リアラと優理の長かった日曜日3

 ――二十一時過ぎ。


 辺りは暗く、雨の中歩く人は視界全体でも数えるほどしかいなかった。

 駅構内を見れば話は変わるが、ショッピングセンターも閉まってしまった今、人が増えることはない。


「落ち着きましたか?」

「はい……すみませんでした」


 しばらく泣いて、ある程度心の整理ができたのか落ち着いた顔で朔瀬は離れる。

 じっと優理が見つめていると、また泣きそうな顔になった。あまり落ち着いてはいないようだ。


「きゅしゅ」


 考えていたら可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。

 甲高く、小動物の鳴き声のようなくしゃみだ。


「風邪、引いちゃいますね」


 呟きつつも、どうしようかと思う。

 朔瀬だけでなく、今は優理も雨に降られかなり濡れてしまった。二人揃って濡れ鼠だ。これが夏ならまだしも、秋初めの冷雨降りしきる日となれば風邪を引いてもおかしくない。


 かっこよくスマートに上着でも貸せればよかったのだが、優理は上着なんて羽織ってこなかった。長袖ポロシャツ一枚である。それもびしょびしょのだ。


「優理、君……あの」

「すみません。ひとまず屋内に避難しましょう。あっちのNIONニオンはまだ営業中ですから」


 総合スーパーを指差し、足を止めたまま動かない朔瀬の手を取って歩き出す。

 冷たい手だった。長時間外にいて優理も冷たい手をしているが、朔瀬の手指もひどく冷たかった。


 手を取った時に小さく声を漏らしただけで、朔瀬は無言のまま付いてきてくれた。

 働く大人の、自分より圧倒的に仕事できそうな姿しか見てこなかったから色々と新鮮だった。

 こんな状況、こんなタイミングでなければもっと楽しめたのにと思う。


 NIONの入口をくぐり、濡れた身体のまま急いで買い物を済ませる。

 上着とタオルと、あと折り畳みの傘と。


 店員も複雑な状況を察してくれたようで、トイレの場所を教えてくれた。優理が男だとはバレなかったようだ。

 食料品売り場以外は二十二時に閉まってしまうと聞いたため、急ぎトイレで最低限の水気を拭っておいた。ついでに小用も済ませておく。


 トイレを先に出て通路で待っていると、おずおずと窺うように朔瀬が出てきた。

 相変わらず服は濡れたままで、透けた薄緑の下着がやたらと色っぽい。


 優理と目が合うと、気まずそうに逸らす。ただ、そこはさすがに大人か。すぐ見つめ返してきた。じっと見ていると今度は恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「あの……優理、君。そんなに見られると……恥ずかしいです」


 自分の身体を抱いて透けたブラジャーを隠すように手を動かす。

 優理は慌てて目を逸らす。ちょっと今の仕草はエッチすぎた。童貞には毒だ。


「……すみません。えっと、上着はどうしたんですか?」

「……濡れたまま、着てもいいのでしょうか?」

「良いに決まっているでしょう。というか――」


 話していて気づいた。上着だけでなくシャツも下着も新しく買えばよかった。お金はあるのだし、その方が寒くないはずだ。


 戸惑った顔の朔瀬に、その旨を伝える。

 首を振られてしまった。


「そこまでしてもらわなくても大丈夫です。ただでさえお金支払ってもらっているのですから……ありがとうございます、優理君」

「全然これくらいなんでもないですよ……とにかく、上着だけでもすぐ着てください。今の朔瀬さんはちょっと……健全な男としては目に毒なので」

「ぅ、は、はい……」


 朔瀬は財布どころか鞄一つ持っていなかったので、支払いは優理が受け持った。

 そそくさと新品の地味な上着を羽織る女から目を逸らし、ほっと息を吐く。


 まだ自分も気が動転しているようだ。冷静でない。

 朔瀬がエッチなのもあるが、見慣れた姿としおらしい姿とのギャップにやられている。


 髪型もロングストレートで雰囲気が違うし、トイレで化粧を落としてきたのか幾分か幼くも見える。切れ長の目や伏せ気味な表情は大人っぽいが、発色の薄れた唇や不安に揺れる瞳は子供っぽかった。

 今まで見えなかった二面性のアンバランスさが優理の心を揺さぶる。


「優理君……」


 か細い声で名前を呼ばれ、悲しげな朔瀬の顔を見て頭を掻く。

 どうすればいいのかわからないのは、お互い様だった。


 とりあえず、時間も時間なのでできることをしてしまおう。


「朔瀬さん。言いたいこととかあると思いますけど、今はお寿司買って帰りましょう。お腹空きました。……今日、車で来ていますよね?」

「はい。車で来ました。……」


 すぐにでも食料品売り場に行こうと思ったが、朔瀬が何か言いたそうだったので少し待つ。

 大人のイイ男は、待てるものなのだ。……まあ、さすがに九時間は待たないだろうが。


「……優理君」

「はい」

「……ありがとうございます」

「はい」

「私を……待っていてくれて、ありがとうございました」

「……はい」

「ありがとう、ございまし、たっ……」

「……うん」


 目元を拭い、声を震わせる女性に胸を貸す。

 二度目ともなれば慣れた動きだ。自然に抱き寄せ、くぐもった声は聞かなかったことにして背を撫でる。


 自分も成長したものだなと、映画の主人公にのみ許された行動を自画自賛した。

 そうでも思わないと恥ずかしくてやっていられない。


 泣きじゃくる朔瀬と違い、今の優理は冷静なのだ。

 具体的にはさっきの方が胸の感触あったなと下衆いことを考えられるくらいには冷静だった。


 九時間待って精神的にかなりきつかったが……まあ、朔瀬さんに嫌われたわけじゃなくてよかった。

 解けた不安に、優理はこっそりと安堵の息を吐いた。




 揺れの少ない車に揺られる。

 車内に音楽はなく、ワイパーの動く音とガラス窓にぶつかる雨音だけが響いていた。


 運転手は朔瀬だ。

 優理も免許を持っているので運転しようと思えばできるが、普段しない運転をいきなり雨の日の夜にやるのは怖かったので任せてしまった。

 情緒不安定な今の朔瀬に頼むのもちょっと不安だったが、余計なことを考えなくて済む自動車の運転は向いているのではとの判断だ。


 ちらちらと優理に向けられる視線は気のせいだろう。気のせいと思っておく。


 助手席に座りながら、ぼんやりと窓の外を眺める。雨の伝うガラスは頑丈で、微かに反射した自分が女装途中みたいな中途半端な顔をしていて笑いをこらえるはめになった。この状況で笑うのはちょっといくら優理でも憚られた。


 誤認アクセサリーは人の五感を誤魔化す代物だが、髪型や顔立ちの誤魔化しには限界がある。そのため、場合によっては中途半端なものになってしまう。それこそ今の優理のように。


 後部座席にはNIONで買った寿司が積まれている。

 売れ残っていた寿司は高いものも含めごっそり買ってきた。三割引き、半額と値札があったので高くとも値は知れている。


 しばらく静かに走っていると、信号で止まった時に隣から声をかけられる。

 街灯が雨粒を照らし、弱い花火のようにきらめいて見えた。


「優理君」

「はい」

「どうして、ずっと待っていてくれたんですか」


 横を見て、じっと前方を見つめたままの朔瀬に気づく。

 敢えて視線を交わらせないようにしているようだ。


「どうして、ですか……」


 どうして待っていたのか。

 そんなの決まっている。信じたくなかったからだ。朔瀬が何も言わず連絡一つ寄越さずに約束を破るなんてこと、信じたくなかったから。


 もっと言うなら……。


「……怖かったから、ですよ」

「……」

「裏切られたと知ることが、約束を破られたと実感することが怖かったんですよ。僕は」


 結局は、そうだ。そこに帰結する。


 信じたくなかったのは、怖かったから。

 信じた人に裏切られるのが、怖かったから。


 そんなものだ。傘宮優理の本心なんてそんなちっちゃものでしかない。

 二つの世界を生きてきてその様はなんだと嘲笑う人もいるかもしれない。それでもいい。笑われても、馬鹿にされても、この矮小な精神を持った人間が傘宮優理なのだ。


 ネガティブに、マイナスに、怯えて恐れて不安になって生きていく。

 この生き方は既に受け入れている。変えられるわけがないし、変えようとも思わない。


 だから……だからそれだけ、期待しないようにと生きている分だけ、誰かを信じて裏切られた時のダメージは致命的になる。

 立ち直るまで、優理にはそれ相応の時間が必要となる。今回はギリギリだった。いろんな意味で瀬戸際にいた。危うく病み配信でもするところだった。あぶなかった。


「……優理君は、臆病ですね」

「そうですよ」

「優理君は……大人ですね」

「そうですよ」

「優理君は、優しい人です」

「そうかもしれません」

「優理君は……」


 言葉が止まる。

 車も、止まる。


「優理君は」


 繰り返し紡がれた言葉は、視線を交えて優理に届けられた。


「優理君は、馬鹿な人です」


 泣き笑いのような顔で、そんなことを言う。

 ちかちかと、ハザードランプの音が雨音をかき消すようにリズミカルに聞こえてくる。


 何を返せばいいのかわからなくて、優理は苦笑し。


「そう、かもしれませんね」


 とだけ言った。

 短い沈黙が降りる。視線は絡み合ったまま。どうしてか不思議と、互いに外そうとは思えなかった。

 暗い車内を照らすのは自動車前方にある白色蛍光の明かりだけ。視界は悪く、それでも目の前にある整ったかんばせだけははっきりとしていた。雨露に湿った濡羽色の髪が艶めき揺れている。


「私は……優理君が帰っていてくれたらと願っていました」


 薄紅の唇から囁きめいた言葉が紡がれる。

 返事はせず、じっと続きを待つ。


「連絡もないのに、雨も降っているのに……。寒くて冷たくて、何時間も待ち続けるなんて嫌だろうに。優理君が家に帰ってくれていれば、辛い思いはさせずにすむと思ったからです」


 目を潤ませて、言葉にせず"ごめんなさいと"伝えてくる。

 ただ、首を横に振った。


「でも……優理君はいました。待ってくれていました。ずっと、ずっと。私のことを待っていてくれました。ありえないと思いました。嘘だと思いました。夢でも見ているんじゃないかと思いました。ですが、瞬きしても優理君の姿は私の目からいなくなりませんでした」


 それはそうだろう。ほんの小さく頷く。

 優理からしても、朔瀬が現れた時は夢か何かかと思ったくらいだ。向こうもまた、同じ気持ちであってもおかしくない。


「申し訳なくて、謝りたくて、胸が痛くて、苦しくて、悲しくて……それに、嬉しくて」

「……」

「嬉しかったんですよ。普通なら絶対に待っていたりしないのに、理由が何であれ私を待ち続けてくれたことが嬉しかったんです。……だめな女です、私は」


 そう、か。嬉しかったのか。

 じっと朔瀬の顔を見る。目を伏せて、自嘲しながらも頬は少しばかり緩んでいる。

 いろんな感情が綯い交ぜになった複雑な顔に、喜びの色も見える。

 本当に、嬉しかったのだろう。


「長い間待たされて、怒ってもいいはずなのに。連絡一つできなかった私に文句を言っていいはずなのに。……それなのに、優理君は泣きじゃくる私を優しく抱きしめてくれました」


 しょうがないじゃないか。

 服は汚れ、髪も身体もびしょびしょで。見るからに何かあったとわかる姿で。焦燥感に駆られた必死な顔を、ぽろぽろと涙をこぼす姿を見せられてしまったなら、文句なんて言えるはずがない。


「私なんかよりずっと大人な優理君は、私が落ち着くまで待ってくれました。抱き留めて、何も言わず背中を撫でてくれました。優理君は自分を卑下しますが、そんなことのできる二十歳の男の人は他にいません」


 少しだけ、そこは訂正したくなってしまった。

 実は前世含めると四十歳以上だし、優しく背中撫でてる時も胸の感触ばかり考えていました。なんて言えない。そんな空気ではなかったし、言いたいけど言いたくなかった。矛盾はしていない。


「関係が壊れてしまうのは私も怖かったです。自分から誘っておいて、こんなことになって……全部崩れてしまうんじゃないかって怖くてたまりませんでした。今も、少し膝が震えています。それでも……これだけは言わせてください」


 なんだろうか。

 朔瀬は目をつむっている。ぎゅっと強く瞼を下ろし、彼女が言ったように震える膝を押さえる形で両手を丸めて置いていた。


「優理君。私を待っていてくれてありがとうございました。待たせてしまってごめんなさい」


 もう一度頭を下げる。

 優理が顔を上げてと言う前に、朔瀬は薄っすら緑がかった深茶色の瞳を真っ直ぐと向けてくる。


「優理君。優理君は……あなたは、臆病で大人で、優しくて馬鹿で、かっこよくて可愛くて……――」


 言葉が止まる。再び目が合う。

 朔瀬の瞳は複雑な色合いを宿したまま。けれどその顔には、その表情には、どうしようもないほど――。


「――世界中の誰より素敵な、男の人です」


 どうしようもないほどに、綺麗な笑みが浮かんでいた。


「――」


 つい、見惚れてしまった。

 あまりにも人間らしく、それでいて自然な美しさに満ちていて、つい目を奪われてしまった。


「……僕は」


 そんな大層な人間じゃないと言おうとして、自身の唇に当てられた指に続きを失う。

 頬が熱い。顔が、熱い。


「言わないでください。優理君のおかげで、まだ私がここに……優理君の前に座っていられることは事実なんですから。私にとって優理君がすごくかっこよくて、素敵な男の人だってことも事実なんです」

「……」


 ずるいなぁ、と思う。

 これだから、女の人はずるいと思う。


 笑顔一つで、考えていたこと全部吹き飛ばしてくれちゃうんだから。

 あれだけしんどかった気分も、泣き出しそうな気持ちも、言葉一つ、笑顔一つで押し流されてしまった。


 ちょっとくらいカッコつけようと思って、大人ならこういう時我慢するものだと思って。自分なりに留めていたものが崩れてしまう。


 優理はそっと朔瀬の指を掴み、優しく下ろして言葉を紡ぐ。ぽろりぽろりと、抑えていた感情がこぼれ出す。


「僕……不安だったんですよ」

「はい」

「約束、忘れてるのかなって思ったんです」

「はい」

「嘘つかれたのかなって思いました」

「はい」

「裏切られたのかなって思いました」

「はい」

「連絡なくて、すごく困りました」

「はい」

「心配もしました」

「はい」

「寒かったです」

「はい」

「胸が痛かったです」

「はい」

「辛くて、苦しくて、寂しくて、逃げたくなりました」

「はい」

「心が痛くて、泣きそうでした」

「はい」

「少し、泣いちゃいました」

「はい」

「待っていてよかったです」

「はい」

「来てくれてよかったです」

「はい」

「帰らなくて、よかったです」

「はい」

「嘘じゃなくて……よかった、です」

「は、い」

「約束、覚えていてくれてっ、よかったです」

「は、い」

「逃げなくて……よか、ったです……っ」

「は、い……っ」

「朔瀬さ、ん」

「……はい」

「信じて……あなたを信じて、待ってよかったです」


 頬が熱い。目元が熱い。流れる雫はなんなのだろう。想いを形にするのは恥ずかしくて、あまり考えたくない。今さら押し寄せてきた安堵に心の壁が崩れてしまった。


 朔瀬も優理も、泣きながら笑って"今"を実感する。


 人間関係なんて、些細なことで壊れてしまうものだ。

 臆病な人間同士の関係ならば尚のことである。


 実際のところ、優理は半ば諦めていた。半ばというより、九割諦めていた。連絡なく約束を破られたらそう思うのも無理はない。何せ優理は女性経験もなく友人も少ない童貞だ。


 例え後から事情があったと判明したとしても、すぐに飲み込んで流せはしない。そんな器用なことができれば、優理はここまで拗らせてなどいない。


 無条件で信用し、信頼しようと思えるまで。

 今の心持ちに戻るまで、かなりの時間を要する。


 それはもう、一度壊れてしまったのと同義だ。


 息を吸って、吐いて。淀んだ心の泥を落として苦笑混じりに微笑んで。

 壊さず、崩さずに済んだ今を嚙み締め、優理は朔瀬の手をそっと握る。


「嘘じゃないですよね」

「はい、本当です」

「ここにいますよね」

「はい、ここにいます」

「本物、ですよね」

「はい。優理君。本物のリアラです」

「……?」

「……優理君?」

「……リア、ラ?」


 手を繋いだまま、涙の跡が残る頬のままに優理は朔瀬を――リアラを見つめる。


「……私の名前、朔瀬・Cシャーロット・リアラです」


 驚いた顔をしてから、優理と同じく涙の跡が残るままはにかんだリアラが、そう告げた。


「……」


 朔瀬さん。外国の人だったんだ……。

 この状況でと言いたくなるような、そんな気分での新事実の発覚であった。





――Tips――


「濡れて透けた服」

性欲逆転世界においては"男の濡れて透けた筋肉"と言う形で創作に出てくることが多い。肌に張り付いたシャツと湿った髪をかき上げる仕草、爽やかな笑顔と、ちら見えする腹筋と胸筋のエロスが多大な人気を生む。

「水気と汗を浴びせてほしい」「筋肉に顔埋めたい」「腹筋にキスしたい」「下着なしで透けた○○で○○に○○でしてほしい」と欲望の塊のような発言が散見されるため、インターネットの創作事情は不健全だ。

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