早那のこと嫌いなの、お兄ちゃん?

 薄暗く目に痛くない常夜灯だけが灯った廊下を進み、二階へ降りる階段を下る。

 部屋を出る前に自販機コーナーの位置を確認してくるのを忘れて、進み方向が合っているのかうろ覚えだ。

 自身の迂闊さを嘆きながら自販機の光を見落とさぬように周囲に目を配る。

 角を三回ほど曲がったところで通路の奥に自販機らしい明かりを視界に捉えた。

 ようやく喉を潤せる。


「水、水……うん?」


 水分を渇望して近づいていくと、何故かはわからないが自販機がかげろうのように揺らめいているように見えた。

 思わず足を止めて、目を凝らしたり瞼を擦ったりして視界を直そうとする。

 しかし何度見ても自販機は僅かに歪んでいるように思えた。


「目がおかしくなったのか?」


 自身の眼球に異常でも起きたのかと心配になったが、喉の渇きに負けて不可解を不可解のままにして自販機の方へ踏み出そうとした。

 だが足はそれ以上先に踏み出せなかった。

 見えない壁のようなものに当たって足がつっかえている。


「は?」


 足に力を入れて押し込もうとするも見えない壁はビクともしない。

 そもそも見えない壁とは何なのか?

 疑問に感じ足を降ろして見えない壁らしきものに手を出してみる。

 見えない壁のようなものに触れると手が沼のように入り込み、手を差し入れた部分だけ空間が歪んだ。


 なんじゃ、こりゃ?

 非現実的な事象に愕然としながら手を引っ込める。


「なんだ。なんだこれは?」


 俺はまだ夢の中にいるのだろうか?

 現実でないなら空間の歪みはあり得る話だが――

 これが夢の続きであることを願って、自身の頬を強くつねった。

 頬を手から離すとじんわりと頬に痛みが広がっていく。

 それでも痛みは現実的で、目の前のかげろうのような揺らぎは変わらない。


「どうなってるんだよ?」


 経験したことのない状況に困惑の声が漏れる。

 やっぱり夢としか考えられない。ということは、俺はまだ寝ているのか。

 誰か、起こしてくれないか?

 どこの誰でもいいから寝ている俺をはたき起こして欲しかった。

 夢からまだ覚めてないのかな?

 何をすれば夢から覚めるのだろうか?

 得体のしれない恐怖心がさらに喉を枯らす。

 喉の渇きに現実味がありすぎて、あまり夢という感じがしない。

 再度、自販機の方へ踏み出そうとしてみたが前には進めない。


 他のルートは?


 この夢の世界が迷路のような遊びであるなら、自販機へ行く他の道のりがあるのかもしれない。

 この非現実を迷路という解釈で受け入れてホテル内を歩き回ることにした。

 何度も見えない壁に進行を阻まれながらも進める方向を選んでいくと、見覚えがありすぎる場所に戻ってきてしまった。

 俺と早那が泊る部屋の廊下。

 途端に確信できた。

 

 この世界が夢であることは間違いない。

 他のルートが進めないことを考えると行動範囲は限られている。

 いかにも夢らしい条件を頭に入れて、夢から抜け出す方法を思案する。

 部屋の前まで戻ってくる間に人気は一切なかった。

 おそらくこの夢に出てくるのは俺と隣の部屋の早那、だけかもしれない。


 となると、誰も起こしてくれない場合は夢から抜け出すのに残った希望は早那だけだ。

 幸い早那の部屋があるので、中に早那が寝ていてもおかしくはない。


 早那を問い質せば夢から抜け出せるかも――


 自然と俺の目は早那の部屋のドアに向く。


 夢の中だというのに早那はぐっすり寝ているのだろうか?


 部屋にいるのかどうかはわからないが、地震に襲われたのが夢の中の夢であるのなら早那を登場させないなんてことはないだろう。

 寝ているとすればノックしても聞こえないかもな。

 夢の中なのに現実的な判断をして、俺は部屋に戻った。

 ホテルの内線電話を早那の部屋に繋げてみる。

 焦らされるような長い時間、辛抱強く早那が出るのを待つ。


 どこからどこまでが夢なのだろうか?


 早那が電話に出るのを待つ間に頭の中で思考が巡る。 

 地震に遭うところからなのか、ホテルで早那に起こされるところからなのか?


――いや、最初からか?


 今まで目にしてきた不可解が脳裏に浮かび上がってくる。

 俺と早那と恭子以外の客がいない施設内、小便器のない男性トイレ、既知の映画し か放映 しないシアタールーム、早那の好みに偏った売店、さらに話の噛み合わない恭子。

 不可解に思ったもの全て、これが夢であるなら辻褄が合う。

 早那と遊んだ三日間そのものが夢だという可能性はあり得る。ならば先ほど見た地震の悲劇は夢の中の夢か。

 夢の中で寝ている夢を見る、ということもあると聞くし、夢の中で起床する夢を見る、という話も聞いたことある。

 面白いぐらいパズルのピースが嵌っていくな。

 電話を鳴らしているとやっとのことで受信者が電話に出た。

 夢の中なのに内線電話で話をするのか。行動の地味さに苦笑が湧くのを感じながら電話越しに早那へ話しかける。


「もしもし早那か?」

「お兄ちゃん?」


 寝起きらしい間延びした声が電話口から流れてくる。

 どうしても確かめたいことがある、と伝えると早那からはっと息を呑むような音が返ってきた。


「こんな夜中に電話してくるほどの内容なの?」


 平静を装った声で早那は問い返してくる。

 想像以上に当惑している。


「そうだな。今すぐに確かめたいことなんだ」


 俺は声に真剣さを帯びさせて伝えた。

 早那から返事はなく沈黙が会話を隔てる。


「早那?」

「…………」

「聞こえてるか?」

「き、聞こえてるよ」


 慌てて繕ったような笑みを含んだ声。

 様子が変だな。

 早那はこの状況について知っているのではないか、と自分の中で疑いが強くなる。


「何か隠してるのか?」

「なんでそう思うの?」

「いつもと声の感じが違うから」

「……そうだね。お兄ちゃんはいざという時は鋭いなぁ」


 観念したように俺を褒める。

 鋭い、ということは俺の問いかけが図星なのか。

 つまりは俺に隠し事をしてる、というわけだ。


「教えてくれ早那。俺が今いるこの世界は夢なのか?」

「……お兄ちゃん」


 切なげに呼びかけるような声が返ってきた。

 夢なら夢だと早く言ってほしい。


「なんだ早那?」

「部屋に来て」


 は?

 急に何を?


「部屋に来て、と言ったか?」

「うん。直接話がしたいから」


 懇願するような口ぶりで俺の来訪を望む。

 部屋に行けば、これが夢であると打ち明けてくれるのだろうか?


「わかった。今からそっち行くから何が起きてるのか教えてくれよ」


 心のどこかではまだ信じられない部分がありながらも、自分の見てきた非現実な事象が早那の部屋へ行く決心をさせた。

 待ってるよ、という早那の声を聞いてから通話を切り廊下に出た。

 すぐさま隣の部屋のドアをノックし、早那が開けてくれるのを待ってから俺は部屋に入った。


「お兄ちゃん」


 先ほどまで寝ていたのだろう掛け布団が捲れたベッドの前に早那は立っていた。

 重大な秘密を打ち明ける前のような深刻な顔つきをしている。


「話してくれるのか?」


 俺はいきなり吐露を促した。

 これで夢から抜け出せる。

 早那は言葉を考えるような間を置いて口を開いた。


「何を教えてほしいの?」


 俺の持っている情報を伺うような問いかけ。

 こちらとしては鎌を掛けているつもりはない。

 自分が見て感じたことを確かめるだけだ。


「他の客が一人も見当たらない」

「……」

「シアタールームのプログラムが全て俺と早那の知っている映画だった」

「……」


 早那は黙って俺の言葉を聞いているが、見たことないぐらいに眉間に皺が寄っている。

 やはり早那はこの世界が夢であることを知っている。


「売店のお菓子が早那の好きなものばかりだった」

「……」

「男性トイレにあるべきものがなかった」

「……」

「自販機コーナーに行こうとしたら見えない壁に突き当たった」

「……わかった」


 諦めたように早那が声を漏らした。

 俺は違和感の列挙をやめて早那の言葉を待つ。

 早那は俺に真っすぐ見据えられてバツが悪そうに俯き気味で顔を逸らす。

 その行為に俺は胸詰まるようなショックを感じた。


 嘘を吐く時の早那の癖だ。


 今から早那が話そうとしているのは嘘だ、と悲しくも認めざるを得ない。

 俺が内心で嘘を吐かれる辛さに堪えていると、早那が逸らしていた顔を戻して仕方なさそうな微笑を浮かべた。


「何を言ってるのお兄ちゃん。暗かったから変な見間違えをしたんだよ」

「笑顔で俺を騙せると思ってるのか?」


 言い返すと、早那の笑顔が引き攣った。

 夢だからよかったね、で引き下がれない。

 この夢から抜け出す方法を知りたいんだ。


「どうして嘘を吐くんだ?」


 努めて口調を荒げないように尋ねた。

 この夢の世界が現実でないことはわかった、だが俺が一番悲しいのは早那に嘘を吐かれたことだ。

 早那は泣き出しそうな目で俺を見る。


「なんで騙されてくれないの?」


 ごめん早那。気が付いてしまったんだ。


「なんで現実じゃないってわかっちゃったの?」

「ごめん」


 不可解を感じていないフリをすることもできただろう。

 だけど、このまま現実ではない世界に居続けるのは御免だ。

 目覚めないといけない、という気持ちが何故かあるんだ。


「お兄ちゃんはこの世界よりも現実の方がいいの?」

「ああ。どれだけ楽しくても何の進展もないのは嫌だな」

「ここならいつまでも楽しい一日を過ごせるんだよ。それでも現実の方がいいの?」


 なんとか夢の世界に引き留めようとする悲痛な問いかけ。

 早那には悪いが俺は無言で頷く。


「そっか」


 早那は観念した声音で呟いた。

 本当にごめん。

 心の中で謝り、後ろめたさのあまり視線を逸らす。


「どうせ夢の中なら……」


 投げやりな口調で早那が漏らした。

 早那の方へ視線を戻すと、早那は俺の方へ踏み出していた。


 な、なんだ?


 急に間合いを詰められて戸惑う俺の懐に、早那の小さな頭が入り込んでくる。

 ちょっと待て、早那は何がしたい?

 俺が混乱している間に、早那は項垂れるようにもたれかかってきて自身の寝間着の裾を掴んでいた。

 一瞬だけ顔が上がったかと思うと、寝間着を裾から捲り上げていた。


 は?


 早那の寝間着が華奢な腕を通して床に放り投げられる。

 目の前に突如現れた、きめ細やかな肌色と恥部を覆う薄桃色。

 それが妹の下着だけを纏った姿であると知覚し、頭の中が真っ白になる。


「お兄ちゃん大好き」


 愛おしそうな声音。

 恍惚として艶やかに濡れる瞳。

 妹を妹として思えなくなるほどに蠱惑的。

 早那の艶麗な姿に目を奪われていると、胸に早那の両手が優しく触れた。


「お兄ちゃん、ヤロ?」


 囁くような早那の声を聞いた瞬間、激しくなる鼓動に抗って理性が頭を冷やした。

 咄嗟にベッドの掛布団を手に取り、早那の頭の上から落とす。

 掛布団がカーテンのように早那を頭から覆い隠す。


「早那、やめろ」

「……」


 兄妹としての節操を保つために言い聞かせる。

 早那は動きを止めて押し黙ってしまった。

 胸に触れていた手の片方がそっと離れる。


「私、お兄ちゃんのことが好きなの」


 布団越しの少しくぐもった告白。

 いきなり過ぎて返す言葉が思いつかない。


「早那のこと、嫌いなの?」

「嫌いなわけないだろ」


 嫌いだったらこんなに鼓動が速くなるわけがない。

 こんなに接近しているのに早那には俺の鼓動が伝っていないのだろうか?


「嫌いじゃないならなんで拒むの?」


 泣きつくような声で問い掛けてくる。

 拒む理由なんて俺にもわからない。


「あまりにも急過ぎて戸惑っているのかもしれない。ずっと妹として見てきたのにいきなり告白されたから」


 意気地のない返答を聞いた早那が黙り込み、布団越しに俺の胸に顔を押し付けた。

 俺の方も言葉がなく互いに沈黙してしまう。

 現実ではないからだろうか。

 これだけ身を寄せ合っているのに早那の温もりも鼓動も伝わってこない。

 現実なら早那の温もりを感じ取れるのだろうか?

 夢の中ではない本物の早那に会いたくなってきた。


「……お兄ちゃん」


 瞬き二回ほどの間があってから早那が沈黙を破った。

 どうした、と聞き返すと早那はさらに身を寄せてきた。

 それでも早那の鼓動は聞こえてこない。


「お兄ちゃんは今ドキドキしてる?」

「わからないか?」


 わかんない、と残念そうに答えた。


「お兄ちゃんの心臓の音が聞こえない」

「……布団のせいだろ」


 早那に鼓動が伝っていたら雰囲気に呑まれて抱きしめてしまいそうで、聞こえてなくてよかったと安堵する。


「全部、おしまいにしようかな」


 意を決したように早那が言った。

 何を、と尋ねる前に早那は隔てていた布団を片手で引き上げて顔だけを俺に見せる。

 布団の下から覗いた早那の表情は安心を得たように綻んでいた。


「作り物の世界と、さよならだよ」

「そうか」


 早那にとってこの世界は自分の好きなものを詰め込んだ理想空間だったのだろう。

 俺が夢であることに気が付かなければ、気が付いていないフリをし続けていれば、早那は文字通り夢のような時間を過ごすことができた。

 でも俺はこの世界を捨ててでも現実に戻りたい。

 戻れば夢ではない本物の早那との時間を過ごせるから。

 早那が心の底から嬉しそうな笑みを顔全体に広げた。


「良い返事が聞けるの待ってるね」


 次の瞬間、早那の姿がズームアウトするように消えた。

 呼び止める間もなかった。

 告白の良い返事、俺に出来るかな?

 視界が暗転して暗闇に包まれながら、夢の世界の最後に聞いた早那の言葉を頭に刻み込んだ。

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