第2話 母だって泣くのよ

新生児の頃から、わりと楽しく育児が出来ていたわたしにも少し疲れが出てきた。

赤ん坊の泣き声が耳に響くのだ。

この頃は作り笑いすらまともに出来なかった。

わたしの気持ちが伝わっていたのか、赤ん坊もよく泣く日が続いていた。


その日は特に不機嫌で、泣き止まなくて、わたしは心底うんざりしていた。

うちの子は眠りたいのに眠れない状況でよく泣く。いわゆる寝ぐずりだ。


泣く。

最初はトントンしたり音楽流したり声かけをするが、落ち着くどころかヒートアップ、顔を真っ赤にして泣く。さすが「赤ちゃん」。

そうなるともう泣き声というより叫び声に近い。

抱っこをする。ただの抱っこじゃダメ。

立って抱っこして揺れる。

少し落ち着く。

よっこらしょと座る。

泣く。

しばらく立って揺れる。

落ち着く。

座る。今度は大丈夫だ。

そぉーっと置く。

1.2.3…

泣く。

立って抱っこして揺れる。

これをひたすら繰り返していた。


いつもなら泣き疲れて電池切れで眠るのだが、この日は本当に手強かった。

どれくらいの時間そうしていただろう。

電気もつけず、ひとりぼっちで赤ん坊の泣き声と戦っていた。


わたしは大きなため息をついて、抱っこをしながら飲み物に手を伸ばした。

いつのまにか喉がカラカラだった。

縦抱きの、首を支えてる片方の手を離したのが間違いだった。

水なんて、寝てから飲めばよかったじゃないか。


ぬるい水が体に染み渡った瞬間

赤ん坊が大きく後ろにのけ反って、リカバリーが間に合わず、ぐるんとひねって顔とお腹から床に着地した。

スローモーションだった。


赤ん坊を落としてしまったのだ。


より一層大きく響く泣き声。

すぐさま抱き抱えて

「ご、ご、ごめ、ごめんね、ごめんね、ごめんね……」


(死ぬかもしれない)

(何か大きな障害が残るかも)

(救急車?)

(こういう時はどうすればいい)

わたしの頭の中はぐちゃぐちゃだ。


抱きかかえながらオロオロしていたら、その揺れが心地よかったのか赤ん坊の目がトロンとしてくる。

そもそもこの子は眠くて眠くて泣いていたのだ。

しかし冷静さが1ミリも残っていないわたしは大きな声で

「寝ないで!死なないで!!!!」

と、必死に我が子を起こしていた。


どうしていいかわからない時、わたしはいつもスマホで検索がマストだった。

でももう、この子を床に寝かすことも片手で抱くことも恐ろしくてできなかった。

とっくに泣き止んでいる赤ん坊に、安心すると同時にいよいよどうしようか迷った。

そしてこういう日にかぎってかかりつけ医が休診なのだ。

そうそう、人生ってそういうものだ。


途方に暮れていたら、冷蔵庫に貼ってあるマグネットが目に入った。

救急車の形をしているマグネット。

タイヤの部分に穴があいていて

「この穴に入らなければ赤ちゃんの誤飲は防げるので目安にしてくださいね〜」

というものだ。

それは月一で開催されている地域の赤ちゃん会でもらったものだった。


そのマグネットに、病院へ行くべきか救急車を呼ぶべきか、迷ったら相談ができる電話番号がでかでかと書いてあった。

ここだ!と思い、さっそく電話した。

ありがたいことに短い番号で、抱っこしながら押すことができた。


繋がった看護師さんに事情を説明しようとするが、人と話せる安心感と、自分のしてしまったことを言葉にする怖さで、喉がつかえて上手に声が出ない。

わたしの泣き声だけが相手に伝わる。


「お母さん、大丈夫ですよ。ゆっくりでいいですよ。自分を責めないでくださいね」


わたしは看護師さんの優しい声かけに冷静さを少し取り戻すことができた。

この言葉と声色は一生忘れないだろう。


泣き止んでいることと、特に症状がないことから様子見になり、念の為次の日かかりつけ医に診てもらうことを勧めてもらった。

頭を打った場合は直後ではなく24時間以内に症状が出ることもあるらしく、夜は特に心配だったが何事もなく朝を迎えた。

さっそくかかりつけ医に診てもらったが、異常もなく、無事だった。

わたしは子供の強さを知り、自分の弱さを痛感した。


数日経ち、少しずつ自分の気持ちが落ち着いてきたら赤ん坊の泣き声も心なしかボリュームダウンした。


自分にとってトラウマ級の出来事で、思い出しては身震いしてしまう。

そしてあの時の看護師さんの言葉を反芻しては涙が出てきてしまうのだ。

お会いしたことのない看護師さんに、救われたことを伝える手立てはないだろうか。


手が勝手に動いていた。

自分が住んでいる市のHPをチェックする。

当たり前だが、感想とか感謝とかそういうのを送るページは見当たらない。

うーん、なんで当たり前なのだろうか。


しばらく見ていると

「市民からの提案、要望」というページに行き着く。

それの公表を見ていると、改善してほしいことや不満などがどっさり書かれていて

丁寧に回答している様子が見受けられる。

こんなページがあったのか。


こんな出来事があって〜

・救急相談の看護師さんに救われたこと

・赤ちゃん会でもらったマグネットが役に立ったこと

・孤独を感じやすい育児の中、赤ちゃん会が楽しくて癒されていること

・保健師さんが優しいこと

・クレームだけじゃなく、こういった感謝の気持ちを伝えられるフォームを作って欲しいこと

・それらが、一生懸命働いてくれてる職員さん個人にしっかり伝わってほしいこと


これらのことをフォームに投書した。

一応要望ページだったため、最後はお願い色を強くしてしまった。

強くしてしまったあまり、社会貢献感が出てしまったが、まぁいいだろう。いいよね?

赤ん坊の顔を見る。

笑っていた。


思い返すと、電話をしていたあの時、泣いているわたしの顔を見て赤ん坊は笑っていた。

自分が笑うと親も笑顔になると知っているのだ。

だからあの時も、わたしの笑顔を引き出すために笑ってくれたのかもしれない。

親の泣き顔が面白かっただけということも十二分にありえるけれど。

どちらにせよ愛らしすぎる我が子なり。


何日か経ち、市の4ヶ月健診があった。

赤ちゃん会の保健師さんの姿もあり、ご挨拶をした。

そうしたら

「ありがとうございます。メール、読みましたよ。職員みんなで共有しましたよ」

と、言ってもらえた。続けて

大変でしたね、その時の状況聞かせてもらえる?と言われ

赤ん坊を落とした状況を説明した。


もしかしたら、虐待を疑われた?

わたしの精神状態を心配されたか?

そんなことも頭によぎったが、それはそれでいいのだ。


それよりも、感謝がちゃんと伝わったことにわたしはとても感動していた。

こういう思いは、相手に伝えないと思ってないことと一緒だ。

あー嬉しいなぁ。

その日は半袖だと少し肌寒い気温だったが、帰りにはちょうど良いくらい、嬉しさで体が暖かかった。


この出来事を通してわたしは、子供と一対一だと思っていた育児が、見渡せば寄り添ってくれる人がたくさんいるということを知ったのである。

ありがとう。

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