君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る 小袖書
『とらさんへ
この前の噂話の事
ねえとらさん、あなたがこの手紙を読むころには、きっとまた旅に出ているんでしょうね。碌に話もせずに行ってしまう風のようなあなただもの。だから手紙にしたためてみたの。この前の影のわずらいの話、聞いてくださるかしら。
🐾
さとるちゃんの話を聞く限り、増田様は頭痛持ちでしょ? 私も時々なるけれど、思い返してみれば頭が割れそうに痛むような時には、後になって決まって同じことを言われたわ。
「小袖さんこの前◯◯にいたでしょ」
「声かけたのに気づいてくれなかった」
「ぼーっとしてた」
みんな決まったように言うのよ? 不思議よね。もちろん私はその時間ちゃんと店の中にいて、偶然誰かと一緒にいた。でも声を掛けたという人たちも偶然誰かと一緒にいたりして、一人ではなかった。
つまりどちらにも証人がいて、時間も寸分違わず同じ時刻だということが後にはっきりしているの。その時の私は少し心ここにあらずみたいなぼーっとしてることが多いみたいだけれど。
ねえとらさん、影のわずらいってどうもよくわからないわね。
すると私も影も同時に存在していたということになるけれど、別に片方の私は透けてるとかそんなこともなくて、普通にその辺の人と同じように存在していたらしいのよ。
聞いた話では、石段から落ちて頭をぶつけた人や床に臥せって苦しんでいる人、それから私みたいな頭痛持ちとかね。痛みにさらされてる人に多いみたい。
これって、どういうことかしら?
影のわずらいって江戸では怖がられているけれど、私はむしろ痛みから何か、一時的に離れて何かを守っているような気がしてしょうがないのだけれど。
でも、ふふ、困ったことにその何かは証明しようがないのよね、影のわずらいって。
治し方はもうはっきりしているのよ。丹田に手を当てて呼吸をするとかそんなこと。心ここにあらずの反対よね。今を感じるとかそういう類いのものなんでしょう。
心がない人はどうするんだって話になると私にもちょっとよくわからないけれど。まあなんとかなるんじゃないかしら。
ただね、とらさん。唯一解けない謎があるの。
私の影が現れたとしてよ? 知り合いに話しかけられてもおそらく反応しないだろうことはだいたいわかってるわ。
場所もだいたい見当はつくの。いつも通ってるそらで行けるような場所とか、お気に入りの場所とか、そんなとこ。
でもねとらさん、増田様がそうだったように、毎日着てる服や髪型だって変わるのに、いちいち自分の後ろ姿なんて覚えてないじゃない? そりゃ鏡で確認するくらいのことはあるでしょうけどね。寸分違わず毎日自分の後ろ姿を記憶しているかと聞かれると怪しいと思うわ。
不思議なのは、増田様の影も私の影も、べつに日によって後ろ半分消えてたとかそんなこともなくて、いつもと変わらず普通に存在していたということなの。
それってつまり、私の影は私の記憶から出来てる訳ではないということじゃない?
もっと他の何か。人の目では見えない何かか、他人様からみた記憶か何か、あるいはもっと他の、お天道様みたいに高いとこか何かから、眺めた写し絵のような。でなきゃ何処にいても見渡すなんて無理な話よね。
ねえとらさん、とても不思議なんだけれど。
じゃあその何かって、一体なあに?』
🐾
🐾
さくら川の真ん中で、客人は読み終えた手紙を投げ出すと、橋の上へ大の字になった。
「けったいな話やなぁ」
困ったように天を見上げながら慣れない台詞を呟くと、客人はおもむろに蝋梅の枝をかざした。
日の光に照らされた黄色い花びらの透き通るような輝きに見惚れていると、不意にほんのり甘い香りが鼻をかすめて、客人はそっと目を閉じた。
「はぁ、いい香り」
碌に謎も解けぬまま、新しい息をすうと吸い込んで、客人は今日もまた旅へ出る。出掛けに貰った菅笠を被りながら。
了
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