起きてくれ、早那
恭子が病室を出てからもしばらくの間、俺は眠り続ける早那に昨日の出来事を語り掛けていた。
誕生日を祝う準備はしているから目覚めてくれ、と願いながら両親の計画しているプレゼントの話を聞かせていると、一瞬だけ俺が包む早那の左手に力が入ったような気がした。
突然の感触に思わず語り掛けるのをやめて、夏の暑さのせいで汗ばんできた手の平へ意識を移す。
今の感覚は気のせいじゃ、ないよな?
「早那、聞こえてるのか?」
「……おに」
早那が寝息ではない息遣いを漏らした。
俺は浮上しかけた早那の意識を繋ぎ留めるつもりで手を包む力を強くする。
「早那、戻ってきてくれ。主役がいないと誕生日を祝えないだろ」
聞こえているのなら、と望みながら呼びかける。
呼応するように早那の口が小さく開いた。
「おに……おにい……」
そこまで呼んで、早那のか細い声は途切れた。
もう少しだ。
今この瞬間を逃したら、次はいつ早那が意識を戻せるだろうか。
もしかしたら来年の誕生日までチャンスは訪れないかもしれない。
「お兄ちゃんはここにいるぞ。聞こえてるか、早那?」
必死の思いで呼びかける。
おにい、とまた早那がか細く声を出した。
もう少しだ、もう少し。
今を逃したら来年まで――俺が卒業した後まで意識を戻せないこともあり得る。
「一緒に朝ごはん食べて、一緒に家を出て、一緒に通学路を歩いて、一緒に学校に行こう……早那」
「お兄……ちゃん?」
俺から離れないように縋るような早那の声。
背中や、隣や、一歩前や、いろんな場所からたくさん聞いてきた早那の声。
早那を離してなるものか。両手で早那の手を包む。
手の中で早那の柔らかい手が強張った気がした。
「早那、俺に返事をさせてくれ」
「お兄ちゃん、どこ?」
さっきよりもはっきりとした早那の声。
自身の声で目覚めたように早那が目を開けた。
驚いたような、虚を憑かれたような、知らない世界にでも飛ばされたような、早那はそんな顔で視界に入った病室の天井を仰ぎ見ている。
「やっと起きたか。早那」
早那が目を覚ました!
感激で息が詰まりそうになりながら俺は呼び親しんできた名前を口にした。
呆然としている早那の目がこちらに向く。
俺を見た瞬間、心の底から安心したような笑みを浮かべた。
「あ、お兄ちゃん」
この声が聞きたかった。
片時も忘れなかった俺を呼ぶ早那の声。
「……遅いぞ」
「遅くなってごめんね、お兄ちゃん」
すまなさそうでも嬉しそうな微笑を見せてくれる。
どれだけ待ったことか。
毎日、毎日、早那が目覚めるのだけを願って過ごしていたんだ。
待ち続ける日々を思い返していると、目の前の早那の笑顔が段々とぼやけてきた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だ。ちょっと目にゴミが入っただけだ」
涙を見られたくなくて顔を伏せた。
ベッドの上でシーツの擦れる音がして早那が身じろぎしたのがわかった。
何か言おうとした時には、早那の左手を包んでいる両手にさらに柔らかい温もりが重なっていた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
早那の言葉を聞いて少しだけ目を上げると、俺の両手に早那の右手が置かれていた。
感謝されるようなことはしていない。
俺はただ早那の事が――
「お兄ちゃんの声が聞こえなかったら戻って来れなかったよ」
「そうか、そうなのか」
毎日の俺の行動はずっと早那に伝わっていたんだ。
熱い感慨が胸に溢れ、喉元まで嗚咽が迫りあがってくる。
でも嗚咽は我慢した。
代わりに表情を目一杯使った笑顔を早那に向ける。
「どういたしまして」
早那は俺の顔を見るなり明るい微笑を返してきた。
「お兄ちゃん泣いてる?」
「うるせぇ、言うな」
「そんな状態なら告白の返事はもう少し待った方がいいかな?」
口とは裏腹に俺の返事を期待するように上目遣いで顔を覗き込んでくる。
俺は目頭を押さえて眼球の潤みが引くのを待ってから、手を離して早那に向き直った。
「あの時の返事がしたい。聞いてくれるか?」
「うん」
早那は頷き、口元に笑みを残して俺の言葉を待つ。
これだけのことを言うのに長い時間が掛かってしまった。
心に留まっていた感情を口に乗せる。
「早那の事が好きだ。大好きだ」
えへへ、と早那ははにかみを混じらせて嬉しそうに破顔した。
早那の笑顔を見ていると、俺もなんだか幸せな気分になってくる。
「ねえお兄ちゃん?」
いつもより弾んだ声で、いつもの何かをお願いする声を発した。
「なんだ?」
「返事だけじゃ足りないな?」
悪戯っぽく言うと、目を閉じて少しだけ上半身をこちらに傾ける。
欲張りだな。
片手だけ早那の手から抜く。
自分の脚がスツールを倒した。
空いた片手は早那の後頭部へ誘われる。
スツールの倒れる音に気が付いたのと同時に引き寄せ、自分からも近づけた。
いつも間にか目を閉じていて、早那の唇の温もりが自分の唇に触れていた。
今までの中で最も早那の体温を感じられる。
早那とキスしてる――
少しだけ冷静になった頭で状況を理解した。
互いに包んでいた手の指を自然な流れで絡めていく。
早那の唇ってあったかいんだな――
幸せな気分が胸の中で満ちていく。
今日から早那と俺は――
充足感を噛みしめていると、突如病室のドアが開いた。
急な物音に俺と早那はびっくりして、互いに背筋を伸ばして顔の距離を取る。
誰か入ってきた!
「輝樹、水買ってきてあげたわよ」
恭子だ。
悪いことはしていないのに、何故か早那と密接している今の状況を見られてはいけない気がしてきた。
「どうしよお兄ちゃん?」
早那は困惑気味に俺に指示を乞う。
どうしよ、と縋るような顔で言われても。
「輝樹、もしかして寝てる?」
返事をしなかったからか、恭子が尋ねながら仕切りのカーテンに手をかけた
あ、やばい。
俺は慌てて早那と絡めていた指を離し、一瞬宙に彷徨わせてから両手で顔を覆った。
質問されたらどう説明すればいいんだ、この格好。
誤魔化しが思いつかないうちにカーテンが開けられる。
「早那ちゃんの前で寝ちゃうなんて珍し……」
恭子の声が止まった。
バレてるかな?
「それ寝てないわよね」
俺の説明しづらい姿を見て怪訝そうに言った。
恭子が勘付く前に何か動作を入れないと。
「うっ、うっ、早那が目覚めた」
俺は感動の嗚咽を漏らしているフリをした。
我ながら演技が大根だな。
しかし意外にも恭子から追加で問いかけが返ってくることはなく、言い様のない沈黙が降りる。
「きょ、恭子さんこんにちは」
かろうじて絞り出したような早那のぎこちない声が沈黙を破る。
うっ、ううっ。
次の瞬間、俺ではない嗚咽がすぐ近くから聞こえ始めた。
演技をやめて嗚咽に聞き耳を立てると、しゃくりあげるような嗚咽の中に恭子の呻きが混じっているのがわかった。
「さ、早那ちゃん。うっ、ぐずっ、早那ちゃん、ううっ」
恭子に目を向ける……泣きじゃくっている。
「そんな、泣かないでください」
困った声で早那が泣き止ませようとする。
それでも恭子のむせび泣きは止まらず、しゃくり上げる度に俺の背中を水のたくさん入ったペットボトルで叩く。
「早那、ちゃんが、起きた、なら、ぐずっ、教えなさい、よ、うっ、輝樹の、ばかー、うぐうっ」
「痛い、叩くな」
なんで俺が叩かれなきゃいけないんだ。
「早那ちゃんが、目覚めた時、立ち会いたかったぁ」
ペットボトルで叩く手を止めずに思いの丈を吐き出す。
俺を叩かなくても言えるだろ。
そう思いながらも泣くじゃくる恭子を止めるのは気が引けて叩かれていると、恭子は突然にペットボトルを背中に当てたまま動きを止めた。
殴打が急に鎮まり、かえって戸惑い恭子の方へ振り向く。
恭子は顔を伏せていた。
だがその顔が涙のせいでぐちゃぐちゃになっているのは想像に難くなかった。
「叩かないならペットボトルを退けてくれ」
ペットボトルの触れている部分が制服越しにひんやりする。
水滴が制服に浸み込んでいるのだろう。
「あたし、顔洗ってくる」
恭子はそれだけ告げると、表情を見せないままペットボトルを俺の肩に置いて病室の外へ出ていってしまった。
恭子があんな泣きじゃくるとは思わなかった。
肩に置き残されたペットボトルがバランスを失い、俺の腹に当たってベッドに落ちる。
「お兄ちゃん、水落ちたよ」
早那がペットボトルへ手を伸ばす。
掴みかけてから、あっと声を漏らしてペットボトルを取り落とした。
びっくりした顔で早那はペットボトルを掴みかけた手を見つめている。
「どうした早那?」
尋ねると、不安を覗かせた目を向けてくる。
「ペットボトルがすごく重たい」
「これがか?」
ベッドの上に横倒しになっているペットボトルを指差すと、早那は弱々しく頷いた。
「私ってこんなに力なかったかな?」
ああ、なるほど。
早那の理解に困った顔つき見て俺は思い出した。
自身の手を不安そうに見つめる早那に笑い掛ける。
「当分の間はリハビリかもな」
「リハビリ?」
信じられないという顔で早那は聞き返してくる。
ずっと眠っていたから筋力が衰えているのだろう。
俺も事故前の筋力まで戻すのは大変だったからな。
「そうだリハビリだ。体力がある程度戻るまでは退院できないぞ」
「え、じゃあお兄ちゃんと離れ離れ?」
退院できないと聞いた途端に早那の表情が寂しそうに曇る。
そんな顔しないでくれよ。
早那を安心させるために言葉を継ぐ。
「心配することはない。毎日会いに来るから」
「……ほんと?」
念を押されて頷くと、早那は満面で破顔した。
「やった。お兄ちゃん大好き!」
俺も早那の事が大好きだよ。
口にはしなかったが、早那の事だから伝わっているはずだ。
夢の中でさえも通じ合えていたのだから。
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