待が裏切られて身体の力を抜いてしまう。ぐでんと湯に沈みかける。

 お団子にした髪が沈みそうになった。危ない。


 こんな浅ましい子供みたいな、"もっと寂しがってよ!僕は寂しいよ!"なんて言えるわけがない。ていうか言えるわけないだろ!もう成人しているんだぞ!二十歳の童貞だぞ!うわ、もう二十歳か……。

 自傷ダメージに定評がある童貞だ。


『優理様』

「……うん」

『優理様。人の感情は言葉にしないと伝わりませんよ』

「――――」


 それは。その言葉は。


「――それは、どこで?」

『回答。優理様が時折口に出している言葉です』


 似たようなことは確かに何度も言ってきた。

 気づかないうちに口癖のようになっていたのだろう。


 天井を見上げ、耳の横を掻く。

 それを言われたら何も言い返せない。何度も失敗して、前世の頃より人生の戒めとして強く想ってきたことの一つだ。


「――わかったよ。エイラ、もう一度アヤメに電話かけてくれる?」


 目を閉じて待つ。エイラからは簡単な返事の代わりに小さな発信音が聞こえてくる。

 身体を持ち上げ浴槽から出た。縁に腰掛け、緊張に強張る手足を解す。ドキドキと胸が高鳴る。あまり嬉しくない高鳴りだ。


『ユーリ!!!!!』

「うわ、え、えっと……こんばんは」

『こんばんは!えへへー、またユーリのお声が聞けるとは思っていませんでした。嬉しいです。リアラ―、やっぱりユーリですよ!』

『優理君?――きゃ、アヤメちゃん魔物の群れが!!』

『リアラ、頑張ってください。ユーリ、何かご用事があったのですか?』

「あー、えっと……」


 言い淀む。

 電話先のアヤメはついさっきと変わらず、元気で騒がしく楽しげだ。気後れしてしまう――が、プライドを捨て去るのには慣れている。だてに何十年も童貞をやっていない。ノープライド・マイライフ。


「えっと……アヤメ」

『はいっ』

「僕、その……結構寂しいんだよ。アヤメと一緒に暮らしてて、まだほんの短い間だけど、それでも離れるのが寂しい。……思った以上に、寂しかったんだ」


 携帯越しに、息を吞むような音が聞こえた。返事は待たず言ってしまおうと言葉を続ける。


「アヤメが寂しいの我慢できててすごいって思ったし、褒めてあげたいとも思ったけど……僕はこんな寂しいのに、アヤメが寂しがってくれなくてもっと寂しくなった。……ごめん、僕は君よりもっともっと寂しがりだったみたいだ……」


 ふぅ、と小さく息を吐く。

 言い切ってスッキリした。完全に面倒くさい女ムーブをしているが、もやもやを抱え続けていたら絶対いつか破綻する。言い合える関係なら最初から最後まで本音で生きていこう。同居人なんだ。これくらいしたっていいだろう。


『……』

「……アヤメ?」

『――ユーリ!!!』

「はい!」

『ユーリは……ずるです』

「え、どうして……?」


 アヤメの声が拗ねたような音色になっている。さっきまでの優理と同じだ。


『だってユーリ、私が頑張って我慢しているのにそんなこと言うのは……ずるです。私だってユーリにお会いしたいです!寂しいです!構ってください!遊んでください!!一人お泊まりなんて羨ましいです……。寂しいです……』

「アヤメ……」

『寂しいなら帰ってきてくださいっ、私と一緒にいてください!ずっと……ずっとっ……!』

「……」


 声が小さく、嗚咽混じりに変わっていく。

 そりゃ、そう言われるだろうと納得してしまう。アヤメはまだ幼い。大人の優理でさえ、知らない現実に直面すれば寂しさに涙してしまうくらいなのだ。我慢できていた方がすごい。本当に、アヤメはすごい。


「……アヤメ、寂しいけど帰れないんだ」

『っ!!知っています!だから私、頑張って……頑張っていたんです……っ』

「うん……ありがとう。僕のために我慢してくれて、お留守番してくれて……ありがとう」

『ふ、ぅえ、ユーリぃ、ユーリ……ユーリ、ユーリぃ……』

「アヤメ……」


 少し、申し訳ないことをした。

 けれど、我慢し続けるより一度吐き出してしまった方が楽なこともある。我慢させている側の人間が言うことでもないが、優理とて寂しくなってしまったのだから仕方ない。でもお泊まりも楽しいし……こんなことを悩むようになるとは、一年前の自分に聞かせたら鼻で笑って馬鹿にしてくるだろう。今でも信じられない。信じられないが、現実だ。


 ぐすぐすとすすり泣くアヤメとは異なり、優理は落ち着いていた。

 アヤメが自分と同じだったと改めて知り、申し訳なさと同時に強い安心感も抱いた。


 自分が寂しいのと同じくらいに、涙を流してしまうくらいに寂しがってくれている。それだけ想われているという事実に、心の奥がぽかぽかと温かくなる。


 しかし、女の子を泣かせ続けているというのはよくない。自分を想って泣いてくれている事実は嬉しいが、それはそれとして心が痛む。


 寂しさの払拭をしてくれたアヤメに対し、今度はお返しをしよう。こんなんでも優理は大人なのだ。既に八割以上失った大人の威厳を見せよう。寂しさを消せはしなくても、それを乗り越えられる楽しみをあげよう。


「――アヤメ。寂しいのはどうにもできないからさ。……僕が帰ったら一緒にやりたいこと、今話さない?」

『……ぅ、やりたいこ、と、ですか……?』

「うん。プレゼントとは別に、一緒にやりたいこと。お買い物でも、お出かけでも。行ってみたいところ、見てみたいもの、食べたいもの。アヤメが僕とやりたいこと話そうよ」

『……おしゃべりしたいです』

「うん。なんでもいいよ。ちゃんと叶えられるように頑張るから、なんでも言ってみて?」

『なんでも……ユーリ……』

「うん」

『私、ユーリとやりたいこといっぱいあります』

「僕もアヤメとやりたいこと、いっぱいあるよ」

『……えへへ、お揃いです』

「ふふ、お揃いだね」


 それから少しの間、たくさんたくさんのやりたいことを話し合った。できそうなことも、できなさそうなことも、実現性など気にせず二人でやろう!と言葉を連ねた。


 徐々に元気を取り戻していく声に、優理も口元がほころんでいく。

 完全に寂しい気持ちがなくなったわけじゃない。我慢は必要だ。けれど、その寂しさでさえも明日の楽しみに繋げられる。話し途中、アヤメの"ユーリが寂しがってくれて、私もちょこっと嬉しかったです"という一言に耳の横を掻きながら、優理は気恥ずかしさを誤魔化し軽口を叩いた。


 アヤメの声に元気が戻り、長風呂と他色々で疲れてさすがに出るかと思った時。


『――あぁぁぁ!……はぁぁ……』


 突如、というわけでもないが、電話越しにちょくちょく聞こえてきていたリアラの悲しい声が耳に届く。


「……えっと、アヤメ?」

『はいっ。ユーリにも聞こえましたか?』

「うん。リアラさんの声だよね」

『はい。リアラは……楽しそうですっ!』

「あー……リアラさんのところ行ける?」

『もちろんです!』


 優理が思っていたものの数倍はゲームに熱中しているリアラだ。

 なんとなく状況を察した。……普段冷静で綺麗な人が、ゲームで一喜一憂している姿はまたかなり可愛く思える。その姿を見られなかったことが若干――いや結構悔しい。


『リアラ!ユーリが呼んでいます!』

『え、きゅ、急に私ですか!?待ってまってください。あの、心の準備が必要なんです。もう少しあの、アヤメちゃんっ』

『けどもうユーリ聞いていますよ?』

『えっ』

「ええっと……リアラさん?」

『ひゃぃ……』


 なんだ、ただの可愛い人か……。


「リアラさん、そっちは大丈夫ですか?」

『だい、大丈夫ですよ。はいっ……そ、その優理君!』

「はい」

『私も……私も、寂しいですから!』

「……」


 まあ、なんだ……。

 リアラのような親しい美人に言われ、素直に照れくさくなる。しかし、まあ、まあ。


「はは。リアラさんも寂しがりですか。僕ら、お揃いですね」

『――みゃぃっ』

『あ、リアラ……』

「え、リアラさんは?」

『走って魔物の下へ……』

「いやそれゲームの中だから……」


 状況は不明だが、照れて逃げてしまったようだ。小動物かい……。


「まあえっと、うん。……帰ったら、リアラさんも交えて三人で話そうか」

『はいっ、お話します!えへへ……ユーリー』

「うん」

『ユーリー。私、ユーリが寂しくてとっても嬉しいですっ。えへ、えへへー。ユーリユーリユーリー。大好きです、ユーリ!』


 頬が緩む。

 幸せいっぱい笑顔満載な声を聞いていると、こちらまで嬉しくなってくる。――そうだった。家にいると、いつだってこの太陽みたいな声から元気を分けてもらえるんだった。そりゃ麻痺もする。孤独も薄れるし、逆に聞けなくなったら寂しくもなる。


 孤独な一人暮らしに特効薬として力を発揮するアヤメ……もしかすれば、彼女は本物の妖精なのかもしれない。優理の妄想だ。


「僕も大好きだよ。……ありがとうね、アヤメ」

『?ふふー、よくわかりませんがどういたしましてっ!あ、そうです!リアラにも好きって言ってあげてください。さっき言われたい言われたいと呟いていたんです。リアラも私たちと同じ愛探しの旅人です!』

「かっこいい名前付けてるね……。いいよ。リアラさんのところへ――」

『――な、何でしょうか。ま、まだ優理君、私に用事ですか?嬉しいですが今はちょっと、あの』

「早いな……えっと……リアラさん。好きですよ」

『――――』

『――ふふふっ、リアラも嬉しそうですっ。ユーリ、まだ寂しいですか?私はあんまり寂しくなくなりました!えへへ』

「うん。僕もあんまり寂しくなくなったよ。ありがとうね……アヤメ、また、明日」

『はいっ。また明日!』


 そうして、単語をリフレインさせる石像と化したリアラを放置して通話は切られた。

 当然イベントはやり直しであるし、リアラは急ぎトイレに駆け込んだ。お風呂上がりなのに下着が汚れたような気がして心配だったからだ。本当の本当にぎりぎりセーフであった。


 場所は戻り、モカ家風呂場の優理だ。

 エイラに礼を告げ、気分爽快で最後にもう一回お湯に浸かるか!と意気込んだところで。


「――ねえ由梨ー?もう二十時だよー。長風呂もいいけど、後が控えてるんだからそろそろ出てよね。主にわたしとモカちゃんとマキちゃんとモカパパママね」

「っ」


 即座にボイスチェンジャー機能をオンにし、バタバタと動いてお風呂に浸かる。そのまま出ようと思ったが普通に身体冷えて寒そうだったから浸かった。しょうがない。


「ごめんねー!!すぐ出るからっ!」

「うん。まあココちゃん入り終えてるからもういいかもだけどねー」


 ドア越しに言葉を残し、香理菜の気配が消える。


「ほんとだよね……」


 先に幼女のココが姉のラテと入浴を済ませたため、そこは入ってもらってよかったと心底思う。

 由梨自身もここまで時間がかかるとは思っていなかったが、やたらメンタルダメージを受けて回復するのに時間を要してしまった。しかしそのおかげで精神力は全回復である。


「……出よ」


 呟き、風呂を上がる。

 全身から湯気が立ち、寒さは一切感じなかった。今の由梨は外側も内側も、お風呂上がりらしくぽかぽかにあったまっていた。





――Tips――


「面倒くさい女ムーブ」

怒ったと思いきやただ拗ねていただけだったとか、照れ隠しで一日そっけない態度だったりとか、雑に扱うと構って構ってと言うが構い過ぎるとすぐ微妙な顔をするとか。

挙げればキリはないが、基本的に"うわだる、めんどくさ"と一瞬でも思われる行動・態度を指す。

普遍世界では男がやるとキツイことが多く、女がやってもキツイことは多い。

対して性欲逆転世界では女がやるとキツイと言われ、男がやると女の自尊心と承認欲求と性欲を満たすことになる。シチュエーションによってはキツイと言われるが、そんな創作のような行動をされると大抵の女は喜ぶ。何故なら現実の男は多くがそっけなく、そこに裏も表もないから。ただ本当にそっけないだけである。

愛ある面倒くささには需要が生まれる。ただしやり過ぎはよくない。何事もほどほどが重要である。




あとがき

フォロー感想☆、応援コメント等ありがとうございます。全部目は通しています。感謝です。

まだの方は☆☆☆たくさん入れていただけるととても喜びます。よろしくお願いします。


一日二回更新は今日までです。明日からは19:00更新のみに戻りますが、とりあえず毎日更新はまだ続きます。

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