アヤメという少女。



「ただいまー!」


 返事はない。

 今日は帰り道で楽しいことがあったので、由梨――優理はご機嫌だった。玄関で靴を脱ぎ、ウィッグのお団子を解いて髪の毛全部外して、ふわもこな服と同時に由梨としての仮面も脱ぎ捨てる。


「ふぅ……」


 一息。

 楽しい女装学生活は終わりだ。切り替えよう。ここからは配信者ユツィラになるわけだが……まあユツィラならほとんど自分そのものだしいいか。気を楽にして、いつも通りインナーシャツとパンツだけと言うエロティックスタイルで部屋を徘徊する。


 鍵は閉めているので誰かが侵入してくることはない。そもそもマンションのエントランスから入れないだろうし、今の時点で侵入されていたら終わりだ。甘んじて強盗には童貞を対価に見逃してもらおう。


 頭の悪いことを考えながら、化粧を落としうがいをして、喉を潤しリビングに戻って携帯を確認する。


 当たり前のように来ているミュミュへの大量の通知はいったん無視する。

 昔は一人一人返信していたが、今はそこまでやっていられない。

 

 ユツィラ一人でどれだけ時間がかかるのか。いや本当に笑えないくらい時間が溶ける。それだけ自分を好いてくれる人が多いというのは嬉しいが、それはそれ、これはこれ、だ。


 ミュミュは全部見なかったことにして、大事なのはLARNだ。

 由梨、モカ、香理菜の三人グループLARNにさっきの出来事を投下しておく。文章は【大連絡】香理菜ちゃんプラトニック宣言【超可憐】である。配信タイトルっぽくなってしまったが、そこはしょうがない。あとはモカからの返事を待つだけだ。


 アカウントを切り替え、昨日からちょこちょこと連絡頻度の上がった相手を見る。




< 搾精の人 ✉ ☏ ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【2028年9月25日(月)】


優理君。

おはようございます。

今日、私はチーズオムレツ

を作りました。おいしかっ

たです。優理君は何を食べ

ますか?

もう食べ終えたでしょうか。

【6:45】



【IMG202809250635.jpg】

【6:46】



おはようございます。

オムレツいいですね。

卵、ふんわり綺麗です

。僕はこれから目玉焼

き作ります。

【既読 7:33】



嬉しいです。

ありがとうございます。

優理君は目玉焼き、何を

かけて食べますか?私は

塩マヨネーズが好きです。

【7:45】



僕は醤油ですね。

でもソースとか塩とか、

もちろんマヨネーズを使

うこともあります。結構

色々です。なんでも好き

ですよ。

朔瀬さんはオムレツ、何

かけて食べましたか?

【既読 8:05】



今日はオーソドックスに

ケチャップをかけました

。実は私、ケチャップは

別のお皿に載せて食べる

んです。

ふふ、珍しいでしょう?

【8:10】



初耳です。確かに珍しい

かもしれません。でも、

良いと思いますよ。

僕も醤油は別のお皿に入

れますし。

【既読 8:45】



そこはお揃いですね。

お寿司を思い出しました。

わさび醤油も良いですね。

【12:10】



あはは、僕もお寿司思い

出しました。お揃いです

ね。わさびは溶かしちゃ

います。

朔瀬さん、わさび得意な

んですね。ちょっと意外

です

【未読 15:36】



【メッセージを送信】―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 ささっと返事を打っておく。

 これまでこんな会話を、言ってしまえばどうでもいい話なんて朔瀬とはしてこなかった。

 何が理由で朝食の話をしてきたり写真を送ってきたりとしているのかわからないが、優理としては普通にちょっと遠距離恋愛中の恋人っぽくて楽しかったから理由はどうでもいい。


 できればオムレツにはケチャップハートで「ユーリくん好き♡」とか書いてあったら最高だった。無理か。無理だな。


 気を取り直して、別のアプリ、最初から携帯にインストールされているショートメッセージのアプリを開く。




← アヤメ ☏ : ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【9月25日(月)10:00】


アラインですか?このお便り、届

いているのでしょうか。アヤメは

アヤメです。このアプリ、変です

ね。でも私とアラインだけの場所

はちょっと嬉しいです。お返事く

ださい。待っています。



【9月25日(月)15:40】


僕だよ。ごめんね、遅くなって。

とりあえずアヤメから連絡が来て

いてよかった。一人で寂しくない

?大丈夫?ちゃんと生きてる?



【メッセージを送信】―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 まるで母親のようなメッセージを送ってしまった。反省はしていない。

 できればもっと早く返事をしてあげたかったが、由梨モードの時はできるだけ優理を出したくない。仮面が剥がれるのもそうだし、他の人に携帯の画面を見られたりしたらおしまいだ。


 トイレなら返信することもできるが、そこまで大急ぎというわけでもないので今日はやめておいた。


 返信の件だけでなく、お手洗いという場所は自分が男であることを再認識するのにちょうどいい。他人に見られる心配もなく、色々都合が良いのだ。当たり前のように男である自分が女子トイレで用を足していることにツッコミはいらない。これが日常である。


 アヤメへの心配はあるが、ひとまずやることを熟していく。

 昨日告知配信をサボってしまったので、今日はちゃんとやる。配信予告もしておこう。


 ミュミュを開き、ぱぱっと文章を打ち込んでいく。



ユツィラ@Yutchura_live

今日は先日話した手料理の販売が決まったので、それ

の宣告配信をします。



 すぐさま暇なリスナーから返事がやってくる。



ユツィの涙@yuyunami1015

返信先:@Yutchura_live

聞いてないけど記憶が甦る……あーんしてもらった記

憶あるかも……?これは前世がユツィラの涙だった可

能性ある



Y職人YT@ysyoku_0704

返信先:@Yutchura_live

私の100件に及ぶ要望メールがついに実を結ぶ時が来た

ようですね……



お料理小娘@oryokomu_0823

返信先:@Yutchura_live

ユツィラの男らしい手料理とか控えめに言って神じゃ

ない?あたしの手料理と混ぜれば実質子作りじゃん。

天才かな?



社会びとゆるり@syatitiruri_1211

返信先:@Yutchura_live

できればユツィラくんの愛情たっぷりソースも付属さ

せて。10万までならお財布からすぐ出すよ!あっでも

どうせならちゃんと調味料にしてくれたら嬉しいな!



ユプライヤー@yuprayer0102

返信先:@Yutchura_live

ユツィラきゅんと宣告プレイしたい



ユツマイスター@yutchmister_1229

返信先:@Yutchura_live

隠し味はなにかなぁ。わたしと一緒に混ぜ混ぜしよう

ね!これでもプロだからね!わたし!世界一のおいし

いお料理にしてあげる!!



 適当なミュミュしたことを後悔するくらい頭の悪い返事ばかりだった。誰も彼も捏造妄想に微妙なリアリティを持ち込んでいる。特に料理得意勢の勢いがひどい。ここぞとばかりに返信してきている。


 そうだった。ユツィラのリスナーはこんなんだった。悲しみと同時に異様な安堵感が心を満たす。嬉しくない安堵感だなぁ。


 生暖かい感情は横に置いておき、改めて文章を作る。



ユツィラ@Yutchura_live

料理は嘘です。本当はリスナーとの通話に関する話が

進展したので、そのお知らせです。

みんな配信見てねー!

【祝】ユツィラとお喋り【サイト開設らしい】

https://www.churich.stream/yutchura_live



 一息。

 嘘だ!とかスクショ取ってますぅ、とか通話の方が嘘みたいなほんとの話で叫んじゃった、とか。和気あいあいとミュミュは楽しそうだ。いつも通りで安心する。


 これ以上は見ていても疲れるだけなので、適当なミュミュに返信をしてアプリを閉じる。

 続けて、この短い間に来ていたメッセージを確認する。




← アヤメ ☏ : ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【9月25日(月)15:43】


本当に届いていたんですね。嬉し

いです。アライン、遅かったです

。心配しました。どうしてお返事

遅かったのですか?もっとたくさ

んお話したいです。お電話しても

いいでしょうか。


【メッセージを送信】―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 可愛らしい返信が来ていた。

 普通に頬が緩んでしまう。


 まあでも、アヤメは家に引きこもっているという話だから基本的に暇なのだろう。話し相手も優理くらいしかおらず、連絡頻度を高めたいという気持ちはわかる。だが、優理の身体は一つだけしかない。学校に行って、配信してとしていればアヤメだけにかかりっきりになるわけにもいかない。


 ネットに浸かっていたなら他に話し相手がいてもおかしくないだろうが…………。




← アヤメ ☏ : ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【9月25日(月)15:51】


遅くなったのはごめんね。普通に

学校行っててさ。その間連絡取る

の難しいんだよ。

アヤメは、僕以外にネットで話す

相手とかいないの?



【9月25日(月)15:52】


アラインは学生さんだったのですね。



【メッセージを送信】―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「あ」


 頬が引きつる。

 普通にやらかしてしまった。……いや、ここは相手がアヤメだったことを幸運に思おう。少し気が抜けすぎている。相手がエッチ済み……この言い方はおかしい。まだ優理は童貞だ。


 相手がボイスエッチ済みとはいえ、気を許し過ぎるのもよくない。

 性別と声と過去くらいしか知らないのだ……いや、これ割と知っている方じゃないか?


「いやいや落ち着こうか、僕」


 誤魔化しは利かない。

 ひとまず焦りなく、そのまま話を続けよう。



← アヤメ ☏ : ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【9月25日(月)15:55】


うん。言ってなかったね。仕事も

してるけど、一応まだ学生なんだ

。それよりアヤメ、話し相手は?

ネット見てるなら他にいそうなも

のだけど。



【9月25日(月)15:57】


いませんよ。みんな怖い言葉ばか

り使っていてお話したくありませ

んでした。私の書いた感想に、的

外れとか無知とかニワカとか……

思い出したらむかむかしてきまし

た!!アライン、お電話してもい

いですか?



【9月25日(月)16:01】


そうなんだ……。なんとなくアヤ

メのよく見ていたサイトの察しが

ついたよ。

それじゃあ今度、僕がおすすめの

小説を教えてあげよう。



【9月25日(月)16:02】


嬉しいです。読みたいです。楽し

みができました。待っています。

それはそうとアライン、お電話

してもいいですか。



【メッセージを送信】―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 暇を持て余すアヤメにおすすめの小説を教えるのは本当だ。もちろんエッチなものではない。普通の大衆娯楽小説である。


 それはそれとして、必ず文章の最後に電話してもいい?を付けてくることからは彼女の喋り欲を強く感じる。それだけ優理と会話をしたいのだろう。


 よく、今の自分が不幸だと知らなければ不幸だとは思わない、という話を聞く。

 それをアヤメに置き換えるならば、寂しさを知らず生きていたところに優理という超新星が現れ、人との会話を知って寂しさを知り対話に飢えていると、そんなところか。


 優理にも経験がある。

 それは自分が童貞だった頃――否、今もまだ童貞だった。辛い。

 自分が童貞で、他の男が皆非童貞になっていく世界だ。無論前世のことである。置いていかれた感覚。いやそんな友達はいなかったが、空気感、雰囲気で。


 その点この性欲逆転世界はいい。碌に男がいないから自分を他の男と比較しなくて済む。

 それでもまだ優理は童貞のままだが。なにゆえ?ちょっと意味がわからなかった。


 携帯を手に取り、ショートメッセージを開いて"Call"をタップする。

 プルプルと発信の音が聞こえる。


『わ、え、あ、ア、アライン?です、か?』

「アヤメは可愛いなぁ」

『アライ――』


 ぷつり。

 電話は切らせてもらった。相変わらずアヤメの声は可愛かった。あわあわしている姿が目に浮かぶ。なんだろう、この気持ち。アヤメの反応が新鮮で心が浄化される。年下のからかいがいのある女の子に悪戯してしまう年頃男子も、こんな気持ちだったのだろうか。違うか。


 アヤメにイタ電(悪戯電話の略)して即切りし、即座にぷるぷる震える携帯を眺める。

 ここでもう一度電話を切ってもいいが、優理は知っている。悪戯も度が過ぎれば相手を傷つけるだけということを。

 可愛い女の子に悪戯をしたい。からかいたい。それを実行するならば、それと同等の甘やかしもプレゼントしなければならないのだ。具体的にはアヤメの言うことを聞く。


 震える携帯を取り、受話器マークをタップした。


「僕だよ」

『ア、アラインっ。どうしてお電話を切ったのですか?私は怒っています!』

「ごめんごめん。ついアヤメをからかいたくなっちゃってさ。ほら、アヤメの読んでた小説とか漫画にもあったんじゃない?男の子が好きな女の子につい意地悪したり素直になれなかったりするやつ」

『あっ、あ、ありました……。アラインは、私のことが好きなのですか?』

「え?いやー、どうだろうね?」

『むぅぅ……私もアラインのことは好きじゃないです』

「え、辛い。ショックだ……」

『わ、え、ま、待ってください。嘘です。好きです。大好きです。アライン大好きだから、泣かないでくださいっ』

「いや泣きはしないけど」


 アヤメがちょろすぎて心配になる。あたふたした声も可愛い。

 昨日のボイスエッチ以降、アヤメの感情表現がどんどん豊かになっている気がする。これが性欲の力か……。できれば優理の心の温かさが彼女の心を大きく広く豊かにしたと思いたいところだ。


『嘘泣きはずるです』

「最初から泣いてはいないんだけどね。それよりアヤメ、僕に話したいことがあったんじゃないの?」

『?どうしてですか?』


 疑問の声が純粋過ぎて、本気で言っているのがわかってしまう。こてりと首を傾げていそうだ。

 どうしてはこちらのセリフなんだよね、と言いたくなるがここはグッと我慢だ。


「……えっと、特に用事はなかった?」

『はい。アラインとお話したかったので、お話できて私は嬉しいです』

「そっか」

『はいっ』

「……アヤメは可愛いなぁ」

『え?え、えへへ。嬉しいです』


 照れ照れしていそうで可愛い。頭を撫でてあげたい。

 くそお、顔も姿も知らない相手への深みにハマっていくリスナーの気持ちがわかってしまう。ユツィラリスナーたち、こんな気持ちだったんだね。僕も同じ水平線ばしょに立てたよ……あんまり嬉しくないなぁ。


 ようこそ、と手を振りハグを求める女性陣の姿が目に浮かんだ。

 どう考えても男である自分とハグしたいだけである。妄想の中でも変態なリスナーたちだ。


「アヤメさ。かお――」

『お顔?お顔がどうかしましたか?』

「い、いやなんでもないよ、うん」


 あっぶなー。勢いで顔写真要求するところだった。

 顔でも見られれば幻滅するか夢が壊れて現実を思い知るか、もしくはもっと好きになるかと思ったけど。けれども、だ。顔写真を要求するなんてどう考えても変態の所業だ。自分への好意を利用した悪質な行動であり、前世なら相手によっては普通に犯罪である。


『……』


 言葉が止まる。饒舌だった声が聞こえなくなった。一瞬電波障害も考えたが、携帯からアヤメの息遣いは聞こえるのでその線はない。

 どういうことだろう。思ってすぐ、ぽんと通知が来た。


 通話中のままアプリを開き、アヤメとの会話を見る。




← アヤメ ☏ : ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【9月25日(月)16:07】


【IMG202809251607.jpg】



【メッセージを送信】―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




追加のメッセージは一つだけ。

メッセージというか、それは写真だった。自動でダウンロードされ、優理の意図せぬままに表示される。


「――こ、れは」


 それは、顔写真だった。

 胸から上を写した一枚の写真。両手を伸ばして、見るからに写真慣れしていない姿で写っている。表情は小難しく、唇はへの字にして頑張って撮ろうしているのがよく伝わってくる。


 そんな可愛らしい表情や仕草よりも、優理はアヤメの顔に目を惹かれていた。


 造形が、凄まじかった。

 最初に目を惹かれたのは澄んだ青の瞳だ。晴れ渡った空の深い藍色。ぱっちりした目は目尻にかけて少し垂れ、溌剌さと儚さを兼ね備えている。嘘みたいに綺麗な瞳だった。

 髪は長く、写真には収まり切っていない。色は銀色。一本一本が繊細な銀糸のようで、電球のライトを浴びてきらめいている。前髪は花型の髪留めでまとめて横によけているが、流れた髪が銀色の滝になり美しさすら感じた。


 肌は色抜きされたように白く、目や髪の色と合わせて雪の妖精かと錯覚してしまう。

 ちょこんと付いた鼻に、薄っすらと色付いた唇は桃色で、色気よりも可憐さを強く感じる。


 睫毛も眉毛も全部銀色と、どこからどう見ても日本人じゃなかった。

 服装は緩いTシャツ一枚。下は見えない。胸は小さい。この写真だけでは身長はわからないが、見える範囲だけだと全体的に小柄で華奢に見えた(この世界比)。


『アライン。見えていますか?私です!』


 むん、と胸でも張っていそうな声が聞こえてきた。可愛い声だ。可愛い顔だ。可愛い姿だ。可愛い妖精さんだ。


「今胸張ってる?」

『ど、どうしてわかったのでしょうか?』


 動揺の声も一層可愛く思えてくる。よくない傾向だ。顔を見てしまったせいで好意レベルが上昇している。

 というか、本当に胸を張っていたのか……。優理はちょっとだけ自分を取り戻した。


「……はぁ……いや、うん。アヤメは可愛いね。髪の毛銀色なんだ?」

『えへへ。はい。銀色です』


 写真がそうなのだから当然か。

 しかし、銀色ってどうなってるんだと素の疑問が浮かぶ。


 この性欲逆転世界、別に魔法や超能力が広まっているわけではない。前世と同じく科学をベースにした優理にとって普通の世界だ。

 日本は当然黒髪と茶髪が多く、少しだけ色素が薄れて明るめの茶髪が地毛の人も増えているか。友達のモカは金髪だが、彼女はハーフなのでおかしくない。優理自身黒髪だし、海外含めても銀髪なんて聞いたことがない。


 なら、写真のめちゃくちゃに美麗な銀髪はなんなのか。


 じっと見てみるが――――いや本当可愛いな、アヤメ。

 文字通り次元の違う可愛さだった。前世でテレビ越しに見る海外映画の女優とか、そんなレベルだ。優理の想像力が及ぶ範囲ではそれ以上の説明がつかなかった。とりあえず、可愛いのレベルでは文句なしのトップワンである。


「うーん……」

『どうかしましたか?』

「……アヤメ」

『はいっ』


 名前を呼ぶと嬉しそうに返事をしてくる。

 あ、これ懐いている犬か……。いやしかし、犬はエッチボイスチャットなんてしてこないし……アヤメは犬よりもっと小動物寄りなんだよね。ちんまいウサギとか。ウサギって年中発情してるって聞くし……それ、人間も同じか。特にこの世界の女性。なんだ。アヤメもただの人間かー。


 くだらないことを考えつつも、しょうがなく現実逃避はやめる。


「……僕の失態とはいえ、アヤメに写真を送らせてしまったものはしょうがない。アヤメ可愛いから、うん。見てしまったものは取り消せない。アヤメ可愛いし。しょうがないから、僕も君に写真を送ろう。アヤメ可愛いからね」


 本音と欲望がだだ漏れだったような気もするが、気のせいだろう。

 しょうがない。だってアヤメが可愛いのだから。優理とて男の子である。超可愛い銀髪美少女と縁が出来たらちょっとくらい仲良くなりたい。


 おお性欲の神よ。欲に溺れるこの身を赦したまへ。

 ……この世界の性欲の神様だったら、無言でグッドサインしてきそうだ。もしくは卑猥な指の動作。


『ふふ、アライン、私のことたくさん褒めてくれますね。嬉しいです。胸の奥がぽかぽかします。とっても嬉しいです。お写真ください。アラインのお顔、楽しみですっ』

「いや顔写真は送らないけど」

『ど、どうしてですかー!?』

「いやぁ、さすがに顔写真はね。僕にもプライベートってものがあるし」

『私にもプライベートはあります!』

「ずっと家にいるんでしょ?」

『そ、そうですけど……』

「やることあんまりないんでしょ?」

『う、ご本を読んだり、インターネットを見たりしますよ?』

「じゃあ暇だね。プライベートなんてあってないようなものさ」

『うぅ、アラインは意地悪です』

「ふふ、好きな子には意地悪になってしまうものなのだよ」

『それはさっき聞きました。嘘ですよね?』

「アヤメが好きなのは本当だから、全部嘘ってわけじゃないんだよね」

『……ずるいです。また胸の奥がどきどきしちゃっています』


 ぽっと頬を赤らめている姿が目に浮かぶ。いじらしく目を逸らす美少女の姿が優理の瞼の裏に見えた。これが幻覚、妄想の力……。また一つ、ユツィラリスナーの気持ちがわかってしまった。辛い。


 ドキドキしているアヤメは放置し、一人椅子から立ち上がる。

 電話は繋いだまま、カメラモードに切り替えた携帯を机に立てかけた。


「アヤメー。聞こえてるー?」

『わ、え、アラインが遠く聞こえます!』

「まあ離れてるからね。写真撮るからもうちょっと待っててー」

『はい。待っています』


 やっぱりお行儀の良い犬っぽいなぁと思いながら、タイマーに従ってしばらく待つ。身体をベッド側に向け、右腕を天に伸ばし人差し指を立てて仁王立ちだ。左腕は腰に当て、胸を張って尻に力を入れればカッコよく決まる。


 ぱしゃり、と音が聞こえた。

 せかせか戻り、確認すると良い感じの写真が撮れていた。鍛えた筋肉が素晴らしい。我ながらハイセンスだ。

 さくっとアヤメに送信しておく。


「送ったよ」

『もう見ています!』

「おお、早いな」

『すごいです、かっこいいです。えと、アラインの身体がよく見えますっ。えっと……こういう時、たぶんとってもえっち、って言うんですね。アライン、とってもえっちですっ』

「え、あぁ、うん。ありがとう」

『ほ、ほんとうですよ?私はどきどきしていますし、お腹の下の方もきゅぅってなってしまいました……ま、また昨日みたくなってしまうのでしょうか……!』

「そんな期待した声出しても今日はなんにもしないよ。アヤメは良い子だから、性欲に身を任せたりなんてしないでしょ?最悪、本当に辛いときは僕が手伝ってあげるからさ。自分をコントロールしなさい」

『むむむ……アラインは意地悪ですけど、良いことも言います。私の読んだ漫画にもありました。"我欲を制してこそ己が望みは成るものよ"と』

「どんな漫画読んでるのさ……」


 妙に世捨て人な雰囲気漂うセリフだった。ちょっと読んでみたくなる。

 しかし、写真を送りつけただけではまだ少々釣り合いが取れていない気がする。美少女(本物)と知ってしまったからには、昨日のボイスエッチがより高い価値を持っているように感じてしまう。これが顔面格差社会……でも仕方ないよね、可愛いものは可愛いんだから。


 顔写真への対価は優理の広く大きな背中だが、まだ足りない。

 というわけで、一つヒントを出すことにした。


「アヤメ。僕がどこにいるのかわかった?」

『むむ?いいえ、わかりませんよ。アラインだけじゃわからないです。インターネットでお電話の番号を調べてもよくわからなかったです。もっとわかりやすい情報を求めますっ』

「ふむふむ……」


 そうだろうな、と頷く。

 電話番号調べたんだ、とはならない。それくらいやるだろうなと思っていた。だが、警察の逆探知システムでも使わなければこの携帯の居場所を特定することなどできないだろう。なんとこの世界、男性プライバシー保護のために男の人が手に入れられる携帯は特殊な防護が施されている。具体的にはハッキングやら探知やらを受けないよう高レベルのセキュリティが常に張られている。


 アヤメがどこにいるのか知らないが、携帯番号一つでこちらを特定できるとは思えない。それ故のヒントだ。


「素直で可愛いアヤメに、僕からのヒントをあげよう」

『わっ、嬉しいです。本当にもらえるとは思っていませんでした』

「まあ顔写真の対価みたいなものだからね」

『そ、それならもっとすごいお写真を――』

「――これ以上写真を送ってもヒントはあげないよ?」

『それでもアラインが喜んでくれるから送りますっ』

「僕が喜ぶのか確定なのか……」

『喜ばないのですか?』

「……まあ、喜ぶかも」

『ふふふー、私もアラインのお写真は嬉しいです』

「それは何より」


 ちょっと照れくさい。

 なんともくすぐったい気分だった。これが年頃の男子が可愛い女の子と通話している時の気持ちか……。そりゃ電話一つで好感度もぐんぐん上がるってものよ。まるで学生時代に戻ったみたいだ。あ、僕まだ学生だったわ。


「とにかくね、アヤメにヒントをあげよう。心して聞きなさい」

『は、はい』


 声が緊張している。どんな表情をしているのだろう。唇を引き結んで両手を膝の上に置いていたりしないだろうか。丸めた手が思った以上にちっちゃくて可愛いんだろうなぁ。

 妄想はほどほどに、軽く頭を振って口を開く。


「僕の名前だよ」

『お名前ですか?』

「うん。アラインね。適当に付けたようで、実はちゃんと真面目に付けているんだよ、これが」

『そうだったのですか』


 そうだったのだ。

 アライン。傘宮優理。傘宮。つまりそういうことだ。


 日本語と英語を少し学んでいれば思いつく程度のことでしかない。これで名字を引っ張り出すのはさすがに難しいだろうが、最低限のヒントにはなるだろう。いつの日か、アヤメが優理の家を訪れて「アライン……いいえ、ユーリ。ずっと私ばかり気持ちよくされていました。これからは私がたくさんいっぱい、たくさんたくさん気持ちよくしてあげます」とか言ってくれるかもしれない。ないか。そうか。


「英語と、日本語と。そのまま直訳ってわけじゃなくて、二つの単語を組み合わせて作った言葉なんだ」

『二つですか……』

「アヤメは英語、わかる?」

『ふふん、私にはインターネットがあります!』

「……そっか」


 どやっと自慢げな顔が見える。けど英語はできないようだ。期待薄に応援だけしておこう。


「二つの英単語を日本語に戻せば、漢字二文字の名字っぽくなるから。宝探しと思って頑張ってね」

『はいっ、頑張ります』

「じゃあ今日は僕これから用事あるから、またね」

『……もう、お話終わりなのでしょうか……?』

「……」


 声がしょんぼりしている。

 こちらまで悲しくなってくる。沈んだ声をぱぁぁっと明るくしてあげたい。このしょんぼり声は卑怯過ぎる。あざとさの欠片もない、本心しかない"寂しい!"の感情は胸に刺さる。

 しかしここは漢優理。配信という大事なお仕事――趣味が控えているのだ。ユツィラリスナーが待っている。断腸の思いでアヤメの涙目上目遣い寂しいかまって攻撃を振り切ろうと――――。


「――しょうがないなぁ!!」


 ごめん、リスナーのみんな。

 配信ちょっと遅れます!!!!!





――Tips――


「可哀想は可愛い」

自身の行動によって女(男)の子が気落ちしている様を見て、可愛いなぁと思う感情を指す。

好きな子に悪戯したくなる感情が原点にあると言われ(諸説あり)、他者から与えられた哀れさと自身が与えた哀れさでは持ちうる感情に大きな差がある。

度を越えた悪戯は相手から嫌われるため、性癖はほどほどに抑える必要がある。また、悪戯以上に相手を喜ばせるためのカバースキルが重要視される。

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