エスパニョール・デル・プエブロ②

 里藤が手に取ったイワシはよく肥えており、目が濁っておらず身が青味がかっていて新鮮なイワシの条件を完全に満たしている素晴らしい鮮度のものであった。

 となると、このイワシを活かすも殺すも里藤次第である。里藤はふうっと一つ息を吐いてイワシをまな板の上に置き、三徳包丁の背を使い、尾から頭にかけて鱗を削ぎ取る。つづけてイワシの頭を落とし、腹を切る。それを八尾分繰り返し、流水で内臓や血合いを念入りに洗い流した。


「なぁ」

「なんだ」


 流し横のサイドテーブルでオリーブのヘタを取っているクアッドが里藤に話しかける。里藤は短く返しながらも、イワシの腹の開いた部分に親指を入れて尾のほうへスライドさせる。イワシの腹は柔らかく、カパリと開いた腹から里藤は背骨を取り出してボキリと折った。あとは脇の骨をカットすれば三枚おろし完成である。


「さっきの話に戻るけどよ。石鹸ってのはアブラならなんでもいいのか?」

「……ああ。魔物の脂を使おうってか。目の付け所は悪くないな」


 まな板に戻った里藤はイワシを一口サイズにカットして皿に避けた。そのまままな板を変えてブロッコリー、マッシュルーム、ミニトマト、ズッキーニを食べやすいサイズにカット、ニンニクだけは潰す。ここまでやればアヒージョは加熱するだけである。ついでにパタタス・ブラバス用のじゃがいもを切り、里藤は包丁を布巾で拭った。


「お、その口ぶりは正解ってことか?」

「正解だが値段を考えろ」


 牛の魔物であるウシシは人気があり、特に脂は様々なことに使えるので需要が高止まりである。故に値段も非常に高く、ファヘハット辺境伯領で人手さえあればほぼ無限に採取できるオリーブに比べると何十倍も価値があるのだ。そんなもので石鹸などを作ろうものならすぐに破産するのは間違いなかった。


「……無理だな!」

「金儲けのために破産してたら話にならんわな」


 正論を言う里藤になおもクアッドは食らいつく。


「ならブッヒーはどうだ? ウシシに比べたらかなり安いだろ」

「確かに安いが……妙だな。なぜそこまで石鹸にこだわるんだ。風呂なんざ石鹸があろうがなかろうが適当に入るタイプだろうおまえは」


 クアッドの心臓が跳ねる。もちろん、クアッドにとって石鹸などあれば便利だがなければないでいい存在にすぎない。しかし、辺境伯邸に住む女性にとっては違うのである。夫人であるミリアはくすんでいた髪色が蘇ったことで大興奮し、それを見た従士やメイドたちも彼女に倣ってこぞって石鹸で身体を洗った。結果、ミリアを除く女性陣の中で少なくなっていく石鹸の奪い合いになり、サボりなどで全身弱みまみれで里藤に近い人間であるクアッドは、里藤に何としても石鹸を作ってもらえという恐喝を女性陣から受けているのだ。

 そんな心境を世界を渡り歩いて色々な人間と触れ合ってきた里藤が見抜けぬわけもなく、クアッドに事実を突きつけて本音を引き出そうとしていた。


「べ、別にぃ? ただ身体を清潔にしないと厨房に出入りするのが許されなくなるのかなーって思っちゃったりなかったり」


 へたくそな口笛を吹くクアッドの態度に里藤は眉を顰めるが、ハァと大きく嘆息して心の底から嫌そうに言った。


「……わかった。おまえの小遣いでブッヒーの背脂を買ってこい。それなら石鹸にできるか試してやる」

「本当か!?」

「ああ。オニグモさんの蒸留器もあるし、精油さえ作れば匂いも大丈夫だろう。ただし、今日は無理だ」


 そもそもブッヒーの基である豚の脂は人間用の石鹸にはあまり向いていないことを里藤は教えなかった。豚脂の石鹸は洗濯や洗浄用に適しているので自身が厨房で使いたいし、クアッドの自腹ならそこそこの額がする豚脂を買っても懐が痛まないので実験できる。なかなかに腹黒い提案であった。


「えー? 脂なら今から買って来るぜ?」

「お客様は今日泊まるらしいからな、日が変わるまで俺は厨房に詰めておくんだ。いつ酒の当てを求められるかわからん。それに獣脂は臭うからオヴィニットさんがストップをかけるさ」

「……今日はやめとく」

「賢明な判断だ」


 異臭の発生源に怒り狂って突撃してくるオヴィニットの姿を幻視したクアッドが身体を震わせた。そんなクアッドをカカカッと里藤は笑いつつ、調理台中央の籠に盛られたニンニクを手に取る。クアッドはやけに多いニンニクの量が気になったのか、二つ目のボールに入ったオリーブの下処理の手を止めて里藤に訊いた。


「ニンニクそんなに使うのか?」

「おう。スペイン料理はトマトとオリーブオイルとニンニクをよく使うからな」

「なに使おうがそりゃいいんだがよ。奥様には嫌がられるんじゃねぇか? 食ったら口から凄い臭いがするぜ」

「あぁ、それなら問題ない。口臭ケアの方法なんていくらでもある」

「そうなのか!?」


 マジかよと言いたげなキラキラした目でクアッドが里藤を見る。困った里藤はどういう理屈か聞きたいかとクアッドに尋ね、クアッドはそれに首を縦に振ることで肯定した。その態度に里藤は短く嘆息して、仕方がないと言わんばかりにニンニクを手に持って雄弁に語りだす。


「ニンニクを食べた後に臭う理由はニンニクに含まれるアリシンという成分が原因だ。このアリシンという成分はアリインという成分がアリナーゼという酵素と結びつくことで発生する。そして、アリインはニンニクをすりおろしたり、切ったりすることで生まれる。ここまではわかるか?」

「酵素だの成分だのはさっぱりわからんが、ニンニクは人の手が入ると臭いが出る原因ができるってことだよな」

「うむ、その認識で間違いない。クアッドはニンニクを生で食べたことはあるか?」

「あるある。モトル大森林での行軍中にカットした生ニンニクを焼いた魔物肉と一緒に食ったりしたわ」

「実は生のニンニクよりも焼いたほうが臭いは弱くなる。先ほど言ったアリナーゼが熱に弱いからだ」

「あー。調理するなら大体熱が入るから臭い自体は強くはならないってことか」

「基本的にはな。だが、それでも完全には消せない。だから、コイツの出番だ」


 里藤はそういって、調理台の下に隠していた小樽を取り出した。


「そいつは?」

「濃縮したリンゴジュースにクエン酸を混ぜたものだ。ちょいと一杯どうぞ」


 濃縮したペースト状の原液をレードルで木製のカップに移し、流しの水で割ったドリンクを里藤はクアッドへ渡す。クアッドはそれを躊躇いなく一気に煽った。


「うまっ」


 ごくごくと音を立てて飲み干したクアッドは、称賛と共にカップを里藤へ差しだす。里藤は苦笑してもう一度ドリンクを作って手渡した。


「皮ごと絞ったリンゴジュースにはポリフェノールや食物繊維が含まれている。クエン酸と合わせたドリンクにして食後に摂取すればニンニクの臭いをほとんど抑え込める」

「おまえの脳みそすげぇな」


 クアッドからの手放しの称賛に里藤はへっとニヒルに笑い、パエリアの準備に戻るのであった。





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