恭子の追憶2

 年月は経ち、恭子と輝樹は中学三年、早那が中学一年の時のことだ。

 この頃の恭子は輝樹への恋心を自覚しており、輝樹に異性として見てもらおうと陰ながら努力していた。

 髪の清潔さや質感、喋り方、体型管理まで、自分の目指す可愛い女の子になるために、果ては輝樹に好きになってもらうために余念がなかった。

 それでも相変わらず輝樹には友人感覚でしか扱ってもらえず、中学三年生の年度も十月を迎えていた。

 本格的に受験が近くなれば輝樹が恋愛云々を考えなくなってしまうかも、と危機感を抱いた恭子は行動に移ることにした。

 受験前最後だと言って輝樹を遊園地に誘ったのだ。

 デートしたい、とは言い出せなかったが輝樹は恭子の我がままに付き合ってくれた。

 少々振り回し気味だったものの恭子は幸せな時間を過ごし、楽しい気分のまま告白と算段しながら帰りの電車に揺られ最寄り駅に着く。

 家まで着くまでに告白、と恭子は決心したが駅の外は恭子の想定にはない雨だった。


「やだ、雨が降ってる」


 エントランスから覗いた駅の外では、鈍色の空の下で傘を差した人々が行き交っている。

 隣に立つ輝樹は存外に困っていない顔つきで駅の外の雨を眺めていた。


「夕方ごろから曇ってきてたからな。家に着くまでは降らないで欲しかったけど」


 突然の雨なのにやっぱり輝樹は落ち着いてるな。

 輝樹の横顔を見ながら乙女心がときめく。

 恭子は輝樹の持つ自分にはない冷静さにも惹かれている。

 いつからか自分よりも上の位置にあるようになった輝樹の横顔を見ながら、恭子は良い考えを思いついて少し悪い子になった気分で輝樹の肩をつついた。


「輝樹、ちょっと考えがあるんだけど」


「なんだ?」


 せっかく二人きりだから雨を理由にこれぐらい望んでもいいよね?


「雨が止むまでここで待ってようよ。雨に濡れてまで帰らなきゃいけないわけじゃないでしょ?」


 その考えもアリだな、とか、恭子が言うなら雨宿りするか、とか、そんな返答を期待していた。

 しかし輝樹の口が開いて出てきたのは全く予想しない言葉だった。


「折り畳みの傘があるんだが、使うか?」

「……え?」


 恭子が答えに詰まっている間に、輝樹がボディバッグから紺色の折り畳みの傘を取り出した。

 使うか恭子、と繰り返し恭子の返事を求める。

 恭子は思惑通りいかず戸惑った目で輝樹と彼の手にある折り畳みの傘を見つめた。


「ちょっと待って、なんで傘持ってるの?」


 傘を持ってたら雨を理由に一緒に雨宿りできない。

 目の前の傘を手にしたら、この先告白のタイミングは長い間おあずけにされる焦燥が恭子の胸を覆った。

 恭子の心情など知らぬ様子で輝樹は真顔で言う。


「なんでって出掛ける日の天気は確認するもんだろ。夕方ぐらいから雨が降る予定だったから一応持ってきたんだ」

「あ、あはは。そうよね。天気予報は見ないといけないよね、自分から誘ったのに天気なんて確認してなかった」


 輝樹の前で恭子という人物像を保つために陽気さを装って苦笑した。

 何やってるんだろ、あたし。

 ちゃんと傘を持ってきていたら輝樹に気を遣わずに一緒にいられたのに。

 ファッションとか髪型とか気にする前に天気に注意しておくんだった。

 迷惑掛けてばかりじゃ好きになってもらうなんて無理だよ。


「どうした恭子。考え事か?」


 輝樹の声にはっとして顔を上げた。

 いつの間にか俯いて考え込んでいたらしい、顔を上げると昔から見てきた輝樹の様子を伺うような視線と目が合った。

 恭子は慌てて自嘲的になる気持ちを誤魔化してなんでもない顔を作る。


「大したことじゃないのよ。雨に濡れるの嫌だな、と思って寒いだろうし」

「濡れるの嫌ならこの傘使っていいんだぞ。最近買い替えたばかりの新しい傘だし、サイズも男性用だから恭子なら余裕で入る」

「え、でも、輝樹はどうするのよ?」


 遠慮を見せるのが今の恭子に出来る輝樹への気遣いだった。

 輝樹は傘を引っ込めないまま気軽に笑い掛けてくる。


「俺は、どうしような。早那にでも傘を持ってきてもらうか?」


 早那ちゃんが来たら告白の機会がなくなっちゃう。

 輝樹の何気ない一言に恭子は焦った。

 あたしよりもずっとずっと可愛い早那ちゃん。 

 可愛い早那ちゃんを前にしたらあたしなんて振り向いてもらえなくなる。


「恭子。どうするんだ?」


 恭子が黙っているからか、輝樹が柔らかい口調で返答を催促する。

 無理して笑顔を作り言葉を返そうとしたところで、エントランスの外に見覚えのある少女の気配を感じた。


 お兄ちゃんいた――。


 恭子も聞きなれた声。

 え、待って。

 声のした方向を見ると、エントランスの外に水色の傘を頭の上に広げて紺色の男物の傘を片手に携えている早那が立っていた。


 早那ちゃんがどうして、ここにいるの?


 疑問を抱いてから紺色の傘の意味合いに気が付いた。

 輝樹のためにわざわざ傘を持ってきてあげたんだ。それも輝樹が頼むよりも先に。

 答えに行き着いた途端に、いつかに感じた敗北感が胸に迫ってくる。

 あたしは早那ちゃんに勝てない。

 デートに浮かれて当日の天気さえ確認しなかったあたしが、輝樹に好きになってもらえるわけがない。

 恋心が敗北を目の前にして震えている。

 恭子は恐る恐る輝樹の顔を覗く。

 早那を見る輝樹の顔には恭子に向けたことがない微笑みが浮かんでいた。


 そんな嬉しそうな顔するんだ。


 自分の前では見せたことない輝樹の表情を目の当たりにして、恭子は心臓にズシリと重いショックを受けた。

 辛さから逃げるように右側の壁に貼られた痴漢撲滅のポスターを眺める。

 視界の端で早那が傘を閉じて近づいてくるのが見えた。

 早那が兄の隣に立つ恭子を見つけて申し訳なさそうに眉を曇らせる。


「恭子さんも一緒だったんですね。お兄ちゃんの分しか持ってきてません」


 気にするな、と輝樹が早那を慰めた。

 早那と話す時の輝樹の笑顔が恭子には痛い。


「恭子と一緒だってこと早那は知らないからな。仕方ない」

「でも傘がないと恭子さんが濡れちゃうよ?」

「大丈夫だ。ほら折り畳みの傘を持ってるから全部で三人分あるだろ?」


 早那に折り畳みの傘を見せながら輝樹が言った。

 そうだね、と早那が笑顔で納得して、恭子にまだ少し雨水が滴る水色の傘の柄を差し出してくる。


「恭子さん、私のでよければお貸しします」


 兄妹揃ってお人好しだ。

 血は繋がっていないはずなのに優しさがそっくりな二人の間に、あたしが入る余地なんてないよね。

 それに輝樹も気遣いもできないあたしより、親切で気も利いて可愛い早那ちゃんの方を選ぶに決まってる。

 可愛い早那ちゃんがいるのに、あたしなんかを好きになってくれるはずがないよね。

 確信に近い思いで恭子は自身の恋心の終幕を感じた。

 傘を差し出してくれている早那に、頑張って顔に貼り付けた遠慮の笑みを返す。


「その傘は早那ちゃんのだから早那ちゃんが使って。あたしは雨に濡れてもいいから」

「え、でも」

「傘を持ってきてないあたしが悪いんだから自業自得」

「恭子さんが濡れちゃいます」



 心配する早那の肩に輝樹が制するように手を置く。


「早那が恭子の事を気に掛けることはない」


 そうだよ早那ちゃん。

 あたしの心配なんかより輝樹のことだけを気にしていればいいんだよ。

 諦観に似た思いで兄妹のやり取りを眺める恭子の前に、水色の傘と入れ替わりに紺色の傘が差し出された。


「もともと俺が傘を貸すつもりだったんだ。恭子には俺が貸すから早那が貸すことない」


 どんだけお人好しなのよ。

 せっかく持ってきたのにお兄ちゃんが貸すことないよ、と早那の方も引き下がらない。

 自身の傘を貸す権利を譲らない仲良し兄妹。

 埒が明かない、と恭子は思って輝樹の手から折り畳みの傘を奪い取った。

 突然折り畳みの傘を掠め取られてびっくりする輝樹の顔に向かって、恭子は得意げに笑い掛ける。


「雨が凌げれば傘なんてなんでもいいの。人数分あることだし帰りましょ?」


 恭子の言葉を聞いた輝樹と早那が顔を見合わせる。

 仲良し兄妹の返答を聞くよりも先に、恭子は出入り口に足を向けながら折り畳みの傘を広げ始める。

 大人用の骨組みの頑丈な傘だ。


「この折り畳み、結構しっかりしてるわね」

「そうか? 折り畳みを何本も使ったことないから比較できないんだが」


 恭子の意味のない感想に、輝樹がわざわざ受け答えて恭子の後を追って黒色の傘を広げる支度をする。

 早那も兄を追いかけるように着いてきた。

 普段からそうしているように輝樹と早那が肩を並べる。

 早那ちゃんが相手なら諦めもつくな。あたしなんかよりずっと可愛いから。

 輝樹と喋る早那の一挙手一投足を見つめながら恭子は身を引く覚悟を決めた。

 さっさと兄妹の線超えちゃえばいいのに。

 兄妹以上の飾らない仲の良さを纏う輝樹と早那に、そんなお節介な願望さえ抱いた。

 滲み出てきそうな悔し涙は無理やり抑え込んで。

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