クロスワード殺人事件
歩芽川ゆい
第1話
殺人事件が起きたとの通報を受け、東京都某区の所轄刑事たちが現場へ向かった。今回はいつもと違って、二人の客人を連れての臨場だ。
警察庁から出向中の警部と警部補。キャリア組の二人は現場経験を積むために出向してきているのだ。変わった二人組という前評判のふたりにとって、これは腰掛にしか過ぎない短期出向なので、どこに出向してもお客様扱いとなり、本人たちもそれを許容している。
本来の二人は、キャリア組というよりはノンキャリアに近い感覚を持っていたのだが、キャリア組というだけでどうしても周りがお客様扱いしてくる。捜査に加わろうものなら、どうせ腰掛の癖に手柄だけは持っていきやがる、などと影口を叩かれる。捜査で捜査員と組んでも、ジャマ扱いされる。
そんな事がどこへ行っても行われては、流石に二人も所轄と仲よくしようとは思わなくなってくる。それならと二人組で派遣されているのを良いことに、二人は独自に捜査を始めた。
これが二人には良い方向に動いた。二人でとことん話し合って、独自の捜査をする手法で、どんどんと検挙率を上げて行った。
基本的に出向組キャリアは捜査に熱心ではない。現場経験を積むだけの出向だから、その期間に運よく事件があれば適当に動いて、手柄だけもらって、さっさと出世すればいいからだ。だがそこにしっかりと捜査をして実績を上げる者が出てくれば、上層部としても現場に詳しいキャリアとして便利に使えると考えて、あちこちに出向させた。
そうしていく先々で、彼らは確実に実績を上げて行った。そんなすこし風変わりな彼らが、今回はこの所轄に出向となったのだ。
**
現場は駅近くのマンションの5階の一室だった。5階の住人Aが帰宅した時、2軒隣の──佐藤敏夫というプレートが付いている──部屋のドアが少し開いているのに気が付いた。
毎回、さとうとしお。砂糖と塩とはこれいかにと密かに笑いながら通るので、勝手に親しみを感じている。いつもならしっかり閉まっているのに、と不思議に思った住人Aが、戸惑いながらもチャイムを鳴らしてみたが、応答がない。
不用心だなと思ったが、挨拶も碌に交わさない相手にこれ以上関わるのは両者ともに怖い。きっと近くのコンビニにでも行ったのだろう思い、そのまま自室に帰り、すぐに忘れ去った。
しかしそれから1時間ほど経った頃、廊下が騒がしい気がして、何事だろうとAはドアを少し開けて様子を見た。するとAの隣の部屋の住人Bが、先ほどの部屋のチャイムを何度も鳴らしながら声をかけていたではないか。それを見て、Aはまさかまだあの部屋のドアが開いたままなのかと驚いて、様子をうかがうべく部屋を出た。
Aが佐藤家の前にいるBに、1時間前もドアが開いていたことを告げると、いくら何でもおかしいのでは、まさか倒れているのかという話になり、二人ですこしだけ扉を開け、恐る恐る声をかけた。
やはり返事はない。
顔を見合わせ、もう少し中を見てみようとドアを開けると、チェーンがかかっていることもなく、すんなりと開いた。それに驚きつつさらに声をかける。
返事はない。
ここでBが、これは万一の事があるかもしれないと言い出し、Aも同意し、いったんドアを閉めて警察に連絡をすることにした。そして通報から5分後には制服警官が駆け付けてくれた。
住人二人はドアの外で待機しているように言われ、警察官が中に入っていき、そして部屋の中で、佐藤敏夫氏と思われる死体を発見したのだ。
被害者はリビングであおむけに倒れていた。その額と後頭部からは血が出ており、事件と事故の両面での捜査になり、さらに現場の状況から出向組二人も駆けつける事となった。
そうしてその現場を見た所轄の川下刑事が、隣の海山警部補に言った。
「これは、探偵さんを呼んだほうがいいのではないでしょうか」
「彼らを?」
「はい、だってこれ。ダイイングメッセージってやつやないですか? 助手さんの得意分野でしょう?」
「あん人が暗号解いたところ、お前、見たことないやろ」
少し離れたところで見分していた、大阪弁の
「ま、まあ、そうですけど、それでも探偵さんたちがいれば、この手のものは早く解いてくれるんじゃないですか?」
「まあ確かに、俺達には無い視点を持っているしなあ」
「でしょう?」
自分の意見が通って嬉しそうに川下が笑う。海山がそんな川下の頭を小突いた。
「お前な、探偵に頼らんでも自分たちで解くのが普通なんだぞ? お前も少しは頭を使ってみろ」
「所轄がすでに努力して解けてないやないですか。時間短縮です。初期捜査は48時間が決め手なんですから」
「偉そうに言うようになったなあ」
そう言いながらも、海山は班長である船頭警部に、懇意にしている探偵に連絡して良いかと伺いを立てた。そんな二人を、出向組の二人は鑑識の邪魔にならない場所で、面白そうに見ていた。
「噂の二人の登場かな」
「そうらしいな。こんなに早く会えるとは思わなかったぜ」
「ああ。さっそくお手並み拝見といくか」
ここの所轄では、どこぞの見かけは子供の出てくるアニメのように、探偵と仲良く捜査をしているといううわさがあった。もちろん所轄は否定しているし、その探偵とやらも否定している。
探偵曰く、迷子になった犬猫を探すのに、飼い主に代わって遺失物の届け出などをするために所轄署に出入りしているだけだと。
事件解決に民間人の手を借りたとなったら警察の威信に傷がつく。だがくだんの探偵は、某アニメの眠りの探偵のように自分の手柄だと言いふらさないので、警察に好意的に思われているようだ。
しかも出入りをしている所轄はここだけではない。同区全体以上に広がっているという。
今回はその真偽を確かめる意味もあって、出向組二人が派遣されたのだ。
その前で堂々と探偵を呼ぶ所轄刑事に二人は呆れたものの、興味津々で探偵の登場を待っていた。
しばらくすると部屋にいた川下が、急に嬉しそうに外に出て行ったので、出向組の二人が付いていくと、マンションの下に噂の二人らしき人物が到着した所だった。偶然にも現状近くに二人ともいたので、短時間で到着となったのだ。
川下に案内されて現場に先に入ってきたのは、長身で、黒いパーカー黒いスキニーの、目つきの鋭い30代くらいの男だった。若手刑事と言っても通じるような、独特の雰囲気を持っている。その男は出向組二人に気が付くと目礼だけを寄越してすぐに現場に目を光らせた。彼が噂の名探偵、丹野尊だろうか。
その後ろから黒いタートルネックに、茶色いカーディガンの男が入ってきた。こちらも長身だが、丹野よりも体の厚さが薄っぺらく見える。黒髪の丹野と違って、茶色っぽい肩に付きそうな長さの髪で、人の良さそうな雰囲気を醸し出しており、その両手に二人分のコートを抱えている。自分の分ともう一人の分だろう。なるほどこちらが助手か、と出向組二人は考えた。
その助手は現場の部屋に入るとあちこちを見回し、あちこちに挨拶し、さらに二人に気が付くと頭を下げてきた。二人も頭を下げる。
自分たちもあの二人の説明を事前に受けているが、彼らもまた自分たちの説明を受けているのだろう。新顔な二人を気にしすぎることなく、川下から説明を受けている。
「川下クンはずいぶんとあの二人を気に入っているんだな。まるで子犬が尻尾振っているようじゃないか」
「あの黒いパーカーが丹野だろ? 尊敬していると言っていたからな」
「しかし捜査を部外者に頼ってるって、いろいろと大丈夫なのかよ」
「ま、その辺も含めてお手並み拝見だな」
声を潜めて話しているうちに、川下から海山が引き継いで状況を説明している。助手は丹野の後ろからそれを大人しく聞いているようだった。そのすぐ後ろで川下がワクワクとした表情で立っている。
そうして海山の説明が終わり、川下、と声をかけられた瞬間に、嬉しそうな顔を隠すことなく即座に助手の方に話しかけた。
「夢野さん、これが被害者が握っていた紙と、直前に書いていたと思われるものです」
やはりあれが助手役の夢野か。二人は成り行きを見守る。
川下がそう言って渡したものは、証拠を撮影して印刷したものだ。捜査員全員に配られているもので、被害者が握りしめていたのは妙な絵の描かれた紙。棒人間が動いているような絵だ。そしてもう一つはクロスワードパズル。まだほとんど書き込みが無く、何故これを握っていたのかは分かっていない。出向組二人も現場を見ながら解いていたが、まだ鍵となる言葉が揃っていない。
夢野がそれらをちらりと見てから、川下を見る。
「これが暗号ですか?」
「え、あ、はい」
「これなら私じゃなくても解けるのでは?」
「え、いや……」
いつもの夢野なら「任せてください」と大喜びで飛びつくのに、今日は全く興味がなさそうだ。なにせ彼は探偵ものの小説が好きで、いつも不思議な状況の事件に立ち会っては目をキラキラとさせて、好き勝手に推理を楽しむような人物なのに、この予想外の夢野の反応に、その場にいる捜査員も訝し気な表情だ。それに先ほどまでは普通だったのに、今や露骨に面白くなさそうな顔までしている。
事前に聞いた夢野という助手の人となり──いつも静かに、穏やかに微笑んでいる──とは大きく離れたそれに、二人は顔を見合わせた。
川下が様子の違う夢野にとオロオロしていると、横から助け船が入った。
「ユメ、意地悪してないで解いてやれよ。折角、お前向きだと呼んでくれたんだから。それとも何か? 難しくて解けないのか?」
「失礼な。こんなん暗号でも何でもないから言っているんだよ」
「暗号じゃない? 夢野さん、それはどういう」
「ユメ、ちゃんと説明しろよ。俺にいつも言葉が足りないと言うくせに、今はお前の言葉が圧倒的に足りてないぞ」
川下が首を傾げ、丹野が説明を促すと、夢野はあからさまにため息をついて、クロスワードの方を手に取り、視線を走らせた。
「この被害者はパズルが好きだったのでしょう? ですからこれはダイイングメッセージじゃないですよ」
「どうしてそう思うんです?」
川下が尋ねる。その可能性は否定できないが、その確認のためにも問題を解かなければ分からないではないか。それにいつもはにこやかな夢野が、そんなに急に不機嫌になった理由も分からない。
夢野は再びため息をついて、言った。
「クロスワードの答えは『クトゥルフ神話』、そっちの絵は『踊る人形』です。そんなの、まず関係ないでしょう」
「ええっ! なんでそんな一瞬でわかるんです!?」
「ほ、本当だ……!」
川下の驚愕に続いて、後ろの捜査員からも声が上がる。ほぼ解いていたというその捜査員から紙を受け取った海山が、こちらも困惑した表情で夢野に聞いた。
「夢野さん、我々ももちろんクロスワードを解いていたんですが……。捜査員が30分以上かかって解いたものを、なぜそんな一瞬で解けるんですか?」
夢野はちらりと海山と、驚愕の表情の捜査員を見てから答えた。
「全問解こうとするから時間がかかるんです。カギになる文字が入っている部分だけ解けば早いんですよ」
それはそうだろうが、問題文は神話関連や世界史が中心で、幅広い知識が求められる問題だっだ。わかるところから埋めていかなくては、そのカギとなる文字の入っている部分のヒントがわからない。
「な、なるほど。しかしそちらの絵の方は?」
「これはシャーロキアンなら誰でも解けます。難しい問題じゃない」
「ほう、どれがどういう字なのか、解説してくれませんか?」
壁の花と化していた新顔の発言に、丹野と夢野がそちらを見る。丹野は無表情に、夢野は先ほどよりは興味がありそうな目だ。
「……警察庁から来た方?」
夢野の問いに、男は肩をすくめた。
「ええ、出向組の荒馬、と言います。それで、どうやったらそう読めるんです?」
夢野はチラリと丹野を見た。それに丹野が頷いてみせると、プリントされた棒人間の紙を指さしながら説明を始めた。
「まずは、これが原典通りだと仮定しました。というのも、この部屋の蔵書を見る限りこの人はミステリのファンではないからです。ペーパークイズは好きみたいですけど、先ほどのクロスワードパズルをみても中級以上といった所でしょう。その程度の人ではこれを自作するほどの腕はない。そこで原典──ああ、これはシャーロックホームズの中に出てきた暗号ですから、その設定どおりに読んでみると、『踊る人形』という言葉になるわけです」
夢野は説明しながら、棒人間の下にODORUNINGYOUと書いていく。
「踊る人形、というのには何か意味が?」
荒馬が夢野の前に進み出て聞く。夢野よりも荒馬の方が10㎝程背が高い。夢野が上目遣いで荒馬を見た。
「この暗号が出てきたのが、まさにホームズの中の『踊る人形』という話です」
「なるほど」
荒馬の感嘆と同時に、ヒューという口笛が聞こえてきた。隣にいた男だ。荒馬より3センチほど背が高く、体型はガッシリしている。スーツの中の筋肉が窮屈そうだ。男が荒馬の肩に腕をかけて、夢野を覗き込むようにして笑う。
「あんた、すげえなあ。ここの連中が必死に解いてたクロスワードも30秒で解いただろ。タダもんじゃねえな」
「あなたも出向組ですか?」
夢野がさらに目線を上げる。それにニカッと笑った男が答えた。
「ああ、おれは矢名ってんだ」
「荒馬さんに、矢名さん……。昔の探偵マンガに出てきた登場人物と同じ苗字ですね」
「お、知っているのか?」
矢名が驚いた声を上げた。周りも否が応でも注目する。
「へえ本当に博識ですね。あの漫画を知っている人はほとんどいないのに」
荒馬も感嘆の声を上げた。それに夢野は苦笑する。
「小学生向けの教育雑誌にほんの数年掲載されていた、教育系の推理漫画ですよね」
「そうそう! まさか、読んでた?」
「まさか。まだ生まれてません。お二人だってそうでしょう?」
「ええ、リアルタイムでは読んでいませんね。しかし家にあったので読んではいます。あなたは?」
「私は復刊されたものを読みました。初期作品もあってお得でしたよ」
「え、そうなの!? 荒馬、買わないと!」
「そうしよう」
「ユメ、盛り上がっているところ悪いが、本筋に戻ってくれないか」
3人に軌道修正に促したのは、近寄ってきた丹野だった。
「助手が失礼しました。ほら、説明を続けてくれ」
「ああ、悪い。……と言っても暗号ではないのではないか、でファイナルアンサーだよ」
「確かにこの部屋には神話関係の本もないし、シャーロックホームズすら置いてない。だが逆におかしいと思わないのか? こういうクロスワードを趣味にする人は、雑学が必要だからその辺も揃えそうじゃないか?」
「クロスワードを解いていると知識は付いていくし、このご時世、本で調べるよりもスマホでぐぐった方が早い。クトゥルフ神話よほど興味が無ければ本で読むものじゃあないし、ホームズはミステリ好きでなければわざわざ買ったりしないだろ。君だってホームズは小学校の図書館で読んだだけって言ってたじゃないか」
「あとお前の部屋な。クトゥルフ神話ってそんなにマイナーなのか?」
「川下さん、クトゥルフ神話、知ってます?」
いきなり話題を振られた川下は、目を白黒させながら、手と首を横に振った。
「お二人はいかがです?」
夢野に聞かれた荒馬と矢名は、声を揃えて答えた。
「ホームズは全巻持っている。クトゥルフ神話は名前だけだな」
「こう見えて俺らはミステリ小説好きだからな。でもあの棒人間を何もなしに読めるほど、マニアじゃねえな」
「でもあの人形がホームズなのには気が付いたんですか?」
夢野がさらに尋ねる。
「いや、恥ずかしながら似たような絵だな、とだけ。ここにホームズのホの字もないから、違うものかと思った」
「確かに手書きされているので、原典に乗っているのよりも不格好ですけれど、旗を持っていたり、その表記の特徴は同じですから、あれに間違いありません。……また話がズレたな。ほら丹野、普通はクトゥルフ神話は知らないだろう?」
「お前の知識に合わせた俺が悪かった。だがホームズ関連の本がないのに。その踊る人形を描けるのは、おかしいんじゃないか?」
「パソコンもこの部屋にはないから、スマホで検索して描いたんじゃないか?」
「何のために?」
「そんなのは知らないけど。被害者が書いたのなら、クイズ好きなら誰かに問題として出そうと検索して描いたんじゃないのか?」
「誰に出題しようとしたと思う?」
「俺が知るか。お前が考えろ」
と、ここで矢名が吹きだした。丹野と夢野が彼を見ると、悪い悪い、と手を振りながら笑った。
「いやあ、探偵さんは推理合戦も漫才しながらやるのかと思って」
「漫才なんてしてません」
夢野が顔を少し赤くして反論する。荒馬は腕組みをし発言する。
「確かに面白い推測だ。しかしもしあれがダイイングメッセージなら、クトゥルフ神話に詳しい、被害者と同じようにペーパークイズの好きな相手がいて、ソイツを示唆しているということか」
続いて丹野が発言した。
「ペーパークイズ好きの相手は良いとして、クトゥルフ神話に詳しいと言うのはどうでしょうか」
「……何故?」
「問題はまだ解けていませんでした。あれは雑誌に載っていた問題のページが破られたものです。雑誌を見せてもらいましたが、あちこちの問題を解いており、まだ全部は解いていなかった。私も問題を見ましたけれど、夢野のようにパッと見ただでは解けません。他のページのやりかけた問題を見ても、被害者があの問題を夢野のように一目見て解けたとも思えない」
ここで夢野が丹野の脇に立って、問題の紙を見せる。
「この問題も、縦1と横1は書きこんでるしな」
「ああ。しかも横1の文字が歪んでいる。問題を解いている時に襲われた、もしくは書いている最中に犯人が尋ねてきて、そのままページを開いたままなっていた」
「ダイイングメッセージとして残したのなら、その縦1と横1がカギやけど、キーワードとは関係ないし、その答えの『柿8年』と『薄口醤油』に意味があるとも思えないしな」
「柿を醤油で食べるとか?」
「食べててみてくれ。で、感想を教えてくれ」
「その名誉はお前に譲ろう。……話を戻すぞ。襲われた時にページが開いたままだったらどうなると思う、ユメ」
「ダイイングメッセージにしようと破ったのだとしたら、犯人の名前が柿と醤油にちなんだ名前とか?」
「どんな名前だよ」
「さしずめ、柿田庄右衛門とか?」
「随分と古めかしい名前だな。まあいい、踊る人形は?」
「ダンサーなんじゃないの、柿田氏の職業が」
「職業は新しいな!」
「ぶぶっ」
またも笑い声がして、丹野と夢野は声の出どころを見た。
今度は荒馬だった。
「すみません。矢名ではないですが、本当に漫才のようだなと。探偵さんってみんなそうなんですか?」
最後の問いは少し離れたところで苦笑いしていた海山にだ。海山は肩をすくめた。
「さあ、我々にはわかりません。彼らのそれは、いつもの事ですけれどね」
「丹野! 海山さんにいつもの事言われた!」
「そんなにおかしな会話はしていないと思うのですが」
「いえ、通常運転かと」
答えたのは満面の笑みを浮かべる川下だ。
「いやあ、夢野さんが暗号見た途端に不機嫌になるから、どうしたのかと思っていたんですが、いつも通りで安心しました。でもなんであんなに不機嫌だったんんです?」
無邪気にそう言われた上に聞かれたら、また不機嫌顔になった夢野が答えないわけにはいかない。
「うう、川下さんが難しそうなパズルと変な絵の暗号がある、っていうから、どんなものだろうとすっごく楽しみにしてきたんですよ。なのに、アレだったから」
「まさか夢野さんがあんな一瞬で解いてしまうとは思わなかったんですよ。ほら、ここにいる捜査員全員、この問題持ってますし、もちろん捜査しながらですから時間はかかっているんですけど、それでもクロスワードでさえ誰も完成させられなかったんですよ?」
川下が夢野たちが来るまでにほぼ解いていたという、鳥越という名の捜査員の用紙を夢野に見せる。そこには鍵となるマスがまだ4つほど残っていた。
「7マス中の最後の2マスは漢字で神話、最初がク、途中にルが入るまでわかっていたんですね。クトゥルフ神話という言葉を知っていれば、残りにその文字が来るか確かめればいいだけです。ヒントの問題まで全部解く必要もないんですよ」
「そりゃ夢野さんだから出来るんですよ!」
川下から呆れたような声が上がる。その神話すら知らない川下には、全部解かなければ浮かび上がらない文字だし、解けたところで正解かもわからなかっただろう。
「なるほど、そういう解き方があるんですか」
感心したような声は荒馬だ。
「僕も4マス解いたところでクトゥルフ神話かなとは思ったんですが、確信がないから全部解いている所だったんです」
「確かにたまにわざと言い回しを変える問題もありますけれど、このページの解説には『ある有名な言葉』が出てくると書かれています。そうであればまずどこか一文字変えるなどはありません。一応全部目を通しましたけど、クトゥルフで間違いないですよ」
「ええ、私も確認しました」
頷く荒馬の肩に、行儀悪く片腕を乗せていた矢名がようやく腕を降ろして、スラックスのポケットに手を入れて言った。
「結論としては、ダンサー柿左衛門が被害者の周りにいるのか、はたまた自作の踊る人形を渡す相手がいるのかを、俺たちが探しゃあいいんだな?」
「まあそういうことになるかな」
「ちょっとお二人とも、捜査方針を勝手に決めないでください」
くぎを刺したのは海山だ。出向組は肩をすくめる。そんな警察組のやり取りを、夢野は興味深げに見つめていた。
そのあとも丹野と夢野は現場を見て回った。何かを見ては丹野が夢野に質問をして、夢野が適当に答えて(いるように見える)、を繰り返していたが、やがて満足したのか、丹野は煙草を吸ってくる、と外に出て行った。
そうしてたばこを一本吸って戻ってきてみると、二人の出向組刑事と夢野がすっかりうちとけていた。
「……ユメ」
「お、お帰り。この後はどないするんや?」
「今日の所は帰ろう。ダンサーの柿左衛門氏の確認が取れるまでたいきでいいだろう。」
「柿田庄右衛門な。わかった。それじゃあまた、荒馬さん、矢名さん」
「おう! いつでも遊びに来いよ!」
「お待ちしておりますよ」
そんなやり取りをして、夢野は先に海山に挨拶をしている丹野の後を追っていった。
それを出向組刑事二人は、腕組みをしながら見守っていた。
**
「随分とあの二人と仲良くなっていたじゃないか。推理小説好き同士、気が合うか?」
現場からの帰りの車で、助手席の丹野が窓に頬杖をついた形で夢野に話しかけた。夢野は前を向いたまま答える。
二人は大学時代からの友人だ。同じ基礎教育科目の隣同士になった事から、その友情が始まった。
丹野
とはいえそうそう事件があるわけではない。探偵の主な仕事と言えば浮気調査や身辺調査が主なのだから。それも個人事務所になどそうそう仕事が来るわけがない。それでもある日、家出猫探しを請け負ったところ、スピード解決できたことから、犬好き猫好きの間で口コミで依頼が来るようになり、今ではそれがメインの仕事となっている。
だがたまには不思議な事件を持ち込まれることもある。それらが事件に発展し、その際に警察に助言したことから、所轄署の署長が興味を持ってくれて、時折事件現場に呼んでもらえるようになった。
推理小説好きで、丹野に探偵になることを進めた夢野有芽は、自身も一度会社勤めをしていたのを辞めて、ほとんど手弁当で丹野の助手を務めてくれている。
そして本に出てくる探偵のように警察に協力できるなんて! と大喜びしているのだ。
もちろん二人とも守秘義務はしっかりと守っている。特別対応なことは理解しているから、対外的には手伝っていることも言っていない。警察からも関係者からも報奨金の類を貰ったこともない。仕事として請け負った場合は調査費用を貰うこともあるが、ほとんどは犬猫探しと、浮気調査の費用だ。
夢野は業務が暇なのをいいことに、推理小説読み放題だし、夢の探偵助手もできるのがうれしいとといつも笑って、まともに出せていない給料に文句も言わずに手伝ってくれている。
「推理小説好きっていうか……。色々と親近感を覚える二人なんだよ」
「いろいろと親近感?」
夢野は楽しそうに笑った。
「あの二人の名前、聞いたか?」
「荒馬と矢名、だろう?」
「フルネームの方」
「いや、聞いていない」
丹野の返答に、夢野はニヤリと笑った。
「フフフ、聞いて驚け。荒馬宗介(そうすけ)と、矢名完次(カンジ)なんだって!」
「それはそれは……。なるほど、名前で苦労する同士か。
「うわ、嫌な納得に仕方だな。しかも否定できんところが悔しいところだけれど、そこじゃない」
「じゃあ、どこだよ」
「荒馬宗介も矢名完次も、さっき言ってた小学生向け雑誌の、探偵マンガに出てくる登場人物そのままの名前なんだよ。まあ荒馬の方は、漢字は同じだけどマンガでは読みが『そうかい」なんだけどな」
「……へえ」
「うわっ、テンション低っ! もっと盛り上がれ!」
「無理だ。どこがおもしろいのかわからない」
「うっわ、友達甲斐のないヤツだな!」
「だいたいそんな偶然があるわけがないだろう。苗字は偶然だろうけれどな。さしずめ、親がそのマンガから面白がって付けたんじゃないのか?」
「うーわ」
「当たりか?」
丹野が頬付えのまま夢野を見てニヤニヤと笑えば、夢野は憮然とした表情で前を睨みつけていた。
丹野は一つため息をついて続けた。
「それにしても、その親は悪趣味だよな。漫画のキャラクターというだけなら、気が付かない人の方が多かっただろう。だけど、苗字と名前で意味を持つ言葉になってしまう名前では、小中学生の標的になってしまう」
「そうそう」
「お前と同様に苦労したんだろうな、あの二人は。……なるほどそれで合意したのか」
「だーかーらー。それがないとは言わないけれど、探偵譚の登場人物と同じ名前、というところで盛り上がってたの!」
「登場人物とって、お前は別に……ああ、もしかして名前にほかの意味を持つ者同士、ってことか」
ゆめのゆめ、あらま、そうかい、やなかんじ。どれも響きだけ聞けば名前だとは思うまい。
確かにそうだが、3人は意図的にそこは外して盛り上がっていたのだ。
「ムカツク。なんだって今日はそんなに意地悪なんだ!」
「通常営業のつもりだが?」
「確かにな! そうだった、いつも君は意地悪だった!」
夢野が口を尖らせる。これは本気で怒らせたか、と丹野は頬杖を止めて座りなおし、両手を肩まで上げた。
「悪かった。俺には一生関係のない話だからまったく興味がなかった」
「帰れ降りろ。お前には一生、丹野を団野と書き間違えられる呪いをかけてやる!」
「うわ、それは地道に嫌な呪いだな」
丹野がしかめ面をしたのを横目で見て、夢野は溜飲を下げた。
「そうだろうそうだろう。そろそろ地下鉄の駅入り口だ。停めるから降りろ」
「待てよ、俺の荷物、全部お前の部屋だろうが!」
「俺は親切だから着払いで送り返してやる。今日明日必要なら、電車つかって俺の部屋までくれば?」
「悪かった。俺が悪かったよ。夢みたいなことを言わないでくれ、夢野くん」
「ご利用ありがとうございました。お荷物は部屋の外に捨てておきますので、2度と来ないでください」
そんな風に言いあっているうちに、車はいつの間にか駅を通り過ぎて夢野のマンションに到着した。
うっかりした、駅に止め忘れたとしかめっ面をしながら夢野は、自分の住むマンションの駐車場に車を停めて、ダッシュで車を降りて部屋に向かう夢野を、丹野はのんびりと追いかけ、アッカンベーをしながら目の前で閉まったエレベーターに苦笑して、それが再びエントランスに戻るまで、丹野は郵便箱のチェックをして、のんびりとエレベータを待ち、それに乗って7階に上がった。
当然鍵は掛けられているだろうと思いながら、一応ノブを回せば、やはり閉まっている。だが焦ることはない。丹野は合鍵を取り出して鍵を開けた。
「ユメ、悪かったよ。からかい過ぎた」
「ほら、出て行けセット、これ持って帰れ」
リビングに入ってきた丹野に、夢野が強めに投げつけてたのは、黒いボストンバッグだ。しかし今回丹野がこの部屋に泊めてもらうために持ってきたのはこのボストンバッグではない。丹野はそれをしげしげと眺めて首を傾げた。
「なんだよ、出て行けセットって」
「君が置いていった夏服のセット」
「わかった、これは持って帰るけれど。本当に帰っていいのか?」
「帰れ帰れ。2度と来るな」
「そうか。今夜はビーフシチューだったのにな、用意しておいた食材が無駄になったか」
「ビーフシチュー」
「この間、圧力鍋持ち込んでおいただろう? あれで煮込めば、今から作っても、夕飯には十分に間に合ったんだが」
「夕飯」
「男爵イモがホロホロに煮崩れて、人参もスプーンで切れるぞ。すね肉とバラ肉たっぷりで」
「仕事してくる。出来上がったら呼んでくれ」
「はいはい」
ウキウキと夢野が足取りも軽く、仕事場に入っていく。彼はイラストを描くのが得意で、今はその仕事もしている。それの方が探偵助手よりもはるかに収入もあり、夢野有芽という名前は、イラストレーターとしての方が有名だ。
とりあえず夢野の機嫌は直ったようだ。少しやりすぎた感はあるが、この程度のやり取りは、二人の間では日常茶飯事だ。それでも夢野のコンプレックスの一つである名前をいじるのはやりすぎたな、と丹野は反省して、せいぜい機嫌を直してもらおうと、夕飯の支度をすべく、服を着替えて手を洗った。
「圧力鍋ってすごいな! こんな短時間でお肉がホロホロだなんて!」
「慣れると便利なものだよ。味はどうだ?」
「うん、お前の婆ちゃんのちょっと甘くてコクのあるビーフシチューだ。でも丹野の作る方が少し酸味もあって、俺はこっちのが好きやな」
「それはどうも」
少しだけ遅めの夕飯となったが、圧力鍋のお陰で短時間の煮込みで満足のいく出来となったビーフシチューを頂く。丹野の料理は彼の祖母仕込みなので、味が似ているのだ。多少自分の好みに寄せているが。
丹野は夢野の住む駅の2つ隣の駅に、祖母と一緒に住んでいる。両親は彼が高校生の時に事故で亡くなり、母方の祖父と祖母に引き取られていた。その祖父も大学を出た年に病気で亡くなり、今は祖母と猫と小さな庭付きの家で暮らしている。
この祖母たちがお金持ちだったのと、両親の保険金で、丹野は儲けがなくても探偵事務所を開いていられるのだ。
夢野はあの後、実際に仕事に集中していた。丹野が呼びに行ってもしばらく気が付かなかったくらいだ。仕事場であるアトリエのドアを少しだけ開けておいたら、漂うビーフシチューの香りで気が付いたというのだから、聴覚より嗅覚の方が便利かもしれない。
ビーフシチューは煮込むまでの下ごしらえと、食材を炒めるという手間が終わってしまえば、あとは煮込むだけで手が空く。米を研いで炊飯器に入れてしまえばこちらも終わりだ。もう一品なにか作るかなと冷蔵庫をのぞき込めば、カットされたサラダ用の野菜があったので、それに多少のサラダも作った。
それらをあらかた頂いたところで、夢野が丹野に話しかけた。
「今日のあの探偵譚コンビな、幼稚園からの幼馴染なんだって」
「へえ」
「フルネームが探偵譚に出てくる名前というのはさっき言ったよな。最初に名前でからかわれたのは、荒馬さんの方だったんだって。漢字が宗介って書くんだけどな。今はソウスケって読ませているけれど、本当はソウカイで。だから当時、周りがソウカイって読むんだと」
「今は読みを変えたんだな」
「うん。しかもみんな、名前を呼ぶときにフルネームで呼びかけるって」
「あらまあ、そうかい? って?」
夢野はため息をついた。
「そう。しかも笑い付きで。なんで笑われているのかは分からなくてもいい気はしないだろう? そのうちに、それを周りの子供たちが意味も分からずに真似し始める」
「負の連鎖だな」
「矢名さんは、揶揄われて泣いている荒馬さんを庇っていたらしいんだけど、小学生になったら今度は彼が標的になった」
「やなかんじ、だものな」
「ついでに言うと、探偵マンガの方でも言葉のフレーズとして使われていた。アラマソウカイ、ヤナカンジー、ってな」
「子どもにとっては最悪だな」
「それでも二人とも幼少時から空手を習っていたのと、矢名さんの体が大柄だったのもあって、酷いいじめに発展するのは食い止められた。何度も二人でいじめっ子を返り討ちにしてたらしい」
「不幸中の幸いとでもいうか」
「うん。で、最初は探偵ものとか大嫌いだったって」
「からかいの元だものな」
「いじめられた経験もあって、二人は早い時期に警察官になることを決めたそうだよ」
「ふむ、探偵は絶対に嫌だけれど、弱気を助け正義を貫きたい、という所か?」
「それもあるけれど、そのマンガの中で、荒馬宗介は探偵なんやけど、矢名完次は、泥棒なんだよね」
「絶対にマンガの登場人物から離れたい、という心理が働いたのかな」
「そうらしい。まあそれでも警察でも名前っていじられやすいだろ? 川下さんみたいに」
川下は下の名前を
「早く本物のケイジになれ、だな」
「川下さんは捜査一課の方々に可愛がられているから、まだマシかもしれないけど、二人はいじられたくない一心で上を目指して、二人でそれを成し遂げようと、ずっと二人でコンビを組んでいるらしい」
「だが普通は、同期二人が同じところに赴任と言うのは珍しいぞ?」
「うん、聞いてみたら、特別扱いらしい」
こどものころから名前でいじめられた彼らは、体術だけでなく、口でも負けないようにと図書館に通い詰めて知識も詰め込んだそうだ。おかげで成績も良かった上に、その図書館で推理小説に出会った。
パズルを解くように、小説世界の謎に惹かれた二人は、図書館にあった推理小説を読破して、自分たちの夢を決めた。
絶対に探偵にはなりたくないけれど、泥棒とも縁遠い所。警察に入ろうと。大学も法学部を選んだ。
「何せずっと二人で推理小説を題材に喧々諤々ディスカッションしてきたおかげで、警察学校に入学した時点で、並み以上の知識があったそうだ。それで配属されてからもあれこれ推理して捜査してみると、これが検挙率が高かった」
「なるほど、例外的に二人で組ませておけという事か」
「うん」
「経緯は分かった。で? 彼らが嫌いだったはずの探偵を、実は無意識にやっているというオチを聞かせるために延々話したんじゃないんだろう? 本題は何だ?」
丹野は食後のコーヒーを淹れるべくテーブルから立ち上がる。ついでに食べ終わった食器も持ち上げると、夢野はまだ少し残っていたサラダを口に入れた。
それを横目で見ながら、用意してあったコーヒーをそれぞれのカップに入れてテーブルに戻る。ちょうど夢野が食べ終わったタイミングでそれを差し出すと、ありがとうと言って、今度は夢野が食器を持って立ち上がった。
流しに食器を置いて、冷蔵庫から牛乳を持って戻る。
自分のコーヒーには少し、苦いのが苦手な丹野のカップにはたっぷりと牛乳を入れ、冷蔵庫に戻して、席に戻る。
「彼らの助手にならないかと誘われた」
「……は?」
「彼らはどちらかが探偵役というよりも、二人で探偵なんだな。まあ彼らがいう探偵はホームズとか御手洗さんとからしいんだけど。そうすると、ワトソン役がいない。俺は、探偵の助手を務めているだから、最適だって」
「まてまて。刑事に民間人の助手なんてあり得ないだろう」
「俺もそう言ったんだけど」
「まあ、お前が個人的に助手をしたいというのであれば、俺には止める権利はないけれど、くれぐれも警察に迷惑をかけないようにだけしてくれよ?」
「え、俺が彼らの助手をやってもいいの?」
夢野がカップを両手で持って、意外そうに言う。丹野は牛乳のお陰でぬるくなったそれを、一口飲んだ。
「お前は確かに俺の助手だけれど、申し訳ないくらいの給料しか出せていない。だから、お前の好きにしていいさ」
「ふうん」
夢野が面白くなさそうに相槌を討つ。丹野はそれまでの苦笑のような表情から、真顔に改めて言った。
「ただし、その誘いが迷惑だったり断りたいのなら、俺が許さないと言えばいいし、なんなら俺が断ってやる。……どうする?」
丹野がそう言うと、夢野はカップを持ったまましばし考えて、やがて首を横に振った。
「受けるにせよ断るにせよ、自分でやるからいいよ、大丈夫」
「分かった。でも何かがあったらすぐに言ってくれ。ほうれんそうは大切だぞ」
今度は夢野が苦笑した。
「なんだよ、自由にしろと言ってみたり、報連相だと言ってみたり」
「お前が自由参加してくれているとはいえ、警察には俺の助手として認識されているんだ。助手の行動を俺が知らないと問題になる」
「分かった。適宜、報告する」
「そうしてくれ。それに」
そこで丹野は言葉を切って、コーヒーを一気に飲んだ。
「それに?」
「……いや、あまりにおかしな推理を披露してクビにならないように気をつけろよ」
「余計なお世話! ごちそうさまでした! 美味しかった! やっぱり丹野のビーフシチューは絶品だな」
夢野が皿を持って立ち上がった。
「どういたしまして。風呂が沸いているぞ。凝り固まった肩をほぐしてこいよ」
「先に洗い物するからいいよ、君が先に入れ」
夢野は言いながらすでにエプロンを付けている。
この家では基本的に作っていないほうが後片付けをすることになっている。それは丹野も良く知っているのだが、今回は夢野を少しからかい過ぎたので、お詫びも兼ねてのご機嫌取りをしようとしたのだが、あえなく却下されてしまったようだ。
ここで意地を張ってもかえって怒らせてしまうだけだろう、と丹野はありがたく風呂に入ることにした。
風呂を交代して、丹野が持ち込んだノートパソコンでニュースをチェックしながら仕事をしていると、思いついた思いついたと夢野がドタバタと風呂場からアトリエへ駆け込んでいった。悩んでいた表現方法を思いついたらしい。
一応確認した所、服は着ているし髪も乾いていたから大丈夫だろう、丹野は暖房が外に漏れないように扉を閉めて、ソファに戻り、今日の事件を振り返った。
夢野の言う通り、あれはダイイングメッセージなどではないだろう。ページの破れ方も、そのページを選んで破り取った、というよりは、ちょうど書き込んでいたページの上に倒れ込んで掴んでしまった、という印象だった。なぜならば他のページも一緒に掴んだあとがあり、少しだが破れていた。完全に破り取れたのがあのページだったというわけだ。
もう一つの絵の方は被害者の近くに落ちていた。これも机の上にあったものが落ちただけ、と考えた方が自然だ。
だが川下たちが暗号ではないかと考えたのも無理はない。あれほど意味ありげに握っていれば。
だが、襲われて、絶命するまでにわざわざあのページを開いて、破り取るというのには無理がありそうだ。
死因はあの時点では判明していなかったが、丹野たちが帰ったあとに後頭部を強打したことによる脳挫傷だと判明した。その凶器となったものが何かは現在捜査中だと海山から連絡が入っている。
何かに足を滑らせて転んだとすれば、その時に何かに掴まろうと足掻いて、雑誌のページをつかんでしまった、と言うのは考えられる。
その場合、あのページであったことに意味はない。ただ単に開いていたページだという事になる。
殺人事件だとすれば、あのページを選んだという事が考えられなくもないが、その場合は殴られたあと、犯人が立ち去った後であのページを選ぶ必要がある。しかし雑誌が置いてあったテーブルには血などの跡はなく、被害者が倒れていた場所に流れた後頭部からの血だまりが、一度起き上がったという様子には見えなかった。やはり殴られた時に掴んだと考えるべきだろう。
そうなるとあのページを掴んだのはただの偶然で、夢野が言うとおりにダイイングメッセージなどではない、という事になる。
その上、暗号ではと疑われたが、実際はあの言葉では、まず関係がないだろう。
「あり得るとしたら、犯人が来るのを知っていて、なおかつ解いたあの2つの文が偶然にも犯人を連想させるもので、犯人に見せようと事前に準備をしていた場合だけだな」
そしてそれがまったくない、とは言い切れない。
それにあの雑誌には初心者から上級者まで楽しめるように、それぞれの問題にレベルが明記されていた。そうして被害者が握っていたのは上級用だった。パズルに慣れている──マニアの域に達している──夢野ならともかく、現場の捜査員では解くのに苦労しただろう。だから時間短縮のためにも夢野を呼ぶというのは正しい選択だ。
夢野のクロスワードのレベルは、超上級、特級あたりだから、中級程度ならば一瞬で解いてしまうのが常だ。小学生のころからたしなんでいるというし、実は謎を作る側の人間なのだ。作り手であれば、最短の解き方も分かっている。
だから最善の人選だったと言えよう。ただし、本人が暗号を非常に楽しみにしていたことを除けば。
とはいえあの反応には丹野も驚いた。あそこまで露骨に態度に出すことなど、今までもほとんどないのに。あとで理由を確かめて、場合によっては注意しなければならないかもしれない。
その後、仕事のチェックも終わったので就寝すべく、歯磨きと着替えを済ませてソファで毛布布団を抱えて横になる。前回来た時に、夢野がこんな近くの大手スーパーで見付けた! と嬉しそうに見せてきた、掛布団と毛布が一緒になっている掛布団だ。布団なので中に綿が入っているが、外側の生地がフランネルなので、柔らかい暖かさと軽さが良い。これ1枚では真冬は寒いのでさらに羽毛布団を被るが、確かに今までよりも軽くて暖かい。それを自分のために買ってくれたというのが嬉しい。
夢野はアトリエにこもったままだ。締め切りが近いとは聞いていないから、そんな無茶はしないだろうと、丹野は布団にくるまって目を閉じた。
**
その後、暗号もどき事件(夢野命名)は、司法解剖の結果、殺人事件と断定された。後頭部の傷と一致する物が部屋の中になかったのと、マンション前の民家の防犯カメラに、被害者が帰宅後、一人だけ住人でも配達員でもない人物がマンションに入り、すぐに出て行っていた姿が写っていた。その人物が他の部屋の客ではなかったのも確認済みだ。ただしマンションを映していた物ではないため、人相などは分からない。
暗号に関しては、一応視野に入れて捜査が続いているが、当然、柿やダンスに関する人物はあがっていない。
丹野はあの次の日には自分の家に帰っている。報告は川下から随時聞いているが、目当ての暗号が解けた後では、丹野の出番はない。
夢野の捜査時の態度については、もろもろ注意しようと考えていたが、本人が朝、起きてきてすぐに丹野に謝罪してきた。
暗号を楽しみにし過ぎていた、その上現場に行ってみたら、一生懸命に暗号を解いている捜査員がいるのを見て、自分がその楽しみを奪ってしまっていいのか、と迷ったのだと。推理小説好きやパズル好きには厳禁のネタバレになってしまうと考えてしまうのは、もはや習性だ。しかも両方自分には難しくない問題で、がっかりしたのと、ネタバレしてしまう申し訳なさであんな態度を取ってしまった。でも事件現場であり不謹慎だったうえに、誰よりも被害者とその遺族に申し訳ない事をした、と神妙に頭を下げられては、それ以上に注意の使用が無かった。もう二度とやるなよとため息交じりに忠告だけして、夢野も神妙な面持ちで二度とやらないと約束したので、この件も終了だ。残りのビーフシチューを早めに食べるように言って、丹野は家に戻った。
そこから夢野とは特に連絡を取っていない。丹野は猫探しが忙しく、夢野の方も順調に仕事をしているらしいので、いちいち連絡をしていないだけだ。
そうして前回の事件参加から2週間後、事態が動いた。
「丹野さん、先日の暗号らしきものの事件に展開がありました。ご登板願えませんか? 夢野さんとご一緒に」
事務所にいた丹野の元に、海山から連絡がきた。丹野は了承し、もろもろの用件を済ませてからマンションで仕事をしている夢野に連絡をした。
「あー、うん、さっき連絡貰った」
「そうだったのか。用事を済ませていたから、海山さんの方が早かったか。俺は今回、車で行くけれど、お前はどうする?」
事件現場が夢野のマンションの方が近い。ただし駅から遠いらしいので、車移動の方が何かと便利だと判断した。夢野の車と2台の車で移動するよりは一台の方が効率がいい。
事件現場に向かうには車移動の方が便利だから、夢野を警察の車でピックアップしてもらって、帰りは丹野の車で一緒に移動でも良いのだ。
「あー、うん……」
「なんだ、煮え切らない奴だな。もしかして、イラストの仕事が忙しいのか?」
今回の参加は無理だったのかと思ったのだが、夢野は違うという。
「ならなんだよ」
「あのな……、実は今、すでに覆面パトに乗せてもらって、移動中なんだよ」
「はあ?」
「電話と同時に迎えがマンションに来てくれてて」
「はあ? 川下さんが?」
「いや、その……」
どうにも夢野の歯切れが悪い。丹野とほぼ同時に連絡が来て丹野より先に臨場しているなど、別に珍しくない。警察からの迎えもしかり。
ただその場合、夢野はそういう事になったと必ず丹野に報告してくるはずなのだが。
「うう、あのな……あっ!」
「ユメ?」
何事かあったのかと呼びかける丹野に、答えたのは別の声だった。
「丹野先生ですか? 荒馬です。今回、夢野さんを助手としてお借りしたいと思いまして」
笑いを含んだユメよりも低めのテノールの声に、丹野は思わずスマホを耳から離して凝視してしまった。
その眼前のスマホから再び荒馬の声が聞こえて来て、丹野は慌ててスマホを耳にあてた。
「夢野さんから、私たちの助手をやることを丹野さんが反対しなかったと聞きました。前回の暗号事件とかかわりのある事件のようですので、ぜひとも夢野さんのその知恵を借りたく、直接お伺いしてお願いした次第なんですよ」
「……はあ」
なるほど、それでは夢野が断れなくても仕方がないだろう。
「ご許可いただけますよね?」
荒馬の口調は、確認の形を取ってはいるが、断られるとは考えていないものだった。そして事実、丹野は断れない。すでに夢野が『丹野は反対しなかった』と言っているのだ。
もちろん夢野は丹野の助手だというのが、警察関係者の認識だ。探偵事務所の個人的な調査に貸し出すならともかく、警察の助手はダメだと断ることも出来なくはないが、夢野が了承しているのならば反対は出来ない。
「夢野が良いと言うのなら、どうぞ」
「ありがとうございます。夢野さんにはご了承いただいてますから、ご安心ください」
相変わらず笑いを含んだ声の荒馬が礼を言い、スマホを夢野に返したようだ。くぐもった声で何事か言い合う音声の後に、不満げな声の夢野が出た。
「貸し借りって、俺は品物と違うぞ」
「前にも言ったけれど、お前が助手を務めてくれるかは、ユメの自由だ。ユメが承諾したのなら、よほどの理由がない限り、俺は反対しないよ」
それにフン、と不満そうに鼻を鳴らす音が聞こえる。
「……断りたいのか?」
「いや、別に」
「それならしっかり助手を務めてくれ。いつもの迷推理、期待しているぜ」
「なんか今の言葉には悪意を感じたんだけど?」
「気のせいだ。俺ももう出るから切るぞ。現場で逢おう」
「分かった。じゃあな」
「ああ」
丹野は画面の消えたスマホを見ながらため息をついて、しかしすぐに出かける支度をすべく、コートと鞄を手に取った。
**
現場は最寄駅から車で20分のアパートの3階の一室だった。待ち構えていた川下に連れられて行ってみると、部屋の前に規制線が張られていた。
アパートの部屋は2DK。入ってすぐに左手側にキッチンがあり、壁伝いにユニットバスの部屋、右手側には食器棚と冷蔵庫があり、冷蔵庫の向かいに洗濯機が置いてある。
そして壁とドアで仕切られた先が8畳のリビング兼寝室だ。
入って左手側にベッド、その足元にクローゼット、中央にちゃぶ台とクッションが2つ。右手川には本棚と木製のボックスを積んだ収納スペースがある。
夢野は向かい側の窓の側の、書き物机の横に荒馬たちと立っていた。
「お、丹野が来た」
そう言って彼らから離れて歩み寄ってきた。
「まずは状況を説明してくれ」
分かった、と夢野はベッド脇まで丹野と共に移動してから、説明を始めた。
「今日の10時、被害者、秋野夕陽氏が無断欠勤が3日続いたことで、会社の同僚2人が部屋を訪ねて発見した。ちなみにこの被害者、無断欠勤の常習者で、1日くらい連絡が取れなくても誰も心配してなかったそうだ。しかし流石に3日も連絡も取れないとなると、勤務先もこれ以上は見逃せないと、最後通告も兼ねて部屋に来たそうだ」
「なるほど」
「ちなみに部屋の鍵はかかっていなかった。チャイムを鳴らしても出ないし、スマホに電話したら部屋の中でなっている音がする。隠れているのか、とドアノブを回したら開いたから、不用心だと思いながら部屋に入った。被害者は窓辺に頭を本棚の方、足がベッドの方に向けて倒れていた。部屋が荒らされた様子は特になく、ちゃぶ台の上に本が開いてあって、本人は紙を握りしめていた。後頭部には血がべったりと付いていたし、同僚たちはそりゃもう慌てて部屋を飛び出したところに、隣の部屋の住人と鉢合わせて、腰が抜けた状態で通報を頼んだそうだよ」
「死亡推定時刻は?」
「だいたいだけど、昨晩22時から24時の間らしい。21時45分に近くのコンビニで被害者が夜食を買っているのが防犯カメラに映っていたし、レシートもある。司法解剖はこれからやけど、夜食のパンを食べたゴミもあるし、22時にこれから夜食を食べるからと友人たちとメッセージアプリでやり取りをしているから、まず昨晩まで生きていたのは間違いはない。でもそれ以降は既読もついていないって言ってた」
「ふむ。それで暗号未遂事件とのつながりは?」
「そこの机の上の本が、クロスワードパズル。そして被害者の近くに踊る人形の書かれた紙が落ちていた」
「その内容は?」
夢野が腕を組んでため息をついた。
「ちょうせんじょう、と、ミステリー、だった」
「クロスワードは解かれていたのか?」
「いや。まだ手付かずだったよ。そもそもこの被害者がクロスワードが好きとは思えない。本棚はあるけれど、ほとんどが自己啓発本とエッセイ、それとバイク雑誌だ。ああ、被害者はバイク好きだそうで、今は乗ってないけれど、学生の頃は改造バイクにも乗っていたらしい」
「本人が買うはずのないクロスワード本に、知るはずのない踊る人形、か? 本を犯人が持ち込んだ?」
「今のところの見解はそうなっている」
「しかも『挑戦状』と来たか。連続殺人の可能性が出てきたわけだな」
夢野が大きくため息をつく。前回、暗号は関係ないだろうと指摘したのが夢野なのだ。それが実は犯人からのメッセージだったとしたら。夢野の発言が事件をミスリードしてしまったことになる。
「ゴメン、丹野。俺が余計なことを言ったばかりに」
夢野が頭を下げたタイミングで、出向コンビが近づいてきた。
「あのメッセージは捜査対象の中に入っているから、夢野さんが余計な事をしたとは誰も思っていませんよ」
「そうだぜ。気にすんな。それに今回だって速攻メッセージを解いたのは有芽なんだしよ」
矢名が夢野の名前を呼んだ時、丹野の眉がピクリと動いたのを、荒馬が見ていた。
「いえ、メッセージを解いたのはともかく、余計な発言をしてしまいました」
「でも夢野さんはそれがウリでしょう?」
「ウリ……」
夢野の目が座る。しかし気が付かない様子で荒馬は楽しそうに続けた。
「皆さんそうおっしゃってますよ。あなたが思いつく荒唐無稽な話を聞くのも一つの楽しみだと」
「……褒めてないですよね、それ」
「褒めてんじゃないの? こんな殺伐とした中で、あの漫才聞けたら緊張も解けるだろ?」
「矢名さん、やっぱり褒めてないじゃないですか」
「褒めてるんだって」
豪快に笑いながら、矢名が夢野の背中を軽くたたいた。その横で、荒馬が丹野に言う。
「今回、夢野さんをお借りしましたが、本当にあっという間にクロスワードを解いてしまって驚きですよ。前回はもしかしたら川下さんがクロスワードの写真を事前にお二人に送っていて、来るまでに解いていたのではと思ったのですけどね、本当に一瞬で解くんだから、凄い人だ」
「……クロスワードは得意ですからね、夢野は」
丹野が低い声でボソリと答える。まさかそんな疑惑を二人が抱いていたとは思いもよらなかった。それで今回、夢野を試す意味で助手だとか言い出したのか。
「まあ今回夢野さんをお借りしたのは、それだけが目的ではないですよ。本当に彼と話をしていると、事件の行き止まりが良く見える」
「あ、また褒めていると見せかけて、褒めていないパターン!」
「褒めてるんだよ。本当にね」
荒馬と矢名の二人が夢野の肩を叩いて笑う。
「今回も、クロスワードが本人のものではないというのにいち早く気が付いたのは夢野さんでした。踊る人形の解読も、夢野さんがいなかったら手間取る所でしたしね」
「お役に立てたのなら良かったですけど」
頬を膨らませた夢野の声には多少のトゲが生えているが、二人は気にした風もなく、互いで話し合っている。
「しかしそうなると困ったことになるな」
「ああ、犯人が同じという可能性が高い」
「ならば被害者同士に接点があるはずだ」
「まずはその辺の捜査だな」
「ちょっと、お二人で勝手に決めないでください」
二人のやり取りを少し離れた所で耳を大きくして聞いていた川下が、慌ててやってきてクギをさした。
「どうせそういう方針になるんだろう、早めに動いたって問題ないない」
「あります、お願いですから勝手に動かないでください」
どうやら二人は独自に捜査をするらしい。丹野は眉をひそめたが、自分のやるべきことをやろうと、現場を見て歩くことにした。
丹野は被害者の倒れていた付近を見に行った。
夢野は一緒に行こうと動きかけたが、それよりも早く矢名に、あんたはこっち、と二人と共に部屋の外へと連れだされた。
丹野が見分し終わって部屋を見回すと、夢野がどこにもいなかった。川下がすぐに出向組と建物の外にいます、と教えてくれた
部屋の外には出向組2人と夢野が、同じ階の住人に聞き込みをしている所だった。
二部屋先の彼らの元へ向かおうとすると、あちらが気が付いて手招きをしてきた。
「丹野、この部屋の住人が、昨晩コンビニに出かけた時に被害者が部屋に入っていくのを見てたんだって。22時に」
「被害者は一人だったそうだ」
「そうですか」
丹野もいくつか質問をしたが、そのほかは知らない、という隣人に礼を言って、5人は捜査陣の邪魔にならないように、階段を使って地上に降りた。
「下の部屋の住人が23時前に大きな物音を聞いていたよ。それが犯行時刻の可能性が高いね」
荒馬の報告に、矢名が頷く。
「捜査会議では今回の被害者と前回の被害者の接点を調べることが中心となるだろうよ。俺たちはどう動く?」
「そうだねえ、夢野さんは、今回の事件、どう思ってます?」
「……どう、とは?」
「ユメ、いつも通り、思いついたことをどんどん言ってくれないか?」
「今回俺は君の助手ではないんだけどな~」
「それなら先に、丹野さん、どう思う?」
「そうですね、部屋はあまり荒らされていなかったように思います。逆に雑然とした様が、知らない人を迎えるような感じにも思えませんでした。ですから犯人は顔見知りなのではないかと思います」
「ほうほう」
矢名が面白そうに相槌を打って、先を促す。
「被害者は後頭部を強打されているんですよね。凶器はあったのでしょうか」
「まだ見つかっていませんよ」
「ならば犯人が持ち去ったか……。近くの防犯カメラを見れば手掛かりがつかめるのではないでしょうか」
「なるほどね。じゃ、夢野さんはどう思った?」
丹野の横で腕を組んで聞き役に徹していた夢野は、自分にお鉢が回ってきて困惑しているようだ。丹野が再度発言を促す。
「私は前回のはやっぱりダイイングメッセージではなかった、という事と、二人にはつながりはないように思う、というだけです」
「へえ、その根拠は?」
矢名の問いに、夢野は彼を見つめて答えた。
「二人の本棚の違いです。最初の被害者は本好きでした。ジャンルは多岐にわたっていたし、流行りの本が多かった。ミステリも警察小説とかいわゆる推理もの、ラノベも少々ありました。でも今回の被害者は実用書と趣味の本ばかり。共通点があったとは思えません」
「知り合いでは、ないと?」
「もちろん職場関係の知りあいだったとしたらわかりませんけれど……」
「前回の被害者は一般事務、今回の被害者は工場勤務だな」
「住居も離れすぎている。コンビニの常連で顔見知りになった、という事もなさそうだ。でもつながりがない二人に同じような暗号が残されているのは、どう説明するんです?」
「誰かが置いただけなんじゃないですか」
「なんだそれ、あり得ないだろう」
矢名が夢野の思い付きを笑い飛ばす。荒馬も苦笑しながら言った。
「それなら夢野さん、貴方なら何から捜査をしますか?」
その問いに、夢野は首を横に振った。
「それは分かりません。私は見て、感じた事を言っているだけですから」
「おっと、流石に探偵助手を長年務めるだけの事はある。堅実な発言だ」
矢名がふざけるが、夢野は乗らない。
「では丹野さんは? これらの助言をもとに、何を捜査すべきだと思う?」
「それは班長さんや海山さんが考えることで、私が指示する事柄ではありません」
「おやこちらも固い。でもいつもは助言するんでしょう?」
「気が付いたことがあれば、お伝えすることもありますが、今はまだ何も。多岐にわたる捜査が基本でしょう」
「そりゃあつまらない発言だ」
矢名の発言に荒馬も苦笑した。
「防犯カメラは所轄がやるだろう。俺は夢野さんの説を調べてみたい気がするね」
「彼らが知りあいでないという、帰無仮説か? それも面白そうだ」
帰無仮説とは、証明したい命題とは逆の、否定されるべき仮説の事だ。文字通り、無に帰す、否定されるべき仮説という意味になる。
「彼らが知り合いでなければ夢野さん説が有力となるし、その捜査過程で知り合いであると証明されれば、やはり連続殺人であるという証明になる。一つずつ調べるよりも早いだろう」
「そうするか。有芽、また今度助手をしてくれよな、連絡するから」
「嫌ですよ、他をあたってください」
「おや冷たい。丹野さん、また夢野さんをお借りして良いかな?」
「……夢野が承諾するなら、どうぞ」
「ってことだから有芽、次回もよろしくな! あ、俺たちは捜査に出るから、帰りは川下さんか丹野さんに送ってもらってな」
そう言うと、二人は足早に現場を後にした。
「いいのかあれ……」
「証明の手法としては間違っていない。あの二人の検挙率、結構高いだろう? なら任せておいていいんじゃないか?」
「それならいいけど」
「それよりもユメ、二人もいなくなったことだし、お前の推理をもう少し聞かせてくれ」
「今回俺は君の助手じゃありません~」
「いけずを言うなよ」
「ぼ、僕も聞きたいです!」
いつの間にか近づいてきていた川下が、目を輝かせて言う。この探偵と助手の発想は、川下の想像を簡単に超える。その着眼点をいつも見習いたいと思っているのだ。
その勢いに押されたのか、夢野は仕方がなさそうにしゃべり始めた。
「俺はやっぱり前回の暗号は、暗号じゃないと思う」
「それはさっき聞いたな。折角だから帰無仮説で行こうか。やはり連続殺人だったとしたら、どうなる?」
丹野の問いに、夢野は腕組をして遠くを見た。
「どうなる……って。そうだなあ、二人は昔の知りあいだった、とか」
「交友関係を洗っていけば、それは証明できるだろう。それで?」
「その頃に二人とも悪さをしたんだな。酷いイジメをしていたとか、暴走族だったとか」
「ふむ」
「その時のいじめ被害者Xが、虎視眈々と復讐する機会を狙っていた」
「それがこのタイミング? まあその不自然な点には目を瞑ろう。それで?」
「君こそイケズだな。何かがあったんだろう。偶然どちらかに再会したとか、そんなのが。しかも相手は自分をいじめていた事すら覚えてなかった。もしくはまたいじめられそうになったかした」
「それで復讐、もしくは殺害したか。それで暗号は?」
「そのXがクロスワード好きだったんじゃないか? 最初の被害者の所にそんなものがあったと分かれば、犯人に心当たりがある今回の被害者が怯えるかもしれない。そう思ったけれど気が付かなかった、もしくは逆ギレしてきて……」
「第2の犯行に及んだ、か。穴だらけの推理だな」
「やかましい!」
「ああ川下さん、今の会話は絶対に外に漏らさないようにしてくださいね、我々のただの世間話ですから」
証拠も何もない、ただの憶測だ。便所の落書き、チラシの裏の落書きみたいなもので、刑事に聞かせるようなものではない。だがこれが丹野の推理に役に立つことがある。
「あ、はい! わかってます、夢野さんの憶測ですよね」
川下はニコリと笑って答えた。交友関係は過去までさかのぼってみるべきだと心にメモをして。
「憶測言われた!!」
「いいんだよ、ユメはそれで。それでいいんだ」
「ムカツクーー!」
「今日はこれで帰ろう。海山さんに挨拶してくるからここで待っていてくれ」
丹野はそう言うとアパートに戻っていった。
残された二人はそのままその場で10分ほど待っていた。丹野が戻ってくると、車に夢野を乗せて、二人はそれぞれの家に帰宅した。
**
後日、猫が見つかったからと遺失物の届を取り下げに来たに丹野は、そこで捜査員の一部に夢野への苦情を言われた。
曰く、最初の捜査で夢野が暗号ではないなどと発言しなければ、今回すぐに連続殺人として認定されたのに、とか、交友関係を徹底的に調べたのに、などと。
丹野はそれらを黙って聞き、頭を下げて、夢野に厳重に注意します、とだけ言ったが、彼らの夢野に対する風当たりは止まなかった。そのため、それ以降のこの事件の捜査に夢野が参加することはなくなった。
捜査は難航し、もう一度1件目の佐藤氏の交友関係を洗いなおしていた。同時に2件目の秋野氏の交友関係も徹底的に捜査している。だが両者を結びつけるものは見つかっていない。
それらの報告を、海山に呼ばれて所轄署の一室で聞いていた丹野の元に、出向組の二人がやってきた。
「今日は夢野さんとご一緒できなくて残念だよ」
「有芽のせいじゃないのになあ、八つ当たりってやつだな」
丹野は苦笑だけにとどめた。
「お二人の調査で、二人の被害者に接点はありましたか?」
「いや、まるで見つからない。小中高も全く違うし、家が近所だったなんてこともない。職業上での接点もないし、趣味も全く違う。どう調べても接点が出ないんだ」
「その点は夢野さんの言う通りでしたねえ。しかし暗号の謎が残る。丹野さんはどうお考えですか?」
「仮説は立てていますが、まだお話出来る状態にありませんね」
「お、さすが名探偵! そりゃ、有芽の説を支持しているのか?」
「ノーコメントです」
「なんだよ、そのくらい教えてくれたっていいじゃないか」
「夢野の説を含めて全てを考慮しています。ですが決め手が見つからない。ですからまだお話出来る状態にはないんですよ」
「その決め手が見つかったら、どうやって捜査するんです?」
荒馬の言葉に丹野は彼を見た。
「捜査は警察の仕事です。私は助言をするだけです」
「まったくお堅いねえ。まあいいさ、俺達も俺たちなりの仮説を立てている。どちらが早く真相にたどり着くか、勝負だな」
「勝負にはなりませんよ」
ため息交じりに言う丹野を、二人は睨みつけた。
「おいおい、決め手に欠けると言ったくせに、ずいぶんと強気だな!」
「誤解しないでください。私はあなた方と勝負をするつもりなどありません。気が付いたことはすぐに捜査陣に伝えます。それはあなた方にもすぐに伝わるでしょう。犯人を確保するのは警察の仕事ですから、勝負にはなりません。私が勝負をするとしたら、それは犯人とです」
「犯人?」
「ええ。この卑怯な手法を考え出した犯人を、逃がさないように手を打つ。それが私の勝負です」
決して大きくない声だったが、きっぱりと言い切った丹野に、廊下を通りかかった捜査員が立ち止まった。ドアを開放しているので、中の会話は外に聞こえていたのだ。
犯人を逃がさない。それは捜査員も同じ思いだ。
「今日はこれで帰ります」
丹野はそう言うと荷物とコートを持って班長に挨拶に行った。残された荒馬と矢名はそれを見送りながら言った。
「手堅いねえ。手の内を俺らにもさらさない。捜査も徹底的に警察に任せている」
「これで彼に独自に捜査されたら、警察形無しになるかもしれないな」
「だからウザイ位に捜査は警察に任せていると宣言しているのかね」
「それにしても、あの探偵、もう犯人が分かっていると思うか?」
「どうなんだろうな。有芽も口が堅いし、俺にはまだ犯人のしっぽもつかめねえんだけどな」
「俺もだ。被害者に接点が無さすぎる。だがあの暗号がある限り、接点がないわけがないんだ」
「それをどう説明するか、か。有芽的なのりで考えてみるか」
「よし、じゃああのコーヒーの美味い喫茶店にでも行くか」
「おお。どうせなら有芽も連れて来たいけれど、この雰囲気じゃあ無理だろうなあ」
「それ以前に本業の締め切りが近いと断られたじゃないか。この間呼び出した時も、捜査の話はしないと断られたし、実際に雑談しかしなかったしな」
「有芽、あれで聞き上手な上に話上手なんだよなあ。そのくせ自分の事は最小限しか話さない」
「まあ俺らが次の場所に派遣されるまで、まだ時間はあるから、たまに食事に誘おうぜ」
「そうしよう。じゃ、とりあえず二人だけの捜査会議といきますか!」
二人が会議室から出て行く姿を、挨拶の終わった丹野がじっと見ていた。
**
夜の路地裏を一人の男が歩いている。飲食街の外れなのだが遅い時間なので、周りの店はすでに閉まっていて、ひとけもない。店の電気も看板の明かりもすべて落とされているので、街灯があっても薄暗い。
その男は店で酒を飲んでいたのだが、ついうっかり飲み過ぎて店内で寝てしまった。閉店まで寝かせておいてくれたが、さすがに帰れと起こされて、フラフラとあちらこちらをさまようい、あちこちでうたた寝しているうちに、すっかり遅くなってしまったのだ。
そして少し酔いがさめ、寒さでようやくはっきりと目が覚めて帰ろうと思ったのだが、すでに自分のいる場所が分からない。あっちこっちとさまよっていたら、周りに人気も明かりも無くなってしまった。
その頃になってようやくスマホの存在を思い出して、位置情報を確認して、帰途につき始めたのだが。
誰もいない路地裏に、自分以外の足音がすることに気が付いた。男は訝し気に後ろを振り返ったが、誰もいない。おかしいなと首をかしげながらまたフラフラと歩き出すが、どうにもコツコツという自分のものではない足音が聞こえる。気味が悪くなって足早に立ち去ろうとすると、その足音も追いかけてくる。だが見回してもだれもいない。
気が付けば男は走っていた。それでも足音が聞こえる。男は必死になって走ったが、所詮酔っ払い、直ぐに足がもつれて無様にも顔面から転んでしまった。
「いててて」
呻きながら起き上がった男の前方に、人の足が見えた。そのまま目線を上げていくと、暗くてよく見えないが、確かに人が立っている。
「なんやお前!」
酔っ払いの常で、とりあえず威嚇する。しかも転んでいるという恥ずかしい所を見られてしまった羞恥心も相まって余計に強気に出ながら、よろよろと起き上がった。
相対してみても暗くて相手が男らしい、という位しかわからない。
「なんだぁ? 俺様が転んだのがそんなにおかしいんか」
男は相手に近付いて、しかし怯んだ。
近づいてみると、相手は黒っぽいパーカーを着ていた。頭にはそのフードを被って、マスクも着用しているため、顔は全く見えない。
そういえば自分のマスクはどこへ行ったかな、などと頭の隅で考えていると、相手の手が動いた。思わずそこに視線が行く。
その時、相手が手に何かを持っていることに気が付いたのだ。
だが酔った頭では正常な判断が出来なかった。男は更に威嚇しようと一歩を踏み出したところで、相手がいきなり自分に向かって走ってきたのだ。
「な、なんだぁ!?」
慌てて逃げ出そうにも酔った体は言う事を聞かない。よろよろと何とか方向を変えた時には相手はすぐそばに近寄っていて、その手のものを振り上げた。
街灯の弱い明かりが、その手のものに反射する。だめだ、避けられない、と思った時だった。
「やめなさい!」
強く低い声が飛んだ。
それに今まさに襲い掛かろうとしていた相手の動きが止まる。
「止めなさい。そんな事をしてはいけない!」
その声に戸惑ったように動きを止めた相手の脇をなんとかすり抜けて、男はその低い声の方に駆けだした。
こちらも暗くてよく見えないが、手に持っているらしい懐中電灯のお陰で場所が分かる。その背の高い男の横にはもう一人、ひょろひょろの男らしき人影があり、それが男を手招きして手を広げていたので、男はそちらに必死に走った。
襲ってきた男はその二人の出現に躊躇したようだが、再び男に向かって走り出した。
「止めろ! やめるんだ!」
懐中電灯の男の制止の声が飛ぶが、襲撃者は止まらない。男はよろめく足でなんとかひょろい方へと必死に走っていたが、もう少しという所でまたもや足がもつれて転んでしまった。
その瞬間、ひょろい方が男の横をすり抜けた。男が必死に首を動かして見たのは、片手をあげて走ってくる襲撃者に向かっていくひょろい男。
両者が間合いに入った、と思った瞬間、ひょろい方がポンと軽く飛び上がり、そのまま見事な回し蹴りで襲撃者の手を蹴った。
「ぎゃあ!」
襲撃者の悲鳴が聞こえ、離れた場所でカラン、という音が響く。低い声の男がしりもちをついている男の前にかばうように立ち、言った。
「そこまでだ。もうよせ!」
「チィッ!」
襲撃者は舌打ちをすると、踵を返して走り出した。
「ユメ! 追ってくれ! だが深追いはするな!」
「了解!」
白ジャケットの声にひょろい方が答え、そのまま襲撃者を追っていく。
呆然とそれを見ていると、白ジャケットが男の前にしゃがみこんで声をかけてきた。
「お怪我は? 救急車を呼びますか?」
「だ、大丈夫だ、必要ない」
「それならよかった」
そう言って懐中電灯を持つ男は立ち上がり、二人が消えた方角を見ていたが、やがて懐からスマホを取り出すと耳にあてた。
「ユメ、どうだった? ……バイクで逃げた? 分かった、戻ってきてくれ」
通話を終わらせると、白ジャケットは男を見下ろしながら言った。
「相手に逃げられてしまいました。警察に通報しましたので、あなたもご協力お願いします」
**
それから2日後。丹野と夢野、荒馬と矢名、班長、海山、川下と制服捜査員二人が、最初の被害者の部屋に集まっていた。
「今日はお呼び立てして申し訳ありません。今回の事件が判明したので、ご説明したいと思いまして」
そう言いだしたのは丹野だ。それに矢名が驚愕の声を上げる。
「判明した!? 犯人がか!?」
「ええ、犯人も、その手法もすべて」
丹野の力強い頷きに、荒馬が目を見張る。ただでさえ眼光の強い男だと思っていたが、今はまるで獲物を追い詰めた猟師のような強さと気迫を感じる。班長をはじめとした刑事たちは平然としているので、事前に説明を受けているようだ。そう思っていると矢名が言った。
「へえ、名探偵、皆を集めてさてと言い、か。でもここにいない他の捜査員が参加できないのはかわいそうなんじゃないか?」
「会議室よりはこちらの方が説明しやすかったんですよ。ただ広さの関係もあって、人数は絞りましたけど。説明を始めていいですか?」
「どうぞ」
荒馬の返事に丹野はぐるりと全員を見回した。
「まず最初に。この事件。この1件目は夢野の指摘した通り、あのクロスワードと踊る人形は、ダイイングメッセージでも、犯人からのメッセージでもありませんでした」
「はあ? 本人からでも、犯人からのメッセージでもないなら、あれは一体何だよ」
「偶然です」
「はあ?」
声に出したのは矢名だけだが、荒馬と制服捜査員も驚愕の表情だ。
「丹野さん、いくら助手を庇いたくても、それは無理があるでしょう?」
「荒馬さん、無理とは?」
「被害者のメッセージでないのは良しとしましょう。でも犯人からのメッセージでもなかったら、その後の連続殺人の説明が付かない」
「ええ、ですから」
丹野は一度言葉を切った。
「この1件目は、連続殺人ではないんです」
「はあ? いや連続だろうが!」
矢名の反論に、丹野は静かに首を横に振った。
「いいえ。あくまでこの1件目は、単独の殺人事件です。クロスワードは、被害者佐藤さんが趣味で解いていたもの、あのページは偶然で、棒人間は友人に出題するために作ったもの、だったんです」
「友人? 関係者はすべて捜査しましたけど、佐藤氏は人間関係が希薄で、そのような友達などいませんでしたよ!」
荒馬が反論する。
「いいえ、いたんですよ。SNS上に」
ハッと声を飲む音がする。今の時代、友人は直接の知りあいだけではなく、ネット上に顔も本名も知らない知りあい、フォロワーが存在するのだ。川下が一歩進み出て説明する。
「丹野さんに言われて、被害者のSNSを調べました。被害者のフォロワーの多くがクロスワードや暗号好きの人たちで、彼らに出題する予定だったのが、あの棒人間です。見る人が見れば元ネタはすぐにわかりますけど、それを解読するのには時間がかかる。もちろん検索は厳禁で、解読過程を楽しむための出題だったようです」
「SNS……」
「クロスワードは確かに本人の趣味でした。筆跡鑑定でも本人のものと確認が取れています」
呆然とつぶやく荒馬に、川下が付け加えた。
そうして丹野が説明を再開する。
「1件目が単独の事件だったと仮定すると、2件目の暗号の意味が分からなくなります。ですが、これが仕組まれたものだと仮定すると、話はガラリと変わってくる」
「仕組まれたもの?」
訝し気に聞いたのは矢名だ。
「ええ。2件目の暗号は、連続殺人を匂わせるためにわざと置いたものなんです」
「ありえねえ」
「矢名さん、何故です?」
「ありえるわけがねえ。あの暗号の件は表には発表されていない。犯人しか知りえない情報なんだぜ」
「ええ、そうです」
「ええそうです、って……だからこそ、1件目とのつながりなんだろ?」
「いいえ。あれはそのつながりを作り出すために置かれたものです。だから1件目は意味のない言葉で、2件目からは匂わせるような言葉に変わっているんです」
「ですが丹野先生、暗号があった事を知っているのは捜査員だけで……」
そう言いかけて止めた荒馬の顔色が変わった。
「まさか……」
丹野は頷いた。
「少なくとも1件目と2件目が連続殺人でないのなら、少なくとも1件目の暗号に意味はない。2件目は雑誌の問題の中から、上手く使えそうなものを探し出したのでしょう。解いておく必要はないんだ。そのページをこれ見よがしに置いておけば、警察が勝手に解いてくれる。2件目の雑誌を調べてもらいましたが、置いてあった雑誌の他の問題は何も手を付けていなかったそうです」
「あの人形は?」
「あれも変換サイトというのがありました。2件目はそれを手書きで書いただけだ。さすがにあれを筆跡鑑定というのは無理がありますからね」
出来なくはない。書き損じなどがあれば、照合は可能だ。だが比べられるものが無ければ無理だ。現に筆跡鑑定に使えそうなものはなかった。
「それなら動機は! 動機が分からなければ連続殺人ではないと断定できないだろう!」
「完全な動機は本人に聞かないとわかりませんけれど、想像は出来る」
丹野は部屋の中を歩き始めた。意味があるようだが、無意識で歩いているようでもあり、特に出向組は面食らっていた。
「この犯人は1件目の事件を利用したんです。1件目に暗号らしきものがあったから、それらしきものを作って、犯行後に置いたんです」
丹野が立ち止まった。
「警察は狙い通り、それをみて連続殺人として捜査を開始してくれた。被害者同士のつながりなんて、それこそ道ですれ違った際に肩をぶつけて殴りあった仲だった、ということだってあるでしょう。SNSで知り合って一度だけ遊んだ、というのもあるかもしれません。道でナンパだって。男同士でも否定はできませんからね」
ぐるりと周りを見回す。その点には誰も反論が出来ない。そんな程度の知りあいなら、調べても出てこない可能性もある。
「2件目でめたく犯人像をミスリードすることに成功しましたが、そのままではいずれ連続でない事がバレてしまうかもしれない。だから、3件目の事件を起こして、暗号をおいてダメ押しするつもりだったんですよ」
「3件目? まだ起きてない事件でしょう?」
荒馬のその問いに、丹野は少しだけ荒馬の目を見てから言った。
「荒馬さん、犯行を他人になすりつけたら、それをどうやって認知させますか?」
「認知? 第3の人物に犯行をなすりつけて、第3の人物が犯人であると思い込ませるということですか? ──その人物に証拠の品を送りつけるとか」
「その通りです」
「その人物ってだれだよ!」
矢名が急き込んで聞く。
「もう少し正体は待ってください。もし全く関係のない第3の人物に罪をなすりつけたとしても、その人物のアリバイが証明されたらそれで終わりだ。アリバイが無いように準備されているかもしれないが、そんな危険を冒すよりももっと確実で、本当の犯人Xが安全圏に居られる手段がある」
「それは?」
「罪をなすりつけた相手を、事故に見せかけるなどして殺してしまう事です」
ハッと声を飲む音が、いくつか響いた。
「班長にお願いして、佐藤さんの身辺を徹底的に調べてもらいました」
丹野がそう言うと、川下がまた前に進み出た。
「ええと、佐藤さんは基本的に他人との関わりがほとんどなかったのですが、一人だけ、佐藤さんに執拗に絡んでいたことが分かりました。3年前なのですが、職場の同僚とトラブルがあって、その原因となった人──中川瑠偉という人なんですが、会社を辞めさせられていました。トラブルの内容は、いわゆる嫌がらせなんですけど、中川氏が会社にいた女性に好意を抱いていたのに、佐藤さんに彼女を取られたと思い込んだ。彼女と佐藤さんにはそのような事実はなく、職務上会話が多かっただけなのですが、それで中川さんが佐藤さんに執拗に嫌がらせなどを繰り返して、佐藤さんが人事に訴えて、会社側が中川さんを解雇した、という事でした。しかし中川さんはそのあと、どこに勤めても長続きせず、それを佐藤さんのせいだと逆恨みしていたと、知人たちが証言しています」
川下が下がると、また丹野が話し始めた。
「佐藤さんは念のために住まいを変えたようですが、今年に入って中川氏が会社近くで偶然佐藤さんを見かけ、あとを付けてマンションを突き止めた。そうして一方的に募らせてきた恨みをぶつけてしまったのです。それで佐藤さんは亡くなった。中川氏はその場から逃げ出した、いわば普通の殺人事件だったのです。──佐藤さんが、中川氏が来る前まで、一人でクロスワードで楽しんでいただけで」
「あれは本当に、ただのクイズだった……」
「ええ、矢名さん。踊る人形の絵も、スマホで撮影して出題するために置いてあっただけで、事件には関係がありません」
「し、しかし2件目で暗号があったのは!? やけくそになった中川とやらが2件目の被害者、秋野夕陽氏を殺したのでは!? それで同じようにクイズを置いて……」
「荒馬さん、いったん連続殺人から離れましょう。1件目がただの殺人だと仮定すると、不思議なのは2件目の暗号でした。ですがこれが全く関係ないものだとしたら、考えられるのは、誰かが置いた、という事です」
「第3者の模倣犯、だな」
夢野がボソリと呟く。反応したの矢名だ。
「模倣犯!?」
二人同時の発言に、丹野は夢野に言った。
「ユメ、模倣犯と仮定して、お前ならどう考える?」
「普通に考えるなら、まず殺したいやつがいるとして、ちょうどパズルの話を知って、それを利用しようと考える」
「だけど有芽、それにはそのパズルが現場にあった事を知っていないといけないだろうが」
「そうですよ、その情報は外には出ていないのでしょう? ならば犯人しか知りえないのだから、2件目が第3者の模倣という事はあり得ません」
「普通ならね。矢名さん。だが模倣はあったんですよ」
「あり得ません!」
荒馬が否定するが、丹野は頭を横に振った。
「それがあり得たんですよ。ここで2件目の被害者、秋野氏に関して整理しましょう。秋野氏の死因はなんでしたか? 海山さん」
「後頭部を強打したことによる、脳内出血です」
「ありがとうございます。ここに科捜研からの報告があります。傷の形状から、凶器となったのは、鋭い角をもつものだと判明しています。そしてそれは、部屋にあった木製のボックスでした」
「えっ!?」
「俺たちはそんな報告は受けていないぞ!?」
驚愕の声をあげる出向組に、海山が眼鏡のフレームをずいと上げながら言った。
「あなた方は捜査会議に出なかったではありませんか。それに科捜研の報告書は捜査本部に置いてあったのですから、いつでも見られたのに、見なかったのでしょう?」
二人だけの捜査をしていた彼らは、悔しそうにこぶしを握った。殺されたものと思い込んで、死因を確かめようとは思わなかったのだ。
「下の階の住人が大きな音を聞いている。その時に転ぶなどして頭を強打、打ち所が悪くて死に至ってしまった。ですから、秋野氏は事件ではなく事故だったのです」
「だとしたら、あのパズルは!」
「ええ、ですから、あとから置いたものがいるんですよ」
「いるわけが……!」
「……あっ、第1発見者!?」
矢名が否定し、すぐさま荒馬が手を発言した。丹野は首を振る。
「第1発見者を疑え。捜査の初歩ですね。だけど違います。秋野氏の件の第1発見者は佐藤氏の事件を知らない、ただの同僚です。真似しようがない。もう一人いるんですよ。置けた人物が」
「……それが、警察関係者?」
荒馬の呟きに、丹野は今度こそ頷いた。
「通報を受けて駆け付けた警察官なら、可能なんですよ」
「し、しかし……!」
「矢名さん、考えてみてください。第1の事件の詳細を犯人以外で知っていて、第2の事件を偽装できるのは、犯人でなければ捜査関係者しかいないんです。そう仮定して班長さんに第1の事件と第2の事件両方に参加していた捜査員の名簿を見せてもらいました。その臨場のタイミングもね。第2の事件で現場を偽装できるのは、早い時点で現場に到着した捜査員以外にはあり得ない。それはあなたしかいませんでしたよ、
丹野が指名したのは、その場にいた制服捜査員の一人だった。
「……私は関係ありません! それに私は一人で臨場したのではない、相方がいました!」
「警察官は必ず二人で行動する。それは確認が取れています。しかしあなたは報告をその相方に任せ、一人きりで室内にいた時間がありました。たった1分ほどでしたが、事前に用意していたそれを置くくらいの時間はあったでしょう。それに先ほども言った通り、あなたしかそれが可能だった人はいないんですよ」
「私じゃない! 私は殺してない!」
「ええ、2件目は事故です。あなたは現場を荒らしただけだ」
それに異を唱えたのは、荒馬だ。
「丹野さん、それだけでは断定は難しいのでは?」
「ええ、それだけだったらね。大体2件目で現場を荒らした意味も分からなかった。もしあれで犯行が終わっていたら、彼にたどり着けたかどうか」
「丹野さんがいてもですか?」
矢名が嫌味っぽく言うと、丹野は苦笑した。
「私だってわからない事はありますよ。特に意味が分からないものはね。だが、捜査陣が連続殺人と思い込んで一向に捜査が進まないことに、思い通りになったと鳥越さんは思い上がった」
「違う! 私は関係ない!」
「まあ話を聞いてください。現場を荒らした犯人をあなただと仮定して、捜査を見直しました。誰に聞いても佐藤さんの人間関係は希薄だった。だが佐藤さんの会社に聞き込みに行ったあなたは、そこで中川氏とのトラブルを聞いた。おっと、否定しても無駄ですよ。相方さんにも会社にも確認を取っています」
「……3年前の小さなトラブルです。それに中川氏には佐藤氏の事件の日のアリバイがあった。ですから関係あるとは思いませんでした」
「確かに相方さんからもそれは確認しました。ですが、再度調査するとそのアリバイは、中川氏が周りを脅して無理やり言わせたものであった事が分かりました」
そこで丹野が一度言葉を止めて、周りを見回す。そこに質問を挟む者はいなかったから、そのまま続けた。
「そこで中川氏を捜査してもらいました。ですが秋野氏との接点はまったくありませんでした。ですから、秋野氏の部屋に中川氏が暗号を置くことはできませんし、その日のアリバイは完璧でした」
「だからといって僕でもない!」
「いいえ。あれが置けたのは、あなたしかいないんです」
「あり得ない! いや、それは引っ掛けだな! 僕がそれで『手袋をしていたんだから指紋などの証拠がでるはずがない』とか失言するのを待っているんだろう!」
「あああれなあ、推理もののドラマでよく出てくるけど。そんな探偵や捜査陣に都合のいい失言をしてくれる人は……ままいるな」
苦笑交じりに口を挟んだのは夢野で、それに鳥越はツッコんだ。
「いるのかよ!」
「これがいるんですよ。鳥越さん。私も本業の探偵の方で、何回か聞いていますからね。ああ、あなたはそんな失言はしていませんよ。安心してください」
「ならば僕が犯人ではないのも分かるだろう!」
「いいえ、鳥越さん。引っ掛けなど必要もないほどに、あなたが犯人なんですよ」
「だからどうして!」
丹野はあくまでも否定する鳥越に、ため息をついた。
「あなたから本当の事を言ってもらいたかったんですけどね。仕方がない。──私たちは班長さんにお願いして、あなたの行動を監視してもらいました。そうしてあなたが、中川氏の立ち回り先に現れていることを突き止めました。これは何かを仕掛けるなと思ったので、夢野と二人で中川氏を監視していたところ、2日前、その中川氏が何者かに襲われました」
驚きの声を上げたのは、矢名と荒馬、鳥越の相棒である制服警官だ。
「運良くも私たちの制止が間に合い、中川氏は自分で転んだ怪我だけで無事です。だがその際、襲撃者が凶器を持って襲ってきたので、夢野が撃退しました」
「えっ、夢野さんが!?」
荒馬が驚愕の声を上げる。それに夢野は肩をすくめた。
「すぐに襲撃者を追いましたが、残念ながら近くに停めていたバイクで逃走を許してしまいました。すぐに丹野が班長に連絡をして、緊急配備を敷いてもらいましたが、襲撃犯はそれを潜り抜けて行方をくらませました」
「だから何だというんですか」
鳥越が丹野を睨みつける。
「先ほど夢野が撃退したと言いました。正確には襲撃者の凶器を持つ手を蹴り飛ばしたんです」
「そんな事が夢野さんに出来たとは」
「川下さん。あとで回し蹴りしてあげますね」
思わずと言った感じの川下の呟きに、夢野がにっこりと笑って言った。あわあわと手をふる川下を、隣の海山がゴツンと殴る。
「夢野は少林寺拳法をたしなんでますからね。その蹴りを喰らった手が、無傷のはずがない。鳥越さん、右腕を見せてもらえますか」
全員の目が鳥越の右腕に集中した。その腕は、制服の上からでも不自然に膨らんでいるのが見てとれる。
丹野の追及に鳥越は右腕を押さえて青ざめ、膝をついた。
「鳥越、なんでこんな事したんや」
班長が威圧的に前に立ちはだかって叱責すると、鳥越は顔を上げて夢野を睨みつけた。
「コイツが、あんなに早くクロスワードを解くから……!」
「何を言っているんやお前は!」
海山も叱責するが、鳥越は顔を真っ赤にして夢野を睨みつけたまま立ち上がった。
「クロスワードは俺の趣味なんだ! 問題だって、何度も雑誌に採用されている! 佐藤氏の事件現場でクロスワードを解けという任務が回ってきて、周りもお前なら解けるだろうと期待の目で見るし、俺自身も解く自信があったんだ! なのに、そいつが一目見ただけで解くから! 俺はきちんと全部のマスを埋めていたのに、キーのマスだけ解くなんていう汚い手で解くから!」
「お前、そんな事で……」
「『そんな事』!? おかげで俺のプライドはズタズタだ! みんなに夢野さんが一瞬で解ける問題を、クロスワードが趣味のお前が解けないなんて、と揶揄われて!」
鳥越は涙目で夢野に食って掛かる。夢野はそれを冷静に見ていた。その態度にますます鳥越はヒートアップする
「あんなのインチキだ! きっと夢野は現場に駆け付けるまでにクロスワードを解いていたに違いないと思った! 俺たちは捜査の合間に解いているけれど、集中して解いていたのならそりゃあ解けるに違いない。その答えだけをあの場で偉そうに答えただけだと思ったから! 踊る人形だって、事前にネットとかで調べて答えを知っていたに違いない。だからそれは自作して、次に夢野に会った時に解かせようと思って!」
「持ち歩いていた時に、第2の事件の通報を受けて、一番近くにいたあなたたちが最初に現場に入った。そこで第1の現場と同じような遺体を見て、連続殺人を装う事を思いついてしまったんですね? しかもそこに現れた夢野が、また一瞬で問題を解いてしまった。でも何故クロスワードを1枚だけ持っていたんですか?」
丹野の質問に、鳥越の顔から表情がストンと落ちた。
「先月見た問題の中でもあの問題は、非常に解き甲斐のある問題だったんだ。答えも良かったし。雑誌でも上級問題だった。俺も、クロスワード仲間だって、解くのに30分以上はかかったし、鍵マスだけでは解けない問題だった。だからそれを目の前で解いてもらおうと……それなのに問題を見て、筆記用具も使わずにわずか40秒で解きやがった……」
夢野がバツの悪そうな表情をしているが、何も言わなかった。
「でもそれを確かめたのなら、それで終わりにすればよかったんですよ。なのにあなたは中川さんを襲撃した」
第2の事件で現場を偽装してしまったこと、中川の報告を怠った事で、鳥越は密かに悩んでいた。相方の警官が報告しようと言ったのを、アリバイがあるんだから、可能性なしで良いだろうと片付けてしまったのは、自分だ。さらに現場を偽装するつもりはなく、軽い思い付きだったのだ。だが、自分が仕掛けた謎を、名探偵といわれる丹野でも気が付かない。それは気分が良かった。
丹野が分からない事を、夢野が分かるはずがないと思った。クロスワードでは後れを取ったけれど、謎かけでは自分の方が上だったと。
しかしそんな時に、中川が飲み食いする店に居合わせた鳥越が、中川が佐藤を殴ったという話を、友人に自慢気に語っている所に出くわしてしまった。どうにも中川の事が気になっていて、動向を確認していたのだ。そして、友人の所にいたというアリバイは、その友人を脅して証言させたものだったのだ。
女性を取られたと思い込み、しかも仕事まで辞めさせられたのはすべて佐藤のせいだ、と中川は深く恨んでいた。それでも生活のため、必死になれない肉体労働をしていたが、ある日、出かけた時に佐藤氏を見かけて、恨みが再燃したという。
佐藤氏の家に宅配便を装って訪ねたら、偶然にもドアが少し開いていた。そっと中に入ってみると、佐藤が本を読んでいるように見えた。そのタイミングで彼が自分の気配に気が付いたようで、顔を上げて振り返った。目が合ったからとっさに殴りつけた。よく覚えていないが2~3発は殴った気がする。でもそれですぐに部屋を出た、という話をしていたのだ。
鳥越は愕然とした。あれは事故ではなく、本当に殺人事件だった。そうして同時期に司法解剖で第2の事件は事故だったと判明した。
自分がしたことは、現場をかく乱しただけでなく、容疑者である中川の報告も怠った。このままでは自分はクビになってしまう。
その時に意識のすり替えが起きた。自分が第2の事件で暗号を置いたのは夢野が悪いからだ。だから自分には罪がない。しかも中川がいなくなれば、彼が佐藤を殺した犯人だとわかることもない。
「だから襲ったのか? お前それでも警察官か!」
「アイツは! 中川は俺をコケにしたんや! 俺をあざ笑いやがったんや!」
「説明しろ!」
班長と海山に詰め寄られて、鳥越は絶叫した。
「アイツは言ったんだ! あの時、佐藤の事件のアリバイを偽証させた相手に、それって殺人になってないかと言われて、慌てて検索して。『なんだかよくわからんけど連続殺人言われとる。きっと俺の後になんかしたやつがいるんやろ。あれや、とりこしくろうや』と! アイツ、俺が犯人やと気が付いとったんや!」
「はあ? 最後の意味がわからないんだけど?」
矢名が首を傾げた。それには全員同意だったが、夢野が手を挙げた。
「やっぱり誤解してたんですね。鳥越さんのフルネームは鳥越九郎。とりごえきゅうろう、と読ませているけれど、本当はとりこしくろう、でしたね。中川氏が言ったのはあなたの名前やない、杞憂の意味の方の、言葉ですよ」
「あ、『取り越し苦労』……!?」
驚きの声を上げたのは相棒だった制服警官だ。丹野がそれに頷く。
「改名をしたのでしょう。苗字を変えるのは家庭裁判所の手続きが必要となりますが、漢字の読み方は手続きが不要です。住民票などの書類でも読みを変える場合には役所での手続きが必要ですが、日常だけで変えたいのなら何の手続きもいらない。だから周りにはとりごえ、と読ませていたのでしょう。それだけで意味のある言葉ではなくなる。だから冷静に考えれば中川氏があなたの名前をいう訳がないのに気が付いたのだろうけれど、あなたは当時、強いストレス状態にあった。そこに名前と同じ言葉が出てきて、誤解したんだ」
「誤解……」
「ええ。中川氏はあなたをコケになどしていない。単なる偶然だ」
「偶然……」
「しかしあなたは自分の行いを隠すという目的だけで、中川氏を襲撃した。ただ自分の罪を隠すためと、夢野に一泡吹かせたい、それだけの理由で」
「そんな……そんな……!」
がっくりと崩れ落ち、四つん這い状態の鳥越の肩を荒馬がそっと叩いた。
「あなたも名前で苦労したんですね。だからあり得ない場面で、自分の名前を言われたと思いこんでしまったんですね」
「あんたなんかに何が分かるんだ!!」
ガバっと顔を上げた鳥越に、荒馬は苦笑した。
「分かりますよ。私もね、名前の読みを変えているんですよ。本来私の名前の読みは、そうかい、なんです。だから小さい頃から何かと言えば、『あらまそうかい』と言われ続けましてね。嫌になってそうすけ、と変えたんです」
「俺も揶揄われた。やなかんじーってな。おれは読みを変えられないからこのままだ」
「あ……」
「とりこしぐろうもたいがい酷いんだけどさ、俺なんて老若男女関係なく、毎日道端で聞くぜ? やなかんじー! ってな。しかも一度心が傷ついたら、もうどうしょうもないんだよな。なんでだかなあ、聞こえなくてもいいのに聞こえるんだよな」
「カクテル効果ですね。自分の名前だけ、どれだけ騒がしい所でも聞き取れてしまう」
「有芽は流石に物知りだな。あんたも名前じゃ苦労しんだもんな」
「ええ。あなた方とは種類が違いますけど、本一冊書ける程度には」
「そうだよなあ。有芽って聞いたら、普通は女性だと思うしな」
「私は荒馬さんや鳥越さんのように、読みを変えることも出来ないですしね。それに皆さんなら結婚したり養子に入れば苗字を変えられる。例えば荒馬完次と矢名宗介にすれば、意味を持たない言葉になる」
それ二人ともがポンと手を打つ
「あ、その手があったか!」
「うちの養子はやめろよ。もちろんお前と結婚も無理だよ」
「名前だけ貸してくれてもいいじゃねえか。あ、なら有芽も……」
「私は無理です。婿養子に入っても下の名前は変わらない。海山有芽でも川下有芽でもいいですけど、名前は変わりませんから。病院とかで呼ばれた時に、まずユメという響きに周りがどんな人だろうと注目するんです。で、出て行くのがこんなおっさんだ。小声で言っているんでしょうけど、聞こえるんですよね。『ユメなのに男なの!?』って。これだけは苗字を変えても変わりませんから」
「でも夢野さんは、それはペンネームなんだろ!」
鳥越が睨むが、夢野は首を横に振った。
「正真正銘の本名です。父親の酔狂でこんな名前を付けられただけですよ」
「ええ!? 本当に!?」
夢野が重々しくうなずき、名前で苦労している4人が一斉にため息をつく。全員、種類は違えど、苦しみは一緒なのだ。
「……名前の件はまた後でじっくり話し合ってもらうことにして。鳥越、お前を捜査妨害と中川氏への暴行未遂で逮捕する」
海山が座り込んでいる鳥越を立たせて、手錠をはめた。その背に夢野が声をかけた。
「鳥越さん。あなたが中川氏を襲撃した時に落としていった、暗号文」
「あ……」
連続事件に見せかけるために、同じように用意したクロスワードと踊る人形のそれを、中川を襲撃して、彼のポケットに入れるつもりだったのだが、鳥越はうっかりと落としていた。緊急配備を潜り抜けて帰宅した時に気が付いたが、もうどうしようもなかった。だが次の日に出勤した時に、中川氏の襲撃事件は報告があったが、暗号文に関してはどこにも報告がなく、バイクで逃走した時に落としたのだろうかと思っていたのだが、現場に落としていたのか。
「あれもよく選んだ問題でしたけど、あれと同じ本に載っていたあなたが作った問題が、とても面白かった。上級の名に恥じない、見事なクロスワードでしたよ」
「……また一瞬で解いたんだろう?」
「いいえ、あれはじっくりと楽しませてもらいました。ほとんどのマスを埋めて。問題文も、回答の"たそがれどき"、という答えも素敵だった。また問題を作ってください。楽しみにしていますから」
「……」
鳥越は無言で夢野から視線を外した。そして川下と共に部屋を出て行った。
それを見送った荒馬が丹野に話しかけた。
「丹野さんは、いつから捜査員が犯人だと思っていたんですか?」
「第2の事件からです」
「そんなに早く? あの時点ではまだ連続殺人の可能性が大きかったでしょう?」
「ええ、でも夢野が指摘していましたから。1件目のは暗号ではないと。2件目の暗号はそれらしいものだけど、1件目が暗号でない以上、2件目も暗号ではあり得ないと。それを聞いて模倣犯を考えました。だがそうすると容疑者が警察関係者になってしまう。だから班長さんに相談して、こっそりと捜査員を調べていたんです」
「そんな……じゃあ俺たちが関係者を洗っているのを、笑って見ていたわけか!」
「違いますよ、矢名さん。あなた方が佐藤氏と秋野氏に接点がないと徹底的に調べてくれたおかげで、私は捜査員に的を絞れたのです。本当はもっと早くに鳥越さんを確保したかったのですが、証拠が無くて。結果として襲撃事件を未然に防げなかった」
「そういえば、さっき言っていた暗号って何だったんだ?」
「ああ、クロスワードが『せいばい/成敗』、踊る人形が『セイギ』でした」
「なるほどね。事件を示唆するような言葉か。それにしたって、俺達には捜査員が怪しいと教えてくれても良かったんじゃないか? 有芽」
「教えるわけがないでしょう。第1の現場と第2の現場、両方に臨場した中には、あなた方も入っているんですから」
「僕たちを疑っていたというんですか?」
「いいえ。でもあなた方は割と自由に動くから。犯人が捜査関係者の可能性があると知らせたら、俺たちの計画が失敗する可能性がありましたから」
「計画? こうして暴くことが?」
「いいえ。出来れば鳥越には自首してもらいたかったんです。だって、襲撃事件さえ起こさなければ、彼のしたことは現場のかく乱だけです。それでも警察を辞める事にはなるでしょうけれど、まだ罪は軽かった。……残念ですよ」
「本当に有芽は口が硬いんだな。それにしても流石ワトソン、丹野さんが言ったことは絶対なんだな。もし丹野さんの推理が間違っていたら、骨折り損なんだぜ?」
「お言葉ですが、この説を言い出したのは夢野ですよ」
丹野が近寄ってきて、夢野の隣に立った。
「夢野が、第2の事件の時に言ったんですよ。第3者が絡んででいる気がすると」
「丹野のいいなりではありませんよ。丹野が間違えているようなら、全力で笑ってやります。残念だけど丹野の推理に間違いはなかったから。それにあのクロスワードが。最初は全く意味のない言葉なのに、2件目では意味があるだけでなく、問題自体しっかりと選んでいたからな。偶然ではあり得ないし、連続殺人を匂わせたいなら最初から意味のある言葉を選ぶはずだ。少なくとも全く関係のない言葉ではなく」
「とぼけた事ばかり言っていると思っていたんだが、そうでもなかったんだな」
「とぼけた事…」
夢野の顔が引きつる。その肩を丹野がまあまあと叩いて矢名に言った。
「夢野の推理もあながち外れてはいなかったんですよ。いじめられていた、とか復讐だったとか。そういう断片を拾うのが上手いんです、夢野は。それにあれのお陰であの推論が成り立たない事も確認できた。とても優秀な助手なんですよ」
***
丹野と夢野は、夢野の家でささやかなお疲れ会を開いた。
天麩羅が食べたいという夢野の望みで、しかし家であげるのは面倒だからと天麩羅屋でそれぞれに好きなものを購入してきた。
さらに総菜もいくつか。味噌汁は丹野が作り、夢野が土鍋でごはんを炊いた。
お茶も入れて、それらを並べて、舌鼓を打ちながら事件を振り返る。
「まさかクロスワードを解いたことで恨まれるとはなあ。最初に危惧した通りだったな」
「お前の特技が凄すぎたのと、パズル好きの性か」
「今度警察に解読頼まれたら、別室で解いた方が良さそうだな」
「まあクロスワードが事件に絡んでくることの方が珍しいと思うけれどな」
「そうだね」
二人で苦笑しあう。
夢野は大葉の天麩羅に塩を少しつけていただく。サクサクとした食感とほんの少しの苦みに塩がよく合う。しばし味わっていると、丹野がしみじみと言った。
「しかし今回は意味のある言葉をもつ名前が多かったな」
「珍しくも集結してたな。あの名前の前だと君の名前なんてかすむな」
「俺の名前なんて、いつでもかすんでいるよ」
夢野有芽なんて雅な名前が側にいれば、大概の名前はかすんでしまう。
「それにしても養子縁組で苗字を変える話が出たが」
「うん」
「なんで海山さんと川下さんだったんだ?」
「茅野有芽でもいいけれど?」
「……なんで捜査一課の苗字なんだよ。字面で考えると、海山有芽というのはなんだか怖そうに見えるな」
「そりゃあり得ないから選んでるんだよ。字面までは考えなかったな」
丹野はほっと溜息をついて、茶を飲み、少し聞き辛そうに言った。
「その、やっぱり改名したかったのか?」
「そりゃそうやろ。男でユメなんて、害しかない」
「害? 目立つとは思うが……」
「この話は、先日、出向組と食事した時にも出たんだけどな」
そう言って、夢野はその時の話をし始めた
**
二人から非番だから、一緒に食事をしないかと誘われた夢野は、一度は断った。二人と食事をする理由がなかったし、事件に関して公平でいるためにも警察関係者と必要以上に仲良くするのは望ましくないと考えているからだ。
だが『名前で苦労しているもの同士、愚痴りあおうぜ』という矢名の言葉に、ついつい頷いてしまったのだ。
二人が、せっかくだから美味しい店を教えてくれというので、お気に入りのとんかつカツの美味い店へ連れて行った。話の内容から個室のある店だ。
「丹野さんって、どのくらいの頻度で夢野さんの家にいくんです?」
「探偵の仕事で俺の家の方が便利な時くらいですから、たまに、ですね。四六時中一緒にいたら息が詰まります」
「へえ、定期的に行き来しているのかと思った」
「もちろん、私があちらに行くこともありますよ」
そんな会話から入って、あれこれ注文して、最初は食事に集中していたが、腹が満ちてきてからはゆっくりと食べながら愚痴が始まった。
「荒馬はまだそうすけ、だからいいけどさ、俺なんて読み方を変えたくても変えようがないじゃん」
「完次、でしたね。でもカンジという名前だけなら俳優の津田寛治さんや古舘寛治さんがいますから、響きだけならいい名前なんですけどね。莞爾、ならにっこり笑うさま、という意味があるので、名前としても最適です」
「流石ですね、直ぐに莞爾なんて出てくるのは凄い」
「でもなあ、それ、字画多すぎて、学生の時には死ぬぞ」
「入試の時なんて、名前を書く時間がもったいないですね」
「それにな、カンジ、という名前は小学校で『漢字』が出てきたときにまず揶揄われるんだ」
「わかります……」
「漢字テスト、というだけでクラス全員が俺を見るんだぜ? 関係ないじゃないか、馬鹿じゃねえのと子供心に思ったわ」
「子どもというのは、時に残酷ですからねえ」
「そのうちに『やなかんじー』ってのが使われだすんだ。もう地獄のような毎日だったぜ」
「お気持ち察します。よく耐えられましたね」
「まあ、荒馬がいてくれたからな。ああこいつ、本当は『そうかい』なんだ。でも高校からはそうすけ、って読ませてる」
ずっと苦笑いを浮かべていた荒馬に話の矛先が向くと、荒馬はウーロン茶を一口飲んでから言った。
「父親がね、例の探偵ものを読んだことがあって、『男の子が生まれたらソウカイとつけるんだ』と決めていたそうなんですよ。迷惑なことに」
「子どもの名前は親のおもちゃじゃないですよ、ホントに」
「そうそう。それでいて、名前を変えたいと相談すると、親の愛が~とか言い出すんですよ。愛があるなら普通の名前にしてくれと」
「まったく同意です」
「その通りだ」
全員がうんうんと頷く。矢名が荒馬の肩を叩きながら続けた。
「小中ではコイツと二人で揶揄われたけれど、最後にはそれを逆手にとってだな」
「なんだかんだと揶揄われたら、カンジが言うんですよ。あらまそうかい? って」
「で、荒馬がヤナカンジーってさ」
「それで二人でドヤ顔すれば、漫才のネタっぽくなるじゃないですか。とりあえず小学校の高学年からは、それでいじめられることは少なくなりましたね」
「そうだな。で、ある時中学の図書館で、司書教諭が教えてくれたんだ。本当に望むなら改名ができるよって」
「読みを変えるだけなら許可は無くて出来るとも。それで僕は高校から『そうすけ』読みにしました。でもカンジはどうしようもないから」
「それもその司書の先生の相談したら、出来るだけ偏差値の高い進学校へ行くように、アドヴァイスされたんだ」
「進学校へ?」
夢野の問いに矢名は大きくうなずき、コーラを飲んでから言った。
「先生曰く、レベルの高い進学校なら、自意識高い系が多いから、子供っぽいからかいはしないだろうって。さらに勉強に忙しくて、そんな事に構っているヒマもないだろうからってさ。ついでに周りも一目置いてくれるってさ。で、それが1年生の後期だったんだけど、そこから二人で猛勉強して」
「勉強しているか部活動しているかな日々を送りましたけど、おかげでそこそこの進学校へ進めましてね。先生の言った通り、からかいは激減しましたね」
「それは良かった。ナイス先生! ですね」
「ところがさ、それまでに散々ヤナカンジーで嫌な思いしてきただろ? 学校内での嫌がらせはなくなったけど、代わりに通りすがりの女子高生とかが、彼女たちの会話の中でヤナカンジーと言っただけで、パニック発作が起きるほどに敏感になっちゃってさ」
「思春期も重なったんだろうね。あの時は通学中はイヤホンで外界の音を完全に断ち切ってたんですよ、コイツ。でもそれじゃ危ないから、僕が必ず付いているハメになりました」
「それを、どうやって断ち切ったかお聞きしても?」
「ああ。ある時な、ソウスケが言ったんだよ。女子高生に名前を呼ばれるのって、ご褒美じゃないかって」
「おお、発想の転換!」
「そうそう。しかもさ、日本で女子高生に一番呼ばれる名前だってさ」
「確かに、芸能人でもフルネームでは呼ばないですしね」
矢名はそれに笑いながら言った。
「ご褒美かどうかはともかく、日本で一番女子高生に呼ばれる名前、って点がツボっちゃってさ。その上、『いまこの瞬間もどこかで女子高生に呼ばれているんだぜ、お前』って言われたらもう、笑いが止まらなくなった」
矢名はその頃を思い出しているのだろう、柔らかい表情をしている。その横で荒馬が知らん顔でウーロン茶を飲んでいる対比も面白い。
「その時久しぶりだったんだ、声を上げて笑ったの。しかも腹が痛くなるくらいに。それでその笑いが止まったらさ、なんかすっきりしてて。そのあとも道端で『ヤナカンジー』が聞こえるたびにソウスケが『ご褒美』ってささやきかけるものだからさ、笑って笑って。気が付いたら、気にならなくなってた」
「発想の転換が出来たんですね」
「そうなんだろうな。だからこいつには今でも感謝しているよ」
「はいはい」
バシバシと背中を叩く矢名に、叩かれる荒馬は苦笑で答えている。荒馬だって揶揄われただろうに、友人の苦しみを救おうと尽力したのだろう。
良い友人関係だな、と夢野は思った。
「ま、名前で苦労はしてるけど、努力もしたおかげでこうしてキャリア組としてあちこち出向させてもらっているし、正直普通にしていれば出世も約束されているし」
「丹野に聞いたんですけど、ふつう同期同士は同じ所轄などには出向にならないとか。でもお二人は検挙率が高いから特別に二人で一緒に移動していると聞きました。検挙率が高い秘密を教えてもらえますか?」
夢野の質問に、ふたりはよくぞ聞いてくれました、と身を乗り出した。
「これな、ふつうの人には教えないんだけど、夢野さんは特別な!」
「え、特別って、何でです?」
「そりゃあさ」
そこで矢名が言葉を切り、荒馬と声を揃えて言った。
「名前で苦労した者同士だろう?」
「俺たちの名前が探偵譚からきているだろう? で、そのマンガを俺達も読んだわけだ」
「父親たちが切り取って保管しててくれましてね。わざわざ子供に読ませたんですよ」
「探偵役の荒馬宗介は外見はモッサイけど、やっぱりその知識で事件解決とか、かっこいいじゃん」
「そうですね」
「泥棒役の矢名完次は最終的には捕まるけど、やっぱりあれこれトリックをしかけるんだよな」
「彼は漢字とか算数での謎かけが多かった記憶があります」
「うんうん。それでさ、俺達もクイズにハマって」
「さらに謎が出てくる推理小説にもハマって」
「学校の図書館でその辺の本全部読んで」
「将来は探偵になろうって決めて」
「分かりますわかります」
夢野がうんうんと何度も頷く。なにせかっこいいのだ、探偵というものは。
「だよな。だけどさ、段々大きくなるうちに少しずつ現実も見えてきて夢も変わってくるんだよ。それと段々と読書傾向も警察小説とか、推理ものに移行してね」
「それで刑事事件、という言葉も、刑法も知りました。それにいじめもありました。僕たちは肉体的な被害は殆どありませんでしたけど、やっぱり心がね」
「いじめ、なんて言葉を使うから軽くみられるけれど、本来は傷害罪や暴行罪だからな。それを学校からのただの注意なんて軽すぎる」
「ぼくたちみたいな被害者を防ぐためには、探偵ではだめだと気が付きましてね」
「高校が進学校だったのも良かったんだよな」
「うん。警察を目指すなら、どうせならキャリアにしよう、というのも選べたからね。まあそれで警官になったわけだけど、推理ものオタクだからさ、捜査するときもその知識を使いたくなるでしょう」
「警察も上のいう事は絶対だし、体育系だし、まだまだ考え方も古い。もちろん推測だけで捜査したらダメなのは当然だけど、今の時代、何でもかんでも足で捜査すればいい、ってもんでもないだろう?」
「人海戦術が必要なこともあります。しかしある程度の選択は必要でしょう。それを絞って捜査してみたんですよ」
「なるほど、効率のよい捜査が検挙率の秘密でしたか。でも上の指示を聞かないという事を、上層部は面白く思わないのでは?」
二人は苦笑して、矢名が肩をすくめた。
「だから俺たちは、いまだに地方を回らされているんだよ」
「でもいいんですよ。僕たちはいま、とても楽しいんです。僕たちの力で事件を早期解決に導けていることは、被害者にも喜ばしいことだし、僕たちも嬉しい。それに現場に出ていなければ、推理も出来ませんからね」
「なるほどなあ」
喋り疲れたのか、矢名はドリンクをゴクゴクと飲んで、おかわりを頼んだ。
ついでにあれもこれもと使いメニューを頼んだ。テーブルの上の空いた皿も下げてもらって、すっきりとしたところで、話を再開する。
「夢野さんもさ……ああ、丹野みたいに、有芽って呼んで良いか?」
矢名が器用にウインクしながら聞いてきたので、夢野はため息をつきながら答えた。
「丹野が呼んでいるのは名前じゃなく苗字の夢野を縮めたものですよ。正直名前で呼ばれるのは好きではないですけど、お二人なら特別にいいですよ」
「おお、ありがとう。やっぱり名前は好きじゃないか」
「そりゃそうですよ。この名前のお陰で、どれだけ揶揄われ続けてきたことか」
「そのお話を詳しく聞く前に、丹野さんの呼び方ですけど、表向きそんな事を言って名前を呼んでいるんじゃないんですか?」
「そうだよな、名前もユメなんだからどっちでも同じだろう?」
だが夢野は首を横に振った。
「これがね、違うんですよ。私もそう主張したら、それなら名前を呼んでやる、って。そしたらね、呼ばれた瞬間に鳥肌立って、思わず張り倒してしまいました」
「え、違うの?」
「違いましたね、明らかに。それからたまに丹野が名前で呼んでくるんですけど、そのたびに鳥肌が立ちます」
「へえ、違うものなんだ」
「私も名前ではいじめられましたからね、敏感になっているのかもしれません」
「ああやっぱりいじめられるよねえ。どんなだったか、聞いてもいい?」
荒馬が遠慮がちに聞いてきたのに、夢野は首肯した。
「ほとんどがお二人と同じ、名前いじりですけどね。夢のまた夢、とか。将来の夢、とか夢が付けばみんなが見てくる、というのは矢名さんと一緒です。そのうえで私の場合は性別いじりもつくんですよ」
「うわあ、最悪だ」
「ユメってだけでもジロジロみられるのに、その上『スカートはかないのか』とか『本当に男なのか』とか」
「それ、もしかして暴行事件に発展しそうな展開?」
「お察しの通りです。ユメなんて呼ばれているからって、何故か痴漢系の変質者も寄ってきましたしね」
「うわあ! トラウマものじゃん」
「本当に。だから護身術を習おうってなりましてね、少林寺拳法をやりました」
「やっぱりやるよね! 僕らは空手だったけど」
「絶対に必要ですからね。撃退するためではなく、逃げるために」
「そうそう!! わかるなあ!」
「それでそれが役に立った時、親に言われませんでしたか?」
『やっててよかったな、役に立った』
3人の声が重なる。そして全員でバンと机を叩いた。
「何が役に立っただ! お前が元凶だっつーの!」
「こんな名前じゃなかったら、こんなものを習う必要も、役に立つような場面に出会う事もなかったんだ!」
「謝れ! 全俺に謝れ!」
**
「ってな話をしたんだよ。いやあ、同じように名前で苦労した者同士、もう愚痴が止まらなくて良いストレス発散になったよ」
「……どこのどいつだ」
「うん?」
「そのお前に変態的行為をしようとしたヤツは、どこのどいつだ。警察に通報はしたんだろうな!?」
「なに急に怒りだしてるんだよ。小学校の頃の話だし、急所けり上げて逃げたから通報はしてないけど、それ以来姿はみてないよ」
「甘い! そんな奴は急所をつぶしてから警察に通報して社会的にも抹殺してやればよかったんだ!」
急に怖い顔で怒り始めた丹野に、夢野は唖然としていたが、ゆっくりと苦笑した。
「……なに笑ってんだよ。逃げられたから良かったようなものの、万一があったら、笑ってなんていられなかったんだぞ」
「それはそうだけど。いや、君が怒ってくれたからもういいなって」
「なんだそれは」
「あの時、父親は護身術やっててよかったなーしか言わなかったし、母親も、犯人、まさか男だとは思わなかったんだろうって笑ってて。友達も同情はしてくれたけど、誰も俺と一緒に怒ってくれなかったから。なんかすっきりした」
「怒って当たり前なんだ。怒らない方がおかしい。いいかユメ、これからも万一そんな目に遭ったら、逃げてからで良いから必ず通報するんだ。今の科学捜査なら犯人を特定できるし、俺が必ず探し出してやるから」
「おお、頼もしいな」
夢野がフフフと笑って、まあ落ち着けと二人分のコーヒーを淹れた。
「そういえば、あの二人の助手になったんだろう? 今後も付いていくのか?」
丹野が意地悪そうに笑いながら言うのに、夢野は平然とコーヒーを飲んでから、返した。
「誘われはした。正式に助手にならないかって」
「ほう。随分と買われたものだな。それで?」
夢野は丹野をジロリと睨む。
「なるわけないだろ。所轄署といい関係だから、今回あの二人の助手とか言っても受けれてもらえたけれど、他では絶対に通用しないよ」
「……あの二人なら、受け入れさせるんじゃないか?」
「迷惑だよ。それに俺がなりたいのは、刑事の助手じゃないし、探偵役でもない。それに想像してみてよ。あらまそうかいにやなかんじ、そこにゆめのゆめ、やで? 珍名トリオとか絶対にいわれるよ。……笑うな、コロスぞ」
「悪い悪い。珍名トリオがツボった」
口と腹を押さえて笑う丹野を、近くに置いてあった雑誌を丸めて一発叩けば、スパンといい音がした。
「とにかく、俺はここを離れない。トリオも組まない。この話はこれでお終い。ただし俺を彼らに売った君の事は、しばらく恨んでやる」
「売ってなんていないよ。あの場面で俺が何が何でも断る、という方がおかしいだろう?」
「君が俺を助手として使っている以上、雇用を守るのも君の役目だよ。それを放棄した罪は重いからね」
「……分かった、悪かった。というか、そんなに嫌だったのか? 彼らの助手は」
「あのね。俺は君の友人やから特別に助手を務めているだけで、他の人の助手になりたいとも、やりたいとも思わない。よく覚えておいてよね」
夢野が丹野の眼前での啖呵に、丹野はまじめな顔で頷いた。
「よくわかった。もうしない」
「今回だけ、特別に許してやる」
夢野は腕を組んで、フン、とのけぞりながら言った。丹野もまじめな顔で、ありがとう、と頭を下げた。
「ま、それは置いておいて。本題に戻るけど、そんな感じで、いわゆるキラキラネームやらというヤツは、非常に好ましくない事態を引き起こすわけ。だから、鳥越くんも相当苦労したんだろうね」
「苦労したからって、事件を起こしていいわけがない」
「もちろんそうだよ。でも最初の被害者、佐藤敏夫でしょ? 砂糖と塩やって絶対にいじめられている、と鳥越くんならすぐに気が付いたんだろうね。それをいじめていた人物がまた中川瑠偉、なかがわるい、だもの。実際に会社でのいじめで、佐藤さんを塩って呼んでたんでしょ? 自分だって人の事言えない名前なのにね。その上、2番目の被害者は秋野夕陽。絶対に小学校の唱歌の『紅葉』歌う時にいじられるよ。そんなのが色々重なって、鳥越くんがいじめられていた思い出が掘り起こされて重しまって、爆発したんだろうね」
「中川は、自分も名前でいじめられていたらしい。そこに佐藤氏がきて、名前で親近感を抱いたものの、その名前ネタを使って自分の好きな女性と話をしているのを見て、憎しみが湧いたらしいぜ。自分はこんなに苦労したのに、アイツはそれをネタにするなんて、と」
「俺を含めて全員が気の毒だよ。君も子供が出来たら気を付けるんだよ。マタニティーハイと子供が生まれた嬉しさで、夫婦ともども暴走して珍名付けないようにね」
「結婚自体あり得ないから、子供なんてもっとあり得ないよ」
「猫ちゃんにも変な名前つけんなよ。わさビーフとか青梗菜とか」
「なんだその名前。猫に牛とか野菜の名前つけてどうするんだよ」
「例えだよ例え。君の名前は響きも字面もとってもいいんだから。……羨ましい位だよ」
「お前の夢野って響きはとてもいいと思うぜ。字面も流れるタイプで音と共に優美だしな」
「なら君もうちの養子にはいる? 夢野尊になれるよ、って、あんまし面白くない名前だね」
「面白くないはひどいな。いま話題のパートナーシップでは、戸籍は変わらないぞ」
「だから養子言うてるじゃないか。うちの両親君の事気に入っているから、父親に言えば入れてくれると思うよ。そしたら俺と君、兄弟だけど」
「……兄弟」
「君と兄弟となるのはちょっとどころか、もの凄く遠慮するけどね!」
「そこまで拒否しなくてもいいだろうが。まあ俺も丹野の性が気に入っているからこのままでいいけれどな」
「そうだね、君は丹野のままがいい。夢野性になったら、たけるくんと呼ばないといけなくなってしまう。……ってなに悶えてるんだよ」
「……今さら名前呼びはキツいな」
「鳥肌立てるほど嫌か! ならば呼んでやる! たけるくーん」
ニヤニヤと笑ながら呼べば、しかし丹野は動じずにニヤリと笑って返した。
「なんだい有芽くん」
「うわやめ鳥肌立つわ!! 」
**
とんかつ屋、続き。
「謝れ! 全俺たちに謝れ!」
バンバンバン! 3人が机を叩く。そうしてアハハ、と笑い出した。
「あーもう、ほんとソレだよなあ」
「だいたい親の愛情ってなんだ、て話ですよね」
「愛情? ペットと間違えているんじゃないのか!?」
「前に丹野んとこの猫ちゃんを獣医さんに連れて行ったら、レモンティーちゃんって猫がいたんですけど、それ並の名前ですもんね、俺たち」
「レモンティー! レモンだけで良いじゃないか」
「なんで茶が付くんだ」
「子どもが名付けたんだろうけどね、きっとおしゃれな名前と思ったんだろうけど」
「猫ならまあ、名前でいじめられることはないと思うけれど、こちとら人間だからな」
「親なら長い人生でどういう目にあうか、想像くらい出来るだろうに」
「愛情があるならまともな名前を付けやがれって言うんだ!」
「ちなみに親の愛情云々言われて、俺、父親を雑誌丸めて張り倒しましたからね」
「いいなあ! 俺もこんどやろう!」
あはは、と笑っていると、先ほど注文した品々が運ばれてきた。
うるさくしてすみません、と謝罪すれば、引きつった笑いの店員さんが、大丈夫ですと言いながら品々を置いて行った。
「それにしても有芽、その嫌いな名前をよくペンネームに使ったなあ。変えようとは思わなかったのか?」
追加の串揚げをほおばりながら矢名が聞く。夢野はソースをたっぷり付けたそれを見ながらふふふ、と笑った。
「丹野がね、『ペンネームとして最適』って言ってくれたんです」
「へえ……」
「それに、名前を呼ばれるのが嫌いだって言っているのに、ユメユメしつこく呼びやがりましてね。当時の同級生もみんな気を使って夢野呼びなのに、アイツだけユメユメ。それでいて周りにも『苗字を省略した』でしょう? アホらしくて怒る気力も無くなって。そしたらね、いつの間にか慣れちゃったんですよ」
夢野は微笑んだ。
「今まで物心ついてからは親以外にユメと呼ばれたことも呼ばせたこともが無かったから、他人に呼ばれる事に慣れてなかったんです。それを遠慮なく呼んでくれやがったんですけど、丹野は絶対に名前でからかったりしない。それどころか大学でも揶揄おうとしたヤツには正面から議論を吹っかけて論破してね。俺の名前のためにそこまでしてくれるのか、って嬉しくなって」
「……わかるなあ」
「それにイラストとか絵を描いて、見せるたびに言うんですよ。『この絵が賞を取って、新聞とかに夢野有芽って名前が載るのを、はやく見たいな』って」
「……」
「そんなこと言われたらもう、本名のまま行くしかないじゃないですか。それに会社員時代にはこの名前のお陰ですぐに覚えてもらえて、仕事もしやすくて。おかげでだんだんとコンプレックスが無くなったんですよ」
「ああ、それは良かった。有芽がイラストレーターになったのも良かったんだな。確かに最高の名前だもんな」
「今までの苦労の方が大きすぎて、絶対に親に感謝はしませんし、いまだに女性と間違えられますけど、スルー出来るようになりましたし、絵描きの名前としても、謎っぽくていいなと思ってます」
「そうですか」
「あ、今の話、丹野には内緒ですよ!」
「はいはい」
「絶対ですからね!」
「名前で苦労した者同士なんだ、気持ちはわかるから。言ったりしねえよ。それに、親に感謝なんてしないけれど、俺はコイツに会えた。それだけは、この名前に感謝しているよ」
「ははは、それは俺もだよ。夢野さんも、でしょ?」
「まあそうですね。丹野が私に興味を持ってくれたのは、この名前のお陰もあるでしょうから」
人一倍苦労したこの名前だが、一生の友人に会えたことは、何よりの宝だ。
「名前も、友人も。一生の相棒だものな」
しみじみという矢名に、二人が何度も頷く。
その後も3人は苦労話で盛り上がったのだった。
エピローグ
**
夢野の絵が賞を受賞し、その名前が雑誌に載った。佳作だから小さかったけれど、確かに載ったそれを一緒に雑誌を見ていた丹野は、そっと指でなぞって、万感の思いを込めて言った。
「お前の名前は、画家になるために編み出された名前だよな」
「……そうか?」
「美しい名前だよ。本当に。友人として誇らしい」
「……ありがとう」
「あの絵、今までで一番良かったぜ。次も期待しているからな」
「プレッシャーかけないでよ。でもありがとう。ようやくなれた。夢が叶ったよ」
「ああ、おめでとう、有芽」
「……名前で呼ぶなってば!」
クロスワード殺人事件 歩芽川ゆい @pomekawa
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