第25話
「んん……?」
その違和感を、比奈も見逃しはしなかった。弘瀬を手で制して立ち止まらせ、自身は周囲に注意をしながらパイプに近付く。
だがその瞬間、比奈の注意が弘瀬から外れたことは間違いない。
弘瀬の背後、理人の前――ちょうど中間地点の脇道から、すっと人間が通りに入ってくる。あえて目立つ黒ずくめなのは、服の印象で己を誤魔化そうとしているためなのか。
顔は見えない。体格で誰だと断じられるような観察眼も、理人は持ち合わせていなかった。
だが。
「弘瀬さん!」
注意を喚起する声をかけることはできる。
「え? 香久――」
振り向いた弘瀬が、息を呑む。それは刃物を握り締めて己に向かってくる暴漢に対してか、もしくはそれが知った顔であったためか。
「か、河西――」
「弘瀬さん!」
急ぎ戻ろうとする比奈に向かって、並んだパイプが倒れ込む。
残念ながら、理人の運動神経は人並みだ。同じく人並みであるらしい河西に追いつけるだけの速さは出せない。
数日間の基礎訓練を行い、体を鍛え始めたからといって、劇的な変化など表れない。
(くそッ!)
それでも前のときよりは、体が動いてくれている感覚はあった。
しかし、間に合わない――
「騎士心得その一イィィ――!!」
瞬間、パイプを押し退け身を翻しつつの比奈が、ご近所に遠慮なく響き渡るような大音量で、腹の声からの声を発した。
「!?」
予想外、かつ意味不明な音の刺激に、弘瀬と河西はびくりと肩を跳ね上げ動きを止める。
だが発した当人である比奈と、その号令を訓練場で聞き慣れている理人は止まらなかった。
再度河西が動き出す前に、比奈は弘瀬を確保し河西の前に立ち塞がる。そして理人が辿り着き抑えにかかると同時に、自らも参加した。
まだ講習を受けただけに過ぎない理人と違い、比奈の動きに危なげはない。
凶器を持ったままの河西の手首を掴んで捻り上げ、武装を解除。それから流れるように背後へ回り、両腕を拘束しつつ地面に膝を着かせる。
「理人さん。警察に連絡をお願いします」
「分かりました」
うなずき、すでに個人番号が登録されている祈龍へと連絡をつける。事情を話せば、すぐに来るという確約が取れた。
「……くそ。あの無能が。無能なりに、しくじったなら大人しくしていればいいものを……!」
「自分では失敗すると思っていたから、貴方を使ったんだと思いますよ、河西さん」
俯き、怨嗟の呟きを零す河西に、理人は上からそう告げた。
「……なに?」
「だって、おかしいでしょう。谷坂さんが失敗したときに貴方が弘瀬さんを殺すなんて取り決めは、事前にはなかった。ですよね?」
「当たり前だ」
だから谷坂は、顧問弁護士を呼んで言伝を預けた。河西を脅すために。
「ではなぜ、谷坂さんは貴方を脅せたのか。正確には、脅せる材料を保持していたのか」
中途半端な状況証拠などではない。物証が必要だ。
そしてそんなものは、始めから手に入れるつもりで目算を立てていなければ、手の中に転がり込んでくるはずもない。
「それは自分の失敗を予感して、貴方という保険を掛けていたからに他ならない」
さすがに、わざと失敗したとまでは思っていない。谷坂は間違いなく、弘瀬を自分の手で殺したかったはずだ。もしすべてを河西に押しつける気なら、違う方法を取ったはず。
(いや、それとも。相原さんの二の舞になるのを恐れたか)
何しろ河西は――谷坂もだが、自分のために人を殺せる人間だと、互いに知っている。
「そんな身勝手な貴方方が、どういう経緯で谷坂さんが罪を被る契約になったんです?」
「捕まったほうが自白する、それだけだよ。罪から逃れられる可能性を見せてやったら、ほいほい食いつてきた」
唇を歪め、何とも醜悪な笑みを作る。
「相原も、馬鹿な奴だ。ここまで使ってやっただけで、むしろ私には感謝するべきだろう。なのに恩を仇で返す始末だ。人を脅しておいて、どうして殺されないなどと思うんだろうな?」
「まあ、それには同意します」
苦痛から逃れるためにそれしかなければ、理人もおそらく選ぶだろう。
その前に、脅されるようなことをするつもりはないので無縁だが。
「私は上手くやれる。上手くやったんだ。だというのに――」
「谷坂さんにとっては、それも渡りに船の提案だったでしょうね」
自らの身を顧みない狂気の差か。
結局、いい様に操られたのは河西の方であったのかもしれない。
「……」
さして関わりもない相手から自分が命を狙われるに至った理由を聞いて、弘瀬はしばし、信じられないものを見る目で河西を見ていた。
そしてややあって、疲れ果てたため息とともに視線を外し、理人と比奈へと頭を下げる。
「ありがとうございました、お二人とも。……でも、香久山さんはどうしてここに?」
「あ」
問われて、本来の目的であった届け物のことを思い出す。
「ええと、ですね。弘瀬さんが忘れて行かれたと思われる、スケッチブックがテーブルの上にあったので、お持ちしようと」
「あ!」
自分が忘れてきたことに今気が付いたらしい。口元に手を当てて、短く声を発する。
「……お持ちしたんですが、すみません」
走った分の距離を駆け戻り、地面に落としてしまったスケッチブックを拾う。ビニール袋に入っているのがせめてもの救いだ。
ぱっと見傷付いてはいなさそうだが、持ち物を手荒に扱われて嬉しい人間はいまい。
「配慮が足りませんでした。申し訳ありません」
むしろもう汚れてしまったと言えるビニール袋から中身を取り出し、謝罪する。
「いえ、とんでもありません。ただの着想ノートですから。こちらこそ、ご面倒をかけてすみませんでした」
受け取ったスケッチブックをバッグに仕舞い、弘瀬も頭を下げた。
「でも、理人さんが来てくれてよかったです! おかげで弘瀬様を怪我一つなく守り切ることができました!」
「そうでしょうかね……」
河西を組み伏せながらの笑顔――という、中々シュールな絵面だが、当人である比奈には気にした様子がなかった。笑顔にも一切曇りがない。
比奈が本心から言っているのは疑っていないが、理人自身は懐疑的である。
(比奈さん一人で、何とでもしたような気がする……)
そうして三人で待つことしばし。サイレンを鳴らしながら一台の車が到着した。
「現行犯逮捕、ですね。ご協力感謝します」
理人以外にも民間人がいるからだろう。祈龍の口調は猫を被ったそれだ。
(……成程。傍から見るとむず痒い)
「ええ。無事、終わりました。警察にはもう少し頑張っていただきたかったですが」
こうして、一般人である弘瀬が被害に遭う前にだ。これぐらいの嫌味は許されるだろうと、理人はそんなことを口にする。
……もちろん、相手は見てではあるが。
事実、祈龍は申し訳なそうに眉を下げる。
「返す言葉もありません。ですが、この先の安全は保障できると思います。殺人未遂の現行犯、相原桂華さんの死体遺棄。それと、河西フラワーガーデニングの税申告についてお話があります。――貴方にはもう、弘瀬さんを害する機会は訪れません」
そうとなれば、おそらく谷坂から証言が取れることだろう。
「……」
祈龍の言葉に、河西はがくりと首を落とした。
ここから先は、それこそ警察の仕事だろう。
あと願うことといえば――弘瀬に真の平穏が取り戻せることのみである。
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