五章 本当、ホンモノ

聞いてくれるか、早那

 三年生の新学期がスタートして一か月ほど経った頃、俺は五月の連休後に入院生活を終えて復学した。

 クラス替えの時に不在だったので、復学当初はクラスメイトとの関係に不安を覚えたが、一年生の時からの友人が気を回してくれてすっかりクラスにも馴染み、学校での心配事がほぼなくなって早くも六月の中旬を迎えた。

 ただ未だに目覚めない早那の事を思うと、授業中であろうと上の空になってしまう。

 四月から同校の生徒として通うはずだった入江早那の兄として教師たちも俺に気を遣っており、授業中の散漫を厳しく咎められたことがないのは幸いだ。

 そんな空虚な日々の中で俺が出来るのは、毎日早那に会いに行くことだけだった。

 今日もこうして放課後すぐに帰り支度をして、病院へ向かうためまだ人の少ない昇降口で靴を履き替えている。

 履き替えて昇降口を出ようとしたところで、後ろから走り寄ってくる足音が聞こえた。


「待って輝樹!」


 ああ、この声は。

 予想通りというか、俺が帰るときにまで呼び止める奴なんて一人しかいない。

 足を止めて振り返ると、飽きるぐらいにその姿を見てきた幼馴染が一歩後ろで膝に手をついていた。


「帰るの早すぎだよ、輝樹」


 恭子は俺を詰りながら膝から手を離して、大きく呼吸して息を整える。

 他のクラスメイトは俺に遠慮して遊びにも誘わないのに、恭子だけは以前と距離感が変わらない。

 恭子が早那の事をすごく心配しているのは伝わってくるので、あまり突き放すこともできない。


「早那ちゃんの見舞いでしょ。今日はあたしも行く日だから」


 息を整えた恭子が宣言するように言った。

 恭子は何故か俺のように毎日ではなく週に三日ぐらいの間隔で早那へ会いに行く。

 もちろん恭子には恭子の都合があるので理由は聞かないでいたが、二カ月も同じスパンを続けているとなると気になってくる。


「なあ恭……」

「行くならさっさと行くわよ」


 俺には早すぎると言っておきながら、俺が話し掛けると急いで靴を履き替えて昇降口を潜っていった。

 まあ、歩きながらでもいいか。

 すぐ恭子に追いつき並んで学校を出た。



「輝樹、早那ちゃんはどう?」


 早那の入院する病院へ向かう道すがら、書店を通り過ぎた辺りで恭子が聞いてきた。

 恭子らしい抽象的な問いかけだ。


「どうって具体的に何が聞きたい?」

「何か変化があったとか、体調の方はどうなのか、とか」


 早那の健康状態を気にしてるのか。


「髪がだいぶ伸びたな。それと点滴だけだからだいぶ痩せた」

「変化はなかった、とは言わないのね」


 俺の返答に満足したように恭子が笑顔を見せる。

 些細な変化にも気が付くぐらい俺の関心は早那に傾いている。

 身を入れ過ぎだと思う時もあるが、早那が心配でどうせ他の事には手がつかないのだから気にしていない。


「ま、とりあえずどこも悪くなってないのならよかった」


 恭子は話題を打ち切るようにそう言った。

 話が途切れても俺の方から話すことは今更ない。

 病院前のバス停留所を通り過ぎた頃、恭子が再び口を開いた。


「早那ちゃん、今どんな夢見てるんだろうね?」


 弾むような声で恭子が尋ねてくる。

 どんな夢、か。


「楽しい夢だったらいいけどな」

「そりゃそうよ。もしも神様がこれ以上早那ちゃんに悪夢を見せるなら、あたしが悪夢を見せている神様を成敗してやる」

「そんな神様いるのか?」

「知らないわよ。でもいたらっていう話。成敗する時は輝樹も手伝ってよ」

「本当に存在すればな」


 恭子と会話をしながら神様を成敗すれば解決という物語的な安易さを羨ましく感じてしまった。

 神様を成敗するだけでハッピーエンドが迎えられるならどれほど楽だろうか。

 しかし現実には誰も責めることができないし、悪夢を見せる神様もいない。


「そういえば、輝樹の見た夢の中にあたしが出てたんだよね?」


 夢の話題になったからか、恭子が思い出したように話を振ってきた。

 目覚めて間もない翌日に病院に見舞いに来てくれた恭子に、俺が早那に見せてもらっていた夢の詳細を打ち明けた。

 その時は不思議そうな顔をして聞いていた恭子だったが、今見る横顔には優しい真実を知ったような淡い笑みを浮かんでいる。


「もしも早那ちゃんが輝樹と遊びたいだけだったら、あたしをわざわざ夢に出す必要はなかったでしょ」

「早那は恭子とも遊びたかったんだろ」


 俺はそう思っている。

 しかし恭子の顔は違うと言っているようだった。


「あたしは早那ちゃんがあたしに遠慮したんじゃないかって思ってる」

「遠慮?」


 恭子に何を遠慮することがあるのだろうか?

 毎日会いに行っても、俺は早那の本音までは未だに察することができないらしい。


「ほら、早那ちゃんって人が良いから」

「それは否定しないが、どうして早那の人が良いことと夢に恭子が出てきたことが結びつくんだ?」


 尋ねると、呆れと苦笑の混じった顔で横目にこちらを見た。


「輝樹に気づいてもらおうとしても無理だから諦めてるけどね」

「何に気付けって言うんだよ」


 言い返すと恭子は人差し指を口の前で立てた。

 もう片方の手で病院の入り口の自動ドアを指差す。


「ほら病院の中では静かにね」

「はぐらかす気か?」


 俺の問いかけを無視して自動ドアを潜り、恭子は受付の方へ逃げるように足早に歩いていった。

 また鈍感だと言われるのか。

 一だけ話して十までは言わない恭子に嫌味を覚えながらも、俺の関心は病室にいる早那へと移る。

 恭子と揃って受付を済ませて、すぐさま早那のいる病室へ向かった。

 病室に入るとすっかり鼻が慣れてしまった消毒液のような匂いを感じた。

 仕切りのカーテンを開けてベッドで静かに寝ている早那を見つめる。

 通い始めた初日から変わらず早那の顔には苦しみも楽しさも浮かんでいない。


「代わってあげられるなら代わってあげたい」


 恭子が切なげに呟く。

 それは俺だって同じ思いだ。

 しばらく恭子は早那を見つめていたが、ちらと俺の方へ視線を寄越す。


「あたし少し部屋から出てる。ある程度経ったら戻ってくるから」

「ああ」


 生返事でも恭子は微笑み、じゃあねと早那に手を振って病室を出ていった。

 俺と早那を二人きりにしてあげよう、という恭子の計らいなのだろう。

 無神経に見えて案外気を遣えるんだよな。

 恭子の計らいに感謝しながら、早那のベッド脇に置かれたスツールに腰掛けた。

 布団を少し捲り、早那の左手だけをベッドの外に出してそっと握る。

 目覚めた時に早那が握ってくれていたように。


「……早那」


 俺は語り掛ける。

 もしかしたら聞こえているかもしれないから。


「今日から模試の準備期間なんだよ」


 本当だったら早那も共有できていたはずの学校の話題。


「現代文の出題範囲がややこしくてさ、勉強しようにもやり方があってるのか不安だよ」


 模試の事や――


「数学の教師に福島っていうのがいるんだけど、その教師の出身地が山形県なんだ。そこは福島にしとけよって思ってさ」


 教師に関する取るに足りない笑い話や。



「体育のサッカーでさ、二回もゴールアシストしてるのに誰も気づいてくれないんだよ。ひどいだろ」


 他愛無い愚痴。


「昨日、父さんの仕事場でトラブルがあったらしくてさ。この前話した天然な新人がまたやらかしたんだってよ」


 父さんから聞いた会社での話。


「母さんが卵を買い忘れちゃってさ。それも安売りの日に限って。しばらく卵料理は食べられないかもしれない」


 母さんのちょっとした失敗談。


「期間限定で駅前にパフェの屋台が出てるんだよ。有名店らしいから早那が起きたら俺の奢りで食べに行こう」


 早那が好きなスイーツの話。

 学校や家族などの楽しい話題をいろいろと聞かせていると、病室のドアが開いて誰かが入ってきた。

 入室してきた人物が仕切りのカーテンの前に立ち、俺が話をやめると同時にカーテンが開いた。

 そこには仕事帰りでスーツ姿の父が立っていた。


「輝樹。邪魔して悪いね」


 早那のベッドの傍に俺を見つけ、父が微笑みかけてくる。

 父は俺ほど長い時間ではないが仕事帰りに早那の見舞いに訪れる。しかし面会時間ギリギリになることもほとんどで、顔だけ見ては俺を連れて帰ることの方が多い。

 だが今日はいつもより父が見舞いに来た時間が早い。


「定時に上がれたんだ。面会時間の終了まで今日は余裕があるね」

「父さんだけか?」


 残業がない日は母さんも連れて見舞いに来ることが多いが、近くに母の姿は見えない。

 父は病室のドアを指差す。


「母さんなら恭子ちゃんと話してるよ。たぶん輝樹の事を聞いてるんじゃないかな?」

「俺のこと?」


 親に心配を抱かせるようなことはしていないはずだが。

 聞き返した俺に父は苦笑いを向けてくる。


「輝樹は毎日病院に通っているだろう。だから学校サボってまで来ていないか気にしてるんだと思う」

「学校にはちゃんと行ってるよ。早那が復学した時に兄の俺が不登校の常連扱いされていたら嫌だろうからな」

「そういう理由で行くものじゃないぞ学校は」


 笑いながら俺に釘を打つ。

 早那と手を繋いだまま父と喋っていると、病室に再び足音が入ってきた。

 近づいてくる話声からして恭子と母だとわかる。

 母と並んで入ってきた恭子が、早那から俺に視線を移して口を開く。


「どう輝樹。早那ちゃんに伝えたいことは伝えた?」

「ああ。伝えたよ」


 早那は俺の話を聞いてくれたのだろうか?

 ただ一方的に喋って煩がられていないだろうか?

 ちゃんと伝わってるわ、と母が俺の心の中を読んだように呟いた。

 俺が目線を向けると母は口元を綻ばせて笑みを浮かべる。


「早那もきっとお兄ちゃんの話が聞けるのを楽しみにしてるはずよ。毎日毎日ありがとうね輝樹」


 俺の行動を肯定するように感謝を述べる母。

 照れ臭くて俺は首を横に振った。


「勝手に来て勝手に喋ってるだけだ。早那も飽きてるかもしれない」


 学校での出来事などそれほど新規の話題が多くない。

 段々と新しいエピソードがなくなっているのが早那に悪い気がしている。

 そんなこと気にしてたの、と恭子が呆れた顔をする。


「別に早那ちゃんは話の内容なんてなんでもいいと思ってるはずだけどな。輝樹の話を訊けるだけで嬉しいはずだから」


 俺の不安を察したような恭子の言葉。

 そうであってくれると助かるけどな。

 俺のつたない談話でも早那には笑顔でいて欲しい。

 それが暗闇の中だろうと、俺の声が聞こえているのなら悲しい顔をさせたくはない。俺は早那の笑顔を見るのが好きだから。

 そういえば、と父が唐突に口に出した。

 俺、恭子、母の視線を集めた父がそれぞれに視線を返してくる。


「四人も面会で揃うのは初めてじゃないか。せっかくだし今日は面会時間の終わりまで皆でここにいよう」


 父の提案に母と恭子が表情を緩めた。

 俺も自然と頬の筋肉が緩くなる。


「早那も賑やかな方が楽しいでしょうから」

「輝樹のお母さんの言う通りだね。目覚めた時に賑やかな方が早那ちゃんも喜ぶよ」


 母と恭子が口々に言う。

 みんな待ってるから早く戻ってきてくれ、早那。


 ――戻ってきたら告白の返事をするから。


 ベッドの早那を見つめる両親と幼馴染の姿を眺めながら、早那の手を握る力を少しだけ強くした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る