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無意識の内に興奮していたのか、あるいは単に枕が変わったせいなのか、昨夜は夢現を行ったり来たりの状態が続いた。夜が明け始め、波が寄せるような、ザザアという音が聞こえる。もちろん波である訳はなく、果たして雨が窓を叩く音だった。つまり風も強いということで、慌てて天気予報をチェックした。
「低気圧や前線が通過し、沖縄から東北までの広範囲で雨が降ります。特に西日本や東日本の太平洋側を中心に強まる雨に注意が必要です」
まさか、雨とは……。「雨の予報」によれば、雨が最も強い地域が徳島市だった。うかつと言えばそれまでだが、自分がお遍路をしている最中に雨が降ることなど全くの想定外で、私は雨具を持参しなかった。
まあ、何とかなるだろう。雨が強くなってきたら、どこかで傘を買えばいいさ――この軽率な考えが後から悲劇をもたらすことになる。
徳島駅からJR高徳線に乗り、二十分ほどで一番札所霊山寺の最寄り駅である板東駅に到着する。お遍路さんと思しき乗客が私のほかにも三人ほど下車した。歩道橋のない小さな駅で、線路を横断し、無人の改札を通って駅舎を出る。霊山寺まで続くグリーンライン道路には歩道と車道の境に緑線が引かれ、とにかくこの緑線をたどって歩けば道に迷う心配はない。住宅や商店が並ぶ小路を何度か曲がると、まっすぐに伸びるグリーンライン道路の先に霊山寺の山門が見えた。いよいよ、ここからお遍路が始まるのだ。
四国一番霊山寺と大書された提灯が吊られた仁王門で一礼し、境内に入った。目の前に稚児像が立つ池があり、大きな錦鯉が何匹も泳いでいるのが見える。発願の寺は遍路客で賑わっていると思いきや、白衣の四人組がそれと分かるくらいで、参拝者はまばらだった。巡礼道具を何も持たない私はまず売店に向かうと、こちらには何組かのお遍路さんがいた。霊山寺の売店には巡礼に必要な道具がひと通り揃っていた。白衣を着れば巡礼の雰囲気は出るが、今日の天気ではびしょびしょになってしまう。ひとまず納経帳と納め札のみを購入した。
本堂や大師堂で般若心経を唱えた後、手前に設置された納札入れに一枚ずつ納めるのが納め札だ。つまり、札所につき最低二枚のお札を納めていくことになる。かつての納め札は木製で、本堂や大師堂に直接打ち付けていたそうだ。そのため、四国巡礼ではお参りすることを「打つ」とも言う。また、道中でお接待を受けた際にも、お礼として相手に納め札を手渡すのが礼儀とされる。
売店のおばちゃんは手慣れたもので、お参りの仕方などを簡単に教えてくれる。「はいこれ、お接待です」と手渡されたのは巡礼の手引きだった。まるで初心者の館だ。
本堂と大師堂をお参りし、本当なら次に向かうのは納経所なのだが、先ほど購入した納経帳にはすでに霊山寺の墨書と朱印が押されているため、これでひと通りの手順が終わったことになる。何とも呆気ない。巡礼が始まったという感覚は全然ないが、きっと歩いている内に実感が湧き出てくるのだろう。
遍路道では道標となる矢印や歩き遍路のステッカーが電柱などに貼られていて、基本的にはこれらの目印を追っていけばよい。次の極楽寺は霊山寺と一・五キロしか離れておらず、道も分かりやすいはずなのだが、不思議なことになかなかたどり着かない。二番札所を目指しているはずなのに三番札所への案内板を見つけ、道を間違えたことに気が付いた。どうやら遍路道と並行する別の道路を歩いていたらしい。道が二股に分かれていたり十字路だったりする場所に、もっと道標を用意してくれたらよいのに……。そのくせ、何でもない場所には■■寺▲▲キロというような表示がある。自分が正しい道を歩いていると安心感を与えてくれるので、これはこれでありがたいのではあるが。
今来たばかりの道を十五分ほど戻り、先ほどは何気なく通り過ぎたY字路を左に曲がると、道路の先に見えた鮮やかな赤色の仁王門が目を引いた。
どの札所にも目玉があるもので、二番札所極楽寺では樹齢千二百年という長命杉がそれだ。脇の立て札には弘法大師御手植の文字が見える。説明書には長命杉から延びる紅白の紐に触れて霊気を感じてくださいとあるが、特に何も感じられないのは私の信仰心不足が原因なのかもしれない。境内の右奥にある本堂と大師堂でお参りを済ませ、今度は納経所で墨書と朱印を頂いた。目の前でさらりと慣れた手つきにはよどみが全くない。一体、一日に何人の納経帳を埋めるのだろう。
極楽寺を出てしばらく歩くと右手に諏訪神社が見えた。私が生まれ育った長野県諏訪市には全国の諏訪神社総本社である諏訪大社上社がある。その縁があり、普段ならきっと立ち寄っていたはずなのだが、今日は先へ進みたい気持ちが強く、鳥居を一瞥しただけで通り過ぎた。誰だったか、ある作家がお遍路の最中は余裕がなくなると書いていたが、なるほど、こういう事かと得心した。それにしても、まだ歩き始めて二時間しか経たないのに、もう先を急ぎたいという心境に入っている。
また雨が降り出し始めた。軒下を歩きたいと思った矢先、前方に三番札所金泉寺の仁王門が見えた。一礼して仁王門を抜けると、参道では重なり合った樹木が雨除けになってくれていた。赤い欄干が付いた橋を渡ると正面が本堂である。しかし、私はまず左手にある納経所に向かった。
一番と二番の札所でお参りした時、私は声を出さずに般若心経を唱えていた。経本を見ながら音読するのが本来の作法と聞いたことがあるが、いかにも遍路でございというその姿勢が私にはどこか気恥ずかしかったのだ。
でも、これじゃいけない。こうして実際にお遍路として歩いているのだ――金泉寺からはしっかりと経本を見て音読しようと、道中で心に決めていた。ところが、こちらの納経所は経本を置いていないようだった。たしかに、三番札所で経本を買い求めようという参拝客は少数派なのだろう。一番札所の豊富な品ぞろえがむしろ特殊だったわけだ。
念のため、経本を見ながらの読経が礼儀ですよねと納経所で尋ねると、見ずに読めるのかと逆に聞き返された。
「般若心経は読めます」
「だったらそれでよいじゃないですか。必要だと思えば買えばよいし、そうじゃなければ要らないですよ」
なるほど、そういうものか。何もかも型どおりである必要はないのだ。私は深く納得し、お礼を言ってから本堂へと向かった。
JR高徳線の線路と交差した辺りから雨足が強くなってきた。羽織っていたパーカーの撥水加工はもはや用をなさず、せめてもとの思いでフードを深くかぶると視界が悪化した。雨が困るのは遍路道の道標が探しづらくなることで、実際に四番への道を途中で見失った。雨に濡れ、身体が冷たくなってきたことで焦りが出始めた。一刻も早く大日寺にたどり着かねば。ようやく遍路道に復帰し、山沿いの道路をまっすぐ、足早に進んでいく。間もなく参道に入り、大日寺と彫られた緑青色の石の先に鐘楼門が見えた。手短にお参りを済ませ、納経所で納経帳を差し出すと、ほんの束の間、雨に打たれずに済むことに安堵した。しかし、ここでゆっくりする訳にはいかない。雨が止む気配はみじんも感じられなかった。
大日寺から次の地蔵寺までは二キロ、三十分で着くはずだ。途中には地蔵寺の奥の院・五百羅漢があるが、脇目も振らず前に進むことだけに集中する。この頃には川にでも飛び込んだみたいに全身がずぶ濡れで、スニーカーからは得体のしれない泡が出て、水を吸ったポリエステルのパンツは重みでずり落ちそうだった。顔面もびしょ濡れで、呼吸も荒くなり、そのせいで眼鏡が曇る。涙が出そうになる、いや、もうとっくに出ていたのかもしれない。五番札所地蔵寺の山門をくぐり、一目散に本堂へと向かう。本堂、大師堂、納経所。まるでタイムを競うかのように手順を踏み、境内を後にする。寒さと惨めさのせいで、これじゃ本当に修行のようだと心の中で毒づくが、こんなに心のこもらない読経の奉納など、実際の修行ではあり得ないだろう。
次の安楽寺までは後五キロと少しだ。途中、またもや道を間違えて、自分が大山寺というお寺に向かっているのを知って呆然となった。誰に向けたものか怒りが込み上げてきて、ふざけるな、と思わず声に出してつぶやいた。実際には何もかも自分が悪いのだが、その発想はすっかり抜け落ちていた。道すがら、六番札所安楽寺への道標が見えた時には心底ほっとした。もうすぐ札所に到着するという安心感のみならず、今日は安楽寺の宿坊に予約を入れていたのだ。
宿坊とは寺社に併設された宿泊施設で、元々は僧侶向けの宿なのだが現在は一般の参拝客に開放されている。主要な旅行サイトでオンライン予約が可能な宿坊もある。ただし、四国八十八か所でもかつては半数の札所が開いていたという宿坊は、今では十軒程度しか残っていない。その中でも、安楽寺の宿坊は最も古く、四百年前に開かれたものだという。私が通された六畳の和室は旅館や民宿とほとんど変わらない。荷物を置き、温泉に浸かってようやく人心地がついた。温泉山の山号は伊達ではない。
朝晩と精進料理が二食付いて七千円ほどという値段は、遍路道沿いの旅館やビジネスホテルと比べてやや高いかもしれない。それでも私が宿坊に泊まってみたかった理由は「お勤め」である。先祖供養や修行をしたり、僧侶の説法を聴いたりできる。霊場に宿泊してお参りすることを参籠というが、おこもりによって功徳を積むことができるのだ。
「自分は敬虔な信徒じゃないから、そんなのは遠慮願いたい」
そんな声も聞こえてきそうだが、私自身も信仰心などほとんど持ち合わせてない。でも、宗教儀式というのは参加してみると雑念が消え、清らかな気持になれるものだ。宿坊は澄んだ心込みの値段設定なのである。
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