恭子の追憶1
早那が寝ている病室の前の廊下で、恭子は細目に開けたドアにもたれたまま輝樹の声を聞いていた。
敵わないな、ほんとに。
早那に語り掛ける輝樹の優しく落ち着いた声を聞くたびに、恭子は自分の立場に妥協を感じてしまう。
早那ちゃん可愛いからな。
恭子は身を引く理由として何度も胸の中で呟いた言葉を、今もまた呟いた。
恭子が初めて早那と出会ったのは、輝樹と恭子が小学四年生、早那が二年生の頃だ。
「てるき、誰この子?」
いつも何人かの同級生が遊んでいる公園に、ある日輝樹が恭子の見知らぬ女の子を連れてやってきた。
恭子は輝樹が連れてきた自分よりも背が小さい年下の女の子を見て、輝樹に年下の友達なんていたかなぁと疑問を覚えた。
輝樹が真顔で告げる。
「妹」
聞いた瞬間、恭子は自分を驚かすために冗談を言っているのだと思った。
騙されてたまるか、と輝樹へ余裕の笑みを返す。
「ウソ言っちゃダメだよ。てるきに妹なんていないよ」
「新しく出来たんだよ」
輝樹の返答に恭子はポカンと口を開けたまま黙ってしまった。
どういうこと?
妹って新しく出来るものなの?
恭子の呆然とした表情を見てか、輝樹が説明を続ける。
「妹と言っても血は繋がってないんだ。新しく出来た父親が連れてきたんだ」
「それ妹って言うの?」
大人の事情などさも知らないこの時の恭子には、輝樹の置かれている家族関係が理解できなかった。
恭子にわかってもらいたいのか、輝樹はなおも説明を続ける。
「正確には義妹って言うんらしいんだが、とにかく妹には変わりない」
こうして輝樹の話がしている間中、新しく出来たらしい輝樹の妹は輝樹の背中から顔を覗かせて恭子の事を緊張した顔つきで見つめている。
あたしのこと怖いのかな?
いくら小学生でも二年生の子からすれば、四年生は身体が大きくて恐ろしいものだ。
恭子は輝樹の妹の恐怖心を和らげてあげようと関心を注ぐ。
「ねえてるき、この子名前なんて言うの?」
「さな」
短く輝樹は答えた。
さな、と恭子は復唱する。
「そう、さな。時間が早いっていう早に母さんが言うには那須の那」
「女の子なのに速いって漢字使ってるんだ。なんかカッコいいね」
珍しい名前だな、と思った。
だが輝樹に呆れた顔をされる。
「おい恭子、足が速いの速いじゃないぞ」
そう言いながらしゃがみ、近くに落ちていた小枝で地面に漢字を書いた。
早那。
「これで那って読むんだね。勉強になる」
「三日後には忘れてるだろ」
「ひどいてるき。あたしだって人の名前ぐらいちゃんと覚えるわよ」
「自分の恭っていう漢字、よく点の数がわからないって俺に聞いてくるだろ」
「これぐらい簡単なら覚えられるわよ」
ムッと怒った顔を輝樹に見せる。
それもそうだな、と輝樹は恭子の主張を認めて背後に縋る早那に目を向けた。
「ほら早那。こいつが恭子だ」
「お兄ちゃんの……友達?」
安心を得ようとするように早那が尋ねる。
そうだな、と輝樹は答えた。
「俺の友達だから怖がることないぞ」
「うん」
輝樹の言葉で緊張がほぐれたのか、早那が輝樹の背中から離れて恭子の前にゆっくりと出てくる。
可愛い子だなぁ。
恭子は早那の容姿をさらに近くで見て感嘆した。
大きな瞳に幼いながらも整った目鼻立ち、ピンクホワイトのワンピースから伸びる細い手足。
自分が同じ歳の時、こんなに可愛くなかった気がする。
近頃になって恭子の中で増してきた女の子としての自覚が、早那を前にすると負けた気分を抱かせた。
輝樹は恭子に友好的な笑みを向けてくる。
「恭子、よかったら早那と仲良くしてやってくれ」
「いいよ。仲良くする」
輝樹のお願いに頷き、早那に視線を戻す。
上目遣いに自分を見てくる早那に恭子は笑い掛ける。
「あたし内村恭子、よろしくね」
よろしくお願いします、と早那は礼儀正しくお辞儀をする。
恭子は持て余し気味に苦笑した。
「頭を下げてちゃんとしなくていいんだよ。ほら一緒に遊ぼう」
硬い物腰の早那の心を柔らかくしようと手を差し出した。
しかし早那はびっくりした目で恭子の差し出した手を見つめる。
「あ、ええと……」
「あれ?」
手を握り返してくれると思っていた恭子は、早那の戸惑った反応にかえって自身も困惑してしまった。
輝樹が早那の肩に手を置いて微笑む。
「早那。俺も一緒だから安心しろ」
兄の輝樹が言葉を掛けると、早那はホッとしたように表情を緩めた。
早那へ向ける輝樹の笑みと声音がとても優しかった。
もうそんなに仲良いんだ――
一緒に遊ぶ、なんてあたしは輝樹から言われたことないのに。
なあ恭子、と輝樹が尋ねてくる。
この時はまだ自覚はなかったが女心のジェラシーが芽生えかけていた恭子は、自分に話し掛けてきたのかとわざと遅れがちに輝樹へ向き直った。
「なに、てるき?」
「さっきまで何してたんだ。早那も入れて出来る遊びか?」
「サッカー」
答えると、輝樹の顔はまた早那の方へ向く。
「早那はサッカーわかるか?」
早那は首を横に振る。
残念そうな様子もなく輝樹は頷き、恭子に苦笑いする。
「早那でもわかる遊びにしないか恭子」
恭子は内心で腹が立った。
早那ばかりを優先する輝樹、輝樹に優しくされている早那、どちらも気に食わない。
「二人で遊べば?」
思いついたまま言い放っていた。
輝樹が意外そうな顔で見返してくる。
「もしかして怒ってる?」
「ちょっと。あたしサッカーやりに来たのにサッカーできないの嫌だもん」
わがままな言い方をすれば輝樹が折れてくれることを知っていたからこそ、恭子は頑固に主張した。
輝樹が眉根を寄せて悩んだ表情で恭子の顔をじっと眺める。
お兄ちゃん、とその時早那が声を出した。
輝樹の服を引っ張って何か言いたそうに輝樹を見ている。
恭子に向いていた輝樹の目が早那に移る。
「どうした早那?」
「わたし、お兄ちゃんと一緒なら私はサッカーでもいいよ」
「わからないなら無理にサッカーをやることないぞ?」
「お兄ちゃんが一緒なら気にしない」
「そうか」
輝樹は微笑みかけた。
恭子の方へ目を返して嬉しそうに言う。
「早那もサッカーでいいってさ。俺と早那も混ぜてくれよ」
「早那ちゃんってサッカーできるの?」
ルールも知らない人が入っても他の友達の顰蹙を買うだけだ。
そう思って恭子は念のために尋ねた。
輝樹が早那の肩に手を置いて答える。
「俺と早那で一人分だ。それなら俺が教えながら早那も出来るだろ?」
「いいのかな?」
二人を一人分として扱い遊びに参加させたことはなく、恭子は他の友達が提案を受け入れてくれるのか自信がなかった。
入っていいかみんなに聞いてくる、と恭子は言って一旦輝樹と早那を置いてサッカーを中断している友達のもとへと向かった。
この日以来早那の遊びに付き合うようになったのか、輝樹が公園に来る頻度は減った。
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