第24話
窓の外の空は重く厚い雲がかかっており、太陽の光が遮られるほど。
天気予報では午後六時から雨、となっているが、おそらく予報通りになるのだろうという説得力をひしひしと感じた。
「朝は綺麗に晴れていたのに、今にも降りそうです。最近の天気予報の的中率って、本当に見事ですね……」
窓際の角席に座ってそう呟いたのは、常連である比奈――ではなく、依頼人たる弘瀬だ。
今日の彼女には仕事の予定がなく、しかし家にこもっているのも気分が滅入る。そこで、比奈提案によりディアレストにて暇を潰している、という状況だ。
そして弘瀬を誘った当人である比奈も、もちろんいる。警護の仕事中なので当然ではあるのだが、勤務中とは思えないほどにのびのびとしているように見えるのは、果たして理人の気のせいか。
「うぅーん。このパイ生地のサクサク感が最高です。理人さん、苦手な料理とかなさそうですね」
「いえ、割と苦手ですよ? 特に肉や魚が」
「えっ。そうなんですか」
「火を通し過ぎてカラカラにしてしまうんですよね、つい」
味よりも安心を取る慎重派だ。
そして、焼くより煮る方が好きである。理由は全面的に熱が通る安心感があるから。
「ふふ」
理人と比奈のやり取りに、弘瀬が小さく笑う。自然、二人の目線もそちらへ向けられた。
「ごめんなさい。何だか久しぶりに和んだなあって思ってしまいまして。誘っていただけてよかったです。ありがとうございます」
「警備会社の中に不法侵入する者もできる者も、そうそういないですからね。安心して寛いでください」
それが自分の望んだことで、安全のためだと分かっていても、四六時中よく知らない他人と一緒に行動するのは、中々の負担だ。
とはいえ、弘瀬が狙われている可能性は限りなく濃厚。どれだけ気詰まりであろうとも、一人になるという選択肢は存在するまい。
「それも勿論そうなんですけど、ディアレストのコーヒーは、何だか優しい味がします。……お店の雰囲気がそう感じるのかな」
言って弘瀬は、言葉通りの穏やかな笑みを浮かべる。
「光栄です」
日常には存在しなかっただろう脅威に、弘瀬は今正に追い詰められている最中だ。その彼女が、たとえ一時であろうとも心を穏やかにしてくれたのならば、理人としても喜ばしい。
「けれど、そろそろお帰りの支度をした方がいいかもしれませんね。今日は夕方以降に雨が降る予定ですから。すでに雲も厚くなってきていますし」
もっと陽が落ちて、完全に降り出せばますます暗くなるだろう。
「視界も悪いし、雑音も増えて接近を察知しずらくなります。襲撃日日和とも言えますね」
「理人さん。怖がらせるのはどうかと思います」
「無用に脅かそうとしているわけではありませんよ。無事でいていただくために、必要な情報としてお伝えしたまでです」
弘瀬にしても、構えていないまま最悪の事態に見舞われるよりも、備えて緊張しながら何事もなく過ごせた方がいいだろう。
「それは……そうですけどー……」
無神経ではあったのかもしれない、と比奈の不満げな表情を見て、そう思った。
世の中、正論をそのまま言えばよいというものではない。人間は感情の生き物だ。心を無視して伝わることなど何もない。
「だ、大丈夫です。そうだなって思いましたから。むしろ、本当は必要がなければ家から出ない方が安全なんですから、木嶋さんにも香久山さんにも、ナイツオブラウンドの方々にも感謝しています」
自分を原因に言い合いをしてほしくなかったか、当人である弘瀬が慌てて間に入る。
「非常時に限らずですけど、人が健やかであるってことは、体だけ無事ならいいってわけじゃないと思うんですよね。目には視えなくても、肉体と同じくらい大切なものは、いくらでもあると思います」
「それらすべてを護らないと健やかでいられないのは、人間とは繊細な生き物ですよね」
比奈の主張を否定しようとは思わない。しみじみとうなずく理人に、比奈と広瀬から少し呆れたような目が向けられた。
「そんな、他人事みたいな」
「香久山さんも人間じゃないですか」
「ええ、だからもちろん、私自身も含めての話です」
悪戯めいた口調で微笑しつつ、冗談のように――その実そこそこ本気で理人は言う。
生憎理人は、自分が精神的に強いともしっかりしているなどとも欠片も思っていない。
嫌なことがあれば落ち込むし、悪意を向けられれば悲しい。傷付けられれば痛みの加減によって立ち直るのに時間がかかる。もしかすれば、立ち直れないかもしれない。
しかし同時に、女性二人の前で冗談にしておきたいぐらいのプライドも持っている。それだけのことだった。
「では、ご忠告に従って帰るとします。木嶋さん、お願いできますか?」
「はい、お任せください!」
「じゃあ、お会計をお願いします」
およそ半日、弘瀬はディアレストで過ごしていた。気晴らし分の代金として、高くついたか納得できる金額だったか――サービスを提供した側の理人としては、後者であることを祈るばかりだ。
「お世話になりました」
ぺこりと頭を下げ、弘瀬は比奈と共にディアレストを出ていく。
半端な時間だということもあって、利用者は少ない。比奈が弘瀬――つまりは外部の人間を連れてきていることを周知していたせいかもしれないが。
基本的にナイツオブラウンドは、きちんと外部向けの普通を繕う。だからこうして外部の人間が訪れると分かっているときは、私服か、内向きの第二制服の着用が求められるのだ。
万全を期して、しかしそれでもばれたときは仕方ない。
別に法に反しているわけでも何でもないので、騒がれるようなことではないのだ。騒ぎ立てる輩がいると分かっているから、気を遣っているだけで。
大概の人間は、知って、引いたとしてもそれだけだ。関わる前に知っていたら、おそらく理人もそうしていただろう。
「……あれ」
テーブルを整えに向かったところで、見覚えのないスケッチブックに気が付く。たった今まで弘瀬が使っていた席なのだから、持ち主も同じだろう。
普段外に持ち出す類のものではないのか、忘れて行ってしまったらしい。
(久遠路さんに預けて後日届けてもらうか、今追いかけて渡してしまうか……)
少しだけ迷ってから、追うことを選んだ。
「すみませんが、少し外します。弘瀬様に忘れ物を届けてきますので」
「おう、分かった。気を付けてな」
ディアレストの客は、客であると同時に同僚でもある。見知った顔の団員に留守を頼むと、スケッチブックをビニールに入れて比奈と広瀬の後を追う。
(雨が降る前に、追いつければいいんだが)
一応、弘瀬の家の位置は情報として頭に入っていたし、彼女がナイツオブラウンドに来ようとしていたとき、どちらの方向から来たかも知っている。だが少し行って追いつけないようなら、諦めようとも思っていた。
(いた)
幸い、二人は通常の速度で徒歩の帰宅。ナイツオブラウンドを出て路地一本先で、すぐに前を行く背中を見つけることができた。
(――ん?)
その行き先、外壁工事中のマンションがある辺り。通行の邪魔にならないよう、道の端に寄せられた器材の数々の中に、奇妙なものがある。足場を作る金属製のパイプが、なぜか壁に立て掛けられていたのだ。
あり得ない。そういったものは事故を防ぐため、地面に寝かせられているのが常だ。
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