第2話 始動、ハニカム計画⑯ 完

 バンバン、バンバン。 


 ガラス戸を叩く音はなおも続いた。


「えっ⁉ 何⁉ オバケ⁉」


「オバケ⁉ やだやだやだやだ、本当やだ! お姉ちゃ~ん!」


「大丈夫だよ潤花、どうせ人間だよ」


「そ、それはそれで怖いんじゃないかな……」


 時刻は午後九時を過ぎている。

 辺りはもう暗くなっているはずなのに、音はいまだに止む気配はない。

 バン、バン、バン。

 断続的に続いていた音が次第に弱くなってきた。

 紛れもなく意思のある、人間の行動だった。

 冷静に考えて、相手がこちらに危害を加える気なら、ここまで堂々と注意を引こうとはしないだろう。しかし、今の段階では不審者に変わりない。

 俺は万が一の危険性も考慮しながらベランダの方に歩き出す。


「……みんな、一応警察呼ぶ準備だけしといて」


「了解だよー。みーちゃんと真由ちゃんも、逃げる準備もね」


「人間だったら私がぶっ飛ばすから、オバケかどうかだけ教えてね」


「お前はその蛮族みたいな思想捨てて待ってろ」

 

 涙目で姉の背中に隠れているくせにとてつもなく物騒なことを言い出す潤花を尻目に、俺はカーテンまで近付く。

 カーテン越しのシルエットに、かすかな人影が映っていた。

 小柄で背が低く、腰が曲がっている。

 ……思い当たる人物が一人いる。

 これでカーテンを開いても誰もいないなんてホラーな展開にならずに済めばいいが。

 俺はほんの少し緊張しながら、シャッ、とカーテンを開く。

 

「あ……」

 

 その人影と目が合った瞬間、相手は驚いた様子で顔を上げた。

 そこに立っていたのは、パジャマ姿の老婆だった。


「板垣のお母さん……!」


 正体は、今朝会ったばかりの隣の奥さんだった。

 昼間は車椅子に乗っていたが、今は杖をついて呆然と立っている。

 目の前の光景が夢か現実か定かじゃないような、おぼろげな表情だ。

 俺は慌てて窓の鍵を開けた。


「どうしたんですかこんな夜中に! 寒いでしょ!」


「あんた……人の家で何してるの……?」


「お母さん! ここ下宿! お母さんのおうち、ここじゃなくて、そこ!」


「えっ⁉ となりのおばあちゃん⁉」


 居間の奥からみずほ姉ちゃんが慌てて駆けつけ、ベランダの窓を開く。足元は靴下のままだった。

 

「おばあちゃんどうしたの⁉ おじいちゃんは⁉」

 

「ふぇ……? 秋子ちゃんかえ?」


「おばあちゃんそれ私のお母さん! 私みずほ!」


 耳が遠い板垣の奥さんのために、耳元で大きな声で喋るみずほ姉ちゃん。

 俺たちの様子を見て他のみんなも警戒心が解けたようで、続々と俺たちのあとに続いて来た。

 

「板垣のおばあちゃんだ! どうしたのこんな夜中に~」


「みんな知ってる人……なの?」


「あぁ。ずっと昔から伊藤下宿の隣に住んでるんだ。俺も子供の頃からお世話になってる」


「ねぇお姉ちゃん。隣の家、お風呂場の電気付いてるみたいだけど、もしかしておじいちゃんお風呂入ってる間に、おばあちゃん家から出てきちゃったの?」


「あー! あり得る! おばあちゃん、こんなところにいたら風邪引いちゃうよ!」


「お母さん、俺、送って行くから家帰ろ。家に」


「えぇ? どこに?」


「お母さんちだよ! 送ってってあげるから!」


「あ~……そうかい?」


 掃き出し窓を開けてそのまま庭に出る。 

 わずかに湿ったウッドステップの冷気が靴下越しにひんやりと伝わり、足が冷たかった。

 

「ちょっと衣彦⁉ 靴は⁉ そのまま行く気⁉」


「すぐそこだから!」


「いや、そういう問題じゃ──」


「私、靴取って来る!」


「わ、私も……!」


「もうみんなで行こうよ! 古賀くん、待ってて!」


 一人で充分だというのにこいつらは……。

 俺は下宿生たちの制止を諦め、奥さんがどこか行かないよう取り留めのない会話を続けて間を持たせた。

 するとすぐに、バタバタと忙しい足音を立てながら、下宿生たちが玄関から靴を持ってきた。わざわざ俺の分もだ。


「おばあちゃん、腕、ちょっとごめんね。支えるから」


「みーちゃんがそっちなら私こっち支えるね。これで完璧な布陣だ」 


 全員が靴を履き終え、外に出た。裏庭から隣の板垣宅は目と鼻の先だが、敷地周りのブロック塀を迂回する必要があったため、俺が先導してみんなを誘導した。

 後方では、弱々しく歩く奥さんの両隣でみずほ姉ちゃんと優希先輩が介助するように支えている。その少し前を歩く小早川と潤花が、半身で奥さんの方を向きながら何やら楽しそうにみんなで会話していた。

 その輪の中心にいた奥さんと、ふいに目が合う。

 奥さんは俺と目が合うと、しわくちゃの目をさらに細めながら、くしゃっとした笑顔を浮かべた。

 その年老いた眼に映る若造が、かつて遊びに来ていた子供と同一人物だということを、わかっていてくれているのだろうか。

 きっと、わからないだろう。

 でもいい。

 わかっていても、わかってもらえなくても、また憶えてもらえばいい。

 そんな諦観にも似た感情を抱きながら、視線を返す。

 すると奥さんは、俺に優しく微笑みかけながら──


 自分の額を、優しく撫でた。


「──っ」


 瞬きのような一瞬。

 時が止まったような気がした。

 胸の奥から、じわじわと熱い何かがこみ上がってくる。

 こんなに年老いて。自分がどこにいるのかわからなくなって。

 それでもこの人は、俺のことを、忘れていなかった。

 それが嬉しくて、


「…………ふ」


 思わず頬が緩んだ。


「ふっふふ……」


 するとすぐさま、潤花が急に肩を震わせて笑った。

 あまりに突然で、脈絡がない。

 にもかかわらず、何故か俺よりも嬉しそうだ。

 その視線はどういうわけか、間違いなく俺を捉えている。

 今の会話のやりとりで、面白い要素なんて一つもなかったはずだが。

 隣にいる小早川も後ろの先輩たちも、きょとんとした顔で突然笑い出した潤花を見た。


「潤花ちゃん、どうしたの?」


「えー、なになに? 何か面白いことあった?」


「わかった、衣彦くんがまたボケたんだ」


「いや違っ──ってちょっと待った! 俺がボケっていうの、すっげー心外なんですけど⁉」


「ごめん、本当に何でもないの。ただ──」


 潤花が横目でチラリと俺を見た。

 

「安心したら、笑っちゃっただけ」


 閑静な住宅街の一角。

 少し肌寒く、湿っぽい春の夜。

 俺たちは六人で歩いた。

 腰の曲がった淑女を引き連れ、歩幅を合わせながら、ゆっくりと。

 街は、いつもの夜より明るく見えた。




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