八乃院灯華という女2
『……』
「……」
『…………』
「…………」
深い息遣いだけが聞こえる。
自分のと、相手のと。
既に汗は引いている。
最後はちょっと駆け足だったけれど、上手い落としどころが見つかって綺麗にハマった。
こうして気怠くも満ち足りた気分でピロートークをし、綺麗に話をまとめて終わらせられるのは彼女――灯華にとって喜ばしいことだった。
『……ふぅ、こんなところかな』
「そうですね。――旦那様」
呼び方を戻し、気分を戻す。
今の自分は相思相愛の兄を持つ妹ではなく、隣の旦那様というボイスチャット相手と話す一人の女、
『うあー……やっばいなぁ。今日久しぶりに役に入り過ぎてた気がする。……まだお兄ちゃんな感覚が残ってるかも』
「ふふ、うふふ、それでは……こほん、お兄様、もう、そんな伸びをしただけでは身体は戻りませんよ。しっかり柔軟してください。体操ならわたくしがお手伝いしますから」
『うん。頼むよ灯華……ハッ、危ない。ついお兄様に戻ってしまっていた』
「うふふふ、もう、旦那様ったら本当に入り込んでいたようですね。わたくしも旦那様のことは言えませんが」
『灯華さんも……ううん、灯華もでしょ?あれだけ僕に甘えてきてさ。ほら、おいで』
「はいっ、お兄様♡――こほん、旦那様、お遊びはおやめになってください」
『ええー、僕が怒られるの?これお金払ってるの灯華さんですよね?』
「うふふ、そうですね。わたくしがお支払いしております。だからこそ止める権利も遊ぶ権利もわたくしが持っているのですよ」
『それはうん。確かにその通りです。灯華さんの仰せのままに』
くすくすと笑いながら、灯華は一人伸びをする。
うーんと悩まし気に声を漏らしながら両手を高く伸ばし、勢いよく左右に下ろせば形の良い胸がふるりと揺れた。張りのある、ほどよく鍛えられた胸筋が支える立派な胸だ。
『灯華さん、今の声今日一番エッチでしたね……』
「え、ええー……。わたくし、何が旦那様の琴線に響くのか少々わからなくなってしまいます……」
『えろえろな声より、ふとした時に聞こえる日常に潜むエッチさの方が濃いエロスを含んでいるという話です』
《b》「よくわかります」《/b》
力強くうんうんと頷く。そのたびに胸が揺れ、ふるりふるりと小さな桃色が躍っていた。非常に目に毒な光景だが、通話相手の優理は一切目にすることがない。彼にとっては幸運であり不運でもあった。
「旦那様、わたくしの妹はどう思われましたか?」
『めちゃくちゃ可愛かったですね。本気エッチしてる時は完全にいつもの灯華さんでしたけど、それ以外はちゃんと可愛い妹してました』
「う……そうおっしゃっていただいて嬉しいのですが、感じているわたくしを覚えられるのは些か――いえやはり非常に恥ずかしいです……」
『そんなこと言われても、僕らが通話始めたのって去年の六月とかからですよね。毎月エッチしているんですから、もう十五回以上してるんですよ。そりゃあ覚えちゃいますって』
「それはそうですが……旦那様がお上手過ぎて、いつもいつも盛大にイかされてしまうんですよ」
『敏感過ぎる灯華さんが悪いです』
「エッチすぎる旦那様がよくありません」
『……』
「……」
『ふふ、あははっ』
「ふふ、うふふ」
しばらく笑って、息を落ち着けて再び話し出す。
『灯華さん、僕の兄演技はどうでした?』
「旦那様は立派なお兄様でした。妹の扱いが完璧で……本当に妹でもいるのかと錯覚してしまうところでした」
『それは何よりです。頑張ったかいがありました』
「旦那様、一つお尋ねしてもよろしいですか?」
『え、はい。急ですね。いいですよ。何ですか?』
「もしわたくしが旦那様にお会いしお声がけしたら……旦那様はどうなされますか?」
『……それ、リアルの話ですか?』
少しだけ下がった声のトーンに身を固くする。
剥き出しの太ももの上で拳を丸め、短く深呼吸してから言葉を作った。
「はい。現実の、わたくしたちが生きている日本でのことです」
『……そう、ですね』
イヤホンから聞こえる声は、慎重に答えを探しているようだった。
数秒、長いようで短い待ち時間ができる。息を飲み下し、高鳴る胸に手を当てた。思った以上に自分が緊張し、ドキドキとしていて苦笑する。
『灯華さん、ですからね。まあなんというか……一応その、僕も灯華さんのこと調べはしたんですよ』
「わたくしのことを、ですか?」
『はい。いくらなんでもポンと百万渡されて素直に受け取れはしませんって。名前とか職業とか住所とか聞いちゃったからには、本物かどうかくらい調べますよ』
「そうだったのですか。……少し、恥ずかしいです」
『その反応はちょっとおかしい気もしますが……いえいいです。それでですね。一応、本物かなぁとは思いました。顔写真とか、バッチリ決まってる姿とか見ましたよ。ドレス、お似合いでしたね』
「っっ、わ、わたくしから言い出しておいて申し訳ありませんが、かなり恥ずかしくて顔が熱くなってきてしまいましたっ!このお話はやめにしませんか?」
『いや続けますけど』
「くぅぅ……旦那様ぁ」
『甘えた声は聞き慣れたので無駄です。ともかくですね。灯華さんのことは僕もそこそこ知っているわけです。一方的にですが。だから』
「……だから、なんでしょうか」
『もし僕が本当に街中で灯華さんに声を掛けられたら、お茶くらいはしますよ。どこまで仲良くなれるかは……ふふ、そうですね。僕と灯華さんの相性次第じゃないですか?』
少しからかいの混ざった声に、灯華は先ほどと違う火照りを覚える。
安堵と、不安と、それから途方もない期待と。
「旦那様……罪な御人です」
マイクに声が乗らないよう、ほんの微かにと呟いた。
『?何か言いました?』
「いいえ、なんでもありません。旦那様、わたくし、旦那様をお探しいたします。約束です。もしもわたくしが旦那様とお会いできた際には、ご一緒にお茶をお願いいたします」
『……灯華さん、もしかしてもう僕のこと見つけていたりしません?』
「ふふっ、いいえ。旦那様
『そうです、か……。なら、目印を決めておきましょう』
「目印ですか?」
『はい。灯華さんは僕だとわかっても、僕は灯華さんだとわかりませんからね。わかりやすい、見た目でパッとわかるものありますか?アクセサリーでも、髪留めでも構いませんよ』
「そうですね……」
少し考えてみる。
もしも声をかけるとしたら、その時はちゃんと準備をして言うだろう。服装も、髪形も、化粧も姿勢すらも。
それなら、自分が八乃院灯華として特別性を持たせるものならば。
「――髪を、巻きましょう」
『髪を?』
「はい。巻き髪に、赤のリボンを揺らしてお声がけいたします」
『……赤色ですか』
「わたくし、赤毛混じりの茶髪をしておりますので。それも含めて判断していただきたいです」
『……了解しました。赤毛に巻き髪、赤のリボンですね。いつの日か、そんな姿の女性を見かけたら灯華さんだと思って接しましょう』
「ふふ、はい。お願いします。旦那様」
『ええ、しっかりと覚えておきましょう』
それから、しばらく演技終わりの緩いピロートークのような雑談を交わして通話は切れた。
音のなくなったイヤホンを外し、そっと机に置く。
柔らかな長椅子は灯華の艶めかしい肢体を完璧に受け止めてくれていたが、さすがに汗やら唾液やら他の体液やらでべたついている。
隣の旦那様――優理との通話の後はいつもこうだった。
身体はべたべた。床に敷いたタオルは湿り、ひどい時は机の上まで濡れていることもあった。今日はそこまで飛び散ってはいない。
気怠い身体を持ち上げ、床のタオルを拾って洗面所へ向かう。
こういう時は無駄に広い部屋が鬱陶しく感じる。ぺたぺたと歩き、洗濯籠にタオルを放り込んでシャワーを浴びる。
熱い湯が泡と共に身体を洗い流してくれる。
「……ふぅ」
息を吐き、清潔なタオルで身体を拭いて服を着た。
壁掛けの時計は既に9の数字を過ぎていた。どうやら二時間以上話をしてしまっていたらしい。いつものことだが充実した時間は流れるのが早すぎる。
「もう二十一時ですか……」
呟き、窓際に向かいカーテンをめくった。
窓を開くと自動的に部屋の電気が消えた。
ひゅぅぅ、と冷たい風が吹いている。
バルコニーに足を踏み入れると、全身に冷えた空気が纏わりついてくる。
灯華は冷気を浴び、火照った身体を冷ます。
見つめる先は広く遠く、どこまでも薄暗い夜の闇が包み込んでいる。空には灰色の雲が広がり、眼下にあるは数え切れないほどの光の粒。
高層マンションから見る世界に感動はなく、灯華の視界には別の景色が映っていた。
「傘宮、由梨……」
机の上に置いてあった紙を思い出す。既にすべて記憶済みだ。それでも紙にしたのは、灯華の人生にとって大切なことだったから。
傘宮由梨。そして傘宮優理。
一度だけ、声を聞いた。旦那様を女にしたらこんな声じゃないか。いいや、もし旦那様が変声機を使っていたらこんな声じゃないか。それほどまでに、自身の耳が覚えた声に酷似していた。
だからこそ調べた。
こんなことに自身の権力を使うのは、と抵抗もあったが、似たようなことを友人のリアラもやっていたので良いだろう。これくらいは、許してほしいと思う。
灯華は、ほぼ夢を諦めていたのだ。
名家に生まれ、時代錯誤な貴族生活を送り、あらゆる学を叩き込まれた。そのおかげで今の自分があるとはいえ、反動で夢を見てしまったのは仕方がないことだろう。
夢のような出会い、夢のような恋愛、夢のような愛の成就。
文学的な出逢いに始まり、詩に紡がれるような日々を過ごし、物語のような恋をする。花が咲き誇り、世界が色付き、誰もが祝福するような、盛大に花吹雪舞い散るような結婚を夢見ていた。
けれど、現実はそう綺麗なものではなかった。
自分の肩書きにしか興味のない男、どれだけ着飾っても見向きしない男、恋をする気も、愛を思う気もない男。
性欲がないのは知っている。情欲を持てにくいのは知っている。
でも、どうして向き合おうとしてくれないのか。結婚は仕事じゃないのだ。恋愛は双方の感情があってこそ成るものなのだ。
表情だけ取り繕って、本気で"八乃院灯華"という個に向き合おうとする男はいなかった。
髪形を変えても、化粧を変えても、衣装を変えても。
誰もが好きになる努力すらしようとしてくれなかった。その時ほど灯華は自身の目を、普通の人間から逸脱した自身の在り様を恨んだことはない。
名家だからなのだろうかと、普通の男性は違うのだろうかと思ったこともある。
権力者故、自身が多くの男性と知り合うことのできる恵まれた環境にいるとは自覚している。だけど結局、真に恋して愛してくれる男とは一度も出会えなかった。
もしかすれば、今まで話してきた男性の中には時間をかけて仲を深めればきちんと自分を愛してくれた人もいたのかもしれない。
灯華の好む古典にも、愛は長い時間と共に育まれると書かれたものがあった。
「――……」
一際強く風が吹いた。
薄っすらと赤みを含んだ美しいブラウンの髪を押さえ、灯華は踵を返す。
バルコニーから屋内に戻ると、思った以上に冷えてしまった身体に小さくくしゃみが出る。
「風邪を引いてしまうかもしれません……」
呟き、厚めの着る毛布を引っ張り出して全身を包んだ。暖かい。
ベッドに横になり、もう一度物思いに耽る。
結局、夢見る乙女だった自分は現実に打ちのめされて立派な大人になってしまった。
既に二十五歳。夢を見る時間はとっくに終わった。現実も知った。友人のリアラのように、いつまでもキラキラな夢を見てはいられない。
だけど。それでも。
それだからこそ、と言うべきか。
捨てきれなかった乙女心のまま、持て余した欲のまま、灯華は隣の旦那様と関係――当然肉体関係ではない――を持ってしまった。
夢のようだった。
現実じゃなかった。いや現実だが、まるで現実じゃないかのようだった。
耳から聞こえる声に噓偽りなく、本気も本気で自分のお遊びに付き合ってくれていた。それも八乃院灯華を知ったうえで、だ。
奇跡の出会いかと思った。
夢でもいいと思った。でもやっぱり夢じゃなくてよかったとも思った。
半ば諦めていた乙女心満載な夢ではあるけれど、こんな性欲塗れな出会いから始まったお話ではあるけれど。
もう一度だけ、夢を見ていいんじゃないかと思った。思ってしまった。
その結果が、今だ。
「……はぁ」
溜め息を吐き、胸に溜まった想いを押し出す。
傘宮由梨。そして傘宮優理。
妹と、兄。
戸籍上おかしなところはない。由梨の存在もこの目で確認した。声も聞いた。
なら、正しく兄と妹なのだろう。
ただ、幾度となく旦那様の声を聞いてきた自身の耳は言っていた。
"アレは旦那様です!わたくしの旦那様!永遠を誓った旦那様!"と。
永遠を誓ったのは演技の中であり、優理は灯華のものでもないが心の一部は妄想を叫んでいた。そして灯華は、その妄想を切って捨てることができなかった。だってちょっとくらいそう思ってもいいじゃないですか……。悲しい乙女の性である。
とにもかくにも、由梨か優理か。
やたら可愛く仕草も女子力高めだったとしても、可能性はゼロではない。
だからこそ、今日旦那様に聞いてみたのだ。
そうしたら思ったより自分が信頼を勝ち取っていてびっくりしてしまった。これが金の力か、と少々虚しくもなりつつ嬉しくもあった。
あとは当人の下へ押しかけて尋ねるだけだ。
通っている大学も知っている。家もまあ、知っている。だてに名家に生まれてなどいない。
ただ……。
「リアラさん……」
調査の過程で、友人のリアラが傘宮優理という男性に入れ込んでいることも知ってしまった。
彼女が結構な乙女であることも知っているし、人並みに独占欲を持っていることも知っていた。自分も似たようなものなのだから、笑ったりなどできるはずがない。
灯華は、男の取り合いで友情が壊れた事例を腐るほど知っていた。創作も、現実も、そこは変わらない。
もしも自身の知る旦那様が傘宮優理だったとして、リアラとの奪い合いになったら辛い。悲しい。一晩どころか数か月は引きずるだろう。そのたびに旦那様とエッチするつもりだ。
「旦那様、わたくしは、どうすればよいのですか……」
祈るように呟いた。
どうすればいいかわからない。まだ何もはっきりなどしていない。
それでも、旦那様を諦めるつもりだけは、灯華の心に一欠片だって存在していなかった。
――Tips――
「名家」
性欲逆転世界においては単純な古くから続く家以上に、現代に君臨する真の金持ちを指す。名家出身の者それぞれが起業、成功を収めている。失敗した者は失敗した者で時間をかけた再決起を計る傾向にあり、総体的に失敗者の方が飛躍している。
権力、財力共に計り知れないものがあり、優秀な人材を当たり前のように輩出することから、大成した者の名字に聞き覚えのある人も多い。
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