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出発の身支度を整えていると、すっかり顔馴染みとなった男性に廊下でひょっこり出くわした。いつもと同じように白衣に身を包み、右手に金剛杖を持っている。


「ここからはもう会うこともないだろう」。私の方に向き直り、顔に笑みを浮かべながら男性が言った。「じゃあ、元気でな」


「はい、おじさんもお元気で。色んなことを教えてくださって、どうもありがとうございました」


信州から来たというこの男性は、恐らく同郷のよしみもあり私に多くのことを教えてくれた。どのみち私のお遍路はもうすぐひと区切りが付くのだが、それでも何日間か顔を合わせた人と別れるのは少し寂しく感じた。


歩き遍路の行程にとって宿泊場所は大きな制約条件だ。歩く速さは人それぞれだが、宿泊所はおおむね同じ場所に固まっているため、一日が終わってみれば結局同じようなメンバーと宿で顔を合わせるということは多い。ようは宿に着くのが二時間早いのか遅いのかの違いなのである。そのため歩き遍路のお遍路さんは自然と顔なじみになってくる。ところが、大日寺の辺りからは宿がポツリポツリと増え始め、自分の進度に合わせて泊まる場所を選ぶことができるらしい。もう会わないだろう、と彼が言ったのはそういう意味である。


今日もおおむね国道五十五号線沿いを西へ向かうのだが、所々に国道と並行する裏路地があり、歩き遍路はそこを歩く。だいたいは昔の国道、いわゆる旧国道である。車の行き交う国道五十五号線と比べると、通りを一本奥へ入っただけなのに交通量はまるきり違う。そのおかげで車の往来を気にせず、落ち着いた心持で四国巡礼の道中を楽しむことができる。


安芸市を過ぎ、芸西村の裏街道を歩く。人気のないこの路地を歩くのは気持ちが良かった。満開の桜の木がちらほらと道沿いに見える。左手にはちょうど目の高さに土手があり、土佐くろしお鉄道の単線の線路がその上に敷かれていた。何とものどかなものだ。土手は緩やかに低くなっていき、桜の木が何重にも立ち並んでいる場所で、ついに線路が遍路道とほとんど変わらない高さまで降りてきた。ここに電車がやって来れば絵になるなと思い、電車が通るのを少し待とうかという考えが一瞬頭をよぎった。でも、本数が少なく、いつ来るかも分からない電車をぼうっと待つわけにはいかない。


ふと、後ろからガタンゴトンという音が近づいてくる。まさか、と思いながらも鞄からあたふたとカメラを取り出す。ゴオという大きな音を立てて一両編成の車両はあっという間に私を追い抜いていった。慌ててシャッターを切った写真の左端には車両がずいぶんと小さく写っていた。


高知県に入ってからは遍路道を示すステッカーが激減した。何人かの歩き遍路が異口同音にそう言っていたので、単に私の気のせいというわけではないだろう。この数日は、国道五十五号線沿いをただ歩いていただけなので、道を間違える可能性はさほど大きくない。それでも、遍路道が国道と古い街道を行ったり来たりすると、いつの間にか遍路道を外れて明後日の方向を進んでしまう可能性がある。そう、今日の私のように。


もちろん、歩き遍路に必携という歩き遍路用の地図帳を用意しなかったことが迷子の大きな要因であるのは間違いない。そもそも四国巡礼を始める前、私はそんな地図帳の存在を知らなかった。私が地図を持っていないと他のお遍路に告げると、誰もが一様に驚く。


「それでどうやって道を探すの?」


もっともな疑問ではあるが、道標のステッカーをたどれば道に迷うはずがないだろうと高を括っていたのだ。そして、その命綱とも言える道標が高知県内に少ないことはすでに述べた通りである。


私が地図帳の代わりに持参したのは二冊のガイドブックだった。そこには札所の名称や宗派などの基本情報とは別に札所周辺の略地図が載っていて、今日の道のりで言えば土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線ののいち駅から大日寺までの道順が示されていた。だから、ひとまずのいち駅に向かって線路沿いを歩いてゆけばよいはずだと考えたのだが、結局のところ、これは全然良いアイデアではなかった。途中から線路沿いの道が消えてしまい、やむなく迷路を進むように国道を目指してジグザグと歩かされた挙句、大幅な遠回りを経てようやく国道五十五号線への復帰を果たした。


ここから大日寺まではおよそ二キロの道のりで、さすがにもう迷わないはずだ。それでも、大日寺への道すがら、道路標識に大日寺の文字を見る機会は少なく、時々不安になる。


「四国の中で、お遍路と一番距離をおいているのが高知県民だと思う」


これは同宿した歩き遍路の言葉だ。いわゆる天正の兵火で四国の札所を次々と焼き払った長宗我部元親は現在の高知県南国市、土佐国長岡郡岡豊の出身である。そのため、真偽のほどはさておき、高知出身のお遍路は冷たくあしらわれることがあるそうだ。これが逆に、高知県民をお遍路から遠ざけているのだろうか。そして、遍路道の道標や札所の表示が高知県内に少ない理由なのだろうか。


いや、道標や標識の少なさについて、理由はほかにあるのではないか、と私は思う。例えば、大日寺は香南市にあるが、ここには龍河洞や龍馬歴史館がある。それどころか、香南市には高知龍馬空港まである。言わば、観光資源が豊富なのである。だからこそ、八十八か所霊場のたかが一か寺などは扱いがぞんざいで、同じことは高知県全体に言えるのではないか――。


それに、お遍路との距離感についても、高知県民がとりわけお遍路に冷たい訳ではないだろうと思う。徳島県のとある休憩所では「お遍路さんへ」と書かれた紙と一緒に数個のポンカンが置かれていたが、今日は歩き遍路のための「接待木」を目撃した。「お遍路さんのために食べられる果実のなる木を植えました」とのことで、高知県民の博愛心を物語る驚くべきお接待ではないか。いずれにせよ、まだ四国の内の二国しか歩いていない私には、県民性とお遍路に対する感じ方の関係が判断できるはずもなかった。


宿を出てからちょうど八時間後に、私は二十八番札所大日寺の山門に到着した。下り坂の途中に山門への石段がある。大日寺の名を持つ札所はこれで三か所目だ。香南市はまずまず大きな町なのだが、町の中心地から少し離れた所に建つ大日寺は静かな雰囲気に包まれていた。納経所の周辺は苔が蒸して美しいが、失礼を承知で言うなら、そのほかはこれという特徴のない境内だった。このところ、難所を経てようやく山門にたどり着くことが多かったせいか、普通の道を普通に歩いて札所に入っても達成感を得られない。境内を平凡と感じるか否かはこちらの心持ちに大きく左右されるのかもしれなかった。


お参りを済ませ、納経所で墨書と朱印を頂いた。今夜の宿は大日寺の近くなので、今日の行程はこれでおしまいである。ふうっと息を吐き、境内のベンチに腰を下ろして今日のお遍路を振り返っていた。


ふと、山門の方から金剛杖のシャリン、シャリンという鈴の音が近づいてくるのが聞こえる。音の方に顔を向けると、見慣れた顔が現れた。


「よお、また会ったな」


「そうですね」


今朝の会話を思い出し、お互いに顔を見合わせて笑った。道中の出来事についてしばらく雑談していたが、そろそろ私は宿へ向かうことにした。


「それじゃあ、僕は行きます。お元気で」


「ああ、またな」


少し照れたように男性が言った。

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