第2話 始動、ハニカム計画⑭


 しばらくの全力疾走を経て、俺たちは伊藤下宿へと辿り着いた。

 みずほ姉ちゃんと小早川は疲労困憊(ひろうこんぱい)の様子で着の身着のままソファやカーペットの上に倒れ込んだ。

 一方で美珠姉妹は上着をしまうべくそのまま軽快な足取りでそれぞれの自室に戻った。その間、姉妹揃って息一つ乱れていなかったのはさすがに呆れた。なんなんだよあんた達は。


「二人とも、大丈夫か?」


「な……なんとか……けほっ……」


「も……ダメ……死ぬ……」


「みずほ姉ちゃん、水いる?」

 

「あ……ありがほ……置いほいて」


「口回ってないよ」


「はっ……はは……」


 肩で息をしながら居間のローテーブルにもたれかかるみずほ姉ちゃんは力なく笑った。

小早川はソファの上に寝転がりながら顔を紅潮させ、息を荒げている。

 一瞬邪(よこしま)な劣情を抱きそうになったものの、紳士たる俺はそれを毛ほども表には出さず、キッチンで二人分のグラスに水を入れてから居間のテーブルに置いた。


「小早川の分も、ここに置いておくからな」


「うん……ありがとね……」


「おう」


「こ、古賀くん……あの……けほっ、けほ……」


「ん?」


 俺は自分用に入れておいたペットボトルのコーラをあおりながら、小早川と視線を合わせる。

 どこか思いつめた表情だった。


「今日は、本当に、ありがとう……」


「……何で二回言うんだよ」


「大事なことだから……」


 疲労のせいなのか、それとも他に何か思うところがあるのか。小早川の表情はどこか寂し気で、まるで今際(いまわ)の際(きわ)のような儚さで呟く。


「別に特別なことをしたわけじゃないんだから、礼なんていらないぞ」


 俺はそれだけ言い残してペットボトルの蓋を閉め、再びキッチンへ戻った。

 小早川が何かを言いかけ、みずほ姉ちゃんがこちらを見つめている気配がしたが、背中を向けてそれ以上の言及を拒んだ。小早川にはいつか、普通の学生生活というものを知ってもらう必要がある。

 そんな時、トントントントンと階段の方から軽やかな足音が聞こえてきた。

 悪魔のトラブルメーカーコンビがご降臨なさった。


「みーちゃんも真由も大丈夫~?」


「なんとかぁ~……」


「大丈夫……」


「二人とも全然大丈夫じゃなさそうだね!」


 けらけらと能天気な笑い声を上げ、潤花は到着するなりカーペットの上に座り込んでストレッチを始めた。膝をまっすぐ伸ばしたまま爪先を手の平全体でべったりと覆いつつ、上体をホチキスみたいに折り曲げている。雑技団かよとツッコミたくなるほど軟体だ。

 その傍ら、優希先輩はテーブルの前に行儀よく正座をして、リモコンでテレビの電源を入れていた。


「古賀くん! 待ちに待った『おい森』のアブラムシ特集! 見るなら今しかないよ!」


 まだ諦めていなかったのか……。

 優希先輩は目をキラキラさせながらテレビの液晶画面を指さしていた。


「先輩……元気っすね」


「何言ってるの古賀くん! こんな面白い番組始まるんだから、そりゃあ元気も出るよ!」


 出るのはあんただけだ。休ませろ。

 みずほ姉ちゃんと小早川の二人を引っ張りながら全力疾走していたにも関わらず、先輩はまるで疲れた様子が見えない。それどころか、今はそのとき以上に活き活きしている。この虫に対するモチベーションは一体どこから来ているんだ。


「みんな、お風呂、あとお湯入れるだけだから、好きな順で入っていいよぉ……」


「私と古賀くん、これ見てから入るから最後でもいいよー!」


「俺も⁉」


「当然! 今夜は寝かせないよ!」


「っ⁉ 優希! そんなのダメだからね!」


「いや寝るから! 絶対寝るから!」


「お風呂、私あとでいいよー。みーちゃんか真由が一番疲れてるだろうから、先に入りな」


「私はまだお腹痛いから……みずほちゃん、先いいよ」


「私も今お風呂入る体力回復してないからなぁ……衣彦、先に入りな」


「じゃあお言葉に甘えて──ちょ、先輩? 袖掴まないでください。伸び──服伸びる! ねぇ! すごい握力!」


「もう、これじゃ誰も入れないでしょ~」


「あはは、こうなったらもうみんなで入るしかないね。あ、衣彦はダメだからね? 一瞬期待したでしょ。えっちー」


「してねーわ! そもそもこんな面倒くさいことになったのも、お前が余計なことしたせいだろが!」


「そういえば、衣彦くんと潤花ちゃん、どうして走ってたの?」


「っ!」


 しまった……一番触れて欲しくない話題に踏み込まれてしまった。

 元カノに都合よく言いくるめられそうになった俺が、同居人にキス(のフリ)されて逃げてきた件について。

 こんな絶対面白くないネット小説のタイトルみたいな文脈、バカ正直に話そうものなら末代までの恥だ。

 俺はチラリと潤花に視線を送る。

 ここはいきなり俺を拉致した張本人に説明責任を果たしてもらうしかない。

 さすがにキスの件については伏せるだろうが、元はと言えばあの無茶ぶりの全力ダッシュは潤花がやり出したことだ。

 例のごとくノリと勢いに任せた言い訳でいつもみたいにヘラヘラ誤魔化して──


「衣彦! 元カノにヨリ戻そうって言われてたから連れ出してきた‼」


『えーーーーーーー⁉⁉⁉』


「ちがーーーーーーう‼‼‼」


「古賀くん⁉ お姉さんそれは聞いてないよ⁉」


「違うんですって! おたくの妹の解釈違いですから!」


「衣彦⁉ どういうこと⁉ 美作さんに会ってたって……ヨリ戻そうって⁉」


「だから誤解だって! あいつ、紅陵落ちて清祥行くことになったから、友達に戻りたいって言ってきただけ! ヨリなんて戻さないから!」


「えーーー‼ 美作さん清祥に来るの⁉ ダメだよ衣彦! 美作さんと仲良くしたら絶対ダメだからね⁉」


「ね⁉ みーちゃんもそう思うよね⁉ そもそもあの子、話がおかしいんだよ! 自分から離れといて同じ学校に通うことになったから友達に戻りたいなんてバカなこと言ってたけど、そんな自分勝手、友達でもなんでもないじゃん! あっぱらぱーのトンチキだよ!」


「そーだそーだ! 元彼の顔が見てみたいぞー!」


「俺だよ! 悪かったな‼」


「ダメだよ衣彦は人が良過ぎなんだから! そんな調子で生きてたらまた何度も悪い女の子に引っ掛かって──」


 ダン! ガタン! ガシャッ! 


「痛ったーーーーーーい‼」


 勢い良く詰め寄ろうとした拍子で、テーブルの角にすねをぶつけたらしい。みずほ姉ちゃんはグラスが倒れて水浸しになったテーブルの上に転びそうになりながら手を付き、悶絶していた。


「え……っと、大丈夫?」


 俺はすぐにテーブルの上にあったティッシュ箱からティッシュを取り出してテーブルの上を拭く。

 みずほ姉ちゃんのスカートにも少しこぼれていたのが気になったが、今の状況でそれを言い出しにくかった。


「みーちゃん大丈夫⁉ 脛骨(けいこつ)は相当痛いよ⁉」


「痛っ……たくない! こんなの、平気……!」


「で、でも、今痛いって……」


「私、雑巾持ってくる!」


 先輩と小早川がみずほ姉ちゃんの身を案じ、潤花は素早くキッチンに雑巾を取りに行く。

 しかし当のみずほ姉ちゃんはそんなのお構いなしで、額に脂汗を浮かばせながら鬼気迫るような涙目で俺を睨んだ。


「とにかく、衣彦はもうちょっと自分を大事にして。困ってる子に優しいのは衣彦の良いところだけど、衣彦の優しさに付け込もうとする子だっているかもしれないんだから」


「いや、全然大丈夫。俺別に優しくないし、そんなチョロい男じゃないから」

 

「もぉぉぉぉぉおっ!、ほんっっっと! 全っ然! わかってないんだからぁぁぁ‼」


「待ってみずほちゃん……! 手、大変……!」


「ごめん真由! あとで拭くから! 今は衣彦が──」


「違うの! 血が出てるの!」


「え⁉」


 全員の視線が一斉にみずほ姉ちゃんの方に向いた。

 見ると、みずほ姉ちゃんの手のひらの付け根から、つぅっと一筋の血が流れていた。


「あ……」


 自分の腕に血が伝うのを見て、ようやくみずほ姉ちゃんが大人しくなった。

みるみるうちに表情から感情が消え、流れた血は長袖の中に吸い込まれるように消えて見えなくなった。

 一瞬、俺たちは静まり返る。

 

「みーちゃん‼ どうしたの⁉」


 その沈黙を、潤花の叫び声が破った。

 雑巾を持ってきた潤花は顔を真っ青にしてみずほ姉ちゃんに駆け寄り、俺も慌ててみずほ姉ちゃんの腕に付いた血をティッシュで拭いた。

 みずほ姉ちゃんは俺にされるがままといった様子で、服の袖をまくりながら、呆けた表情で自分の腕を見つめていた。


「大丈夫……グラス、割れちゃってたみたい……」 


「みーちゃん! 血、服……!」


「潤花! 私の部屋から消毒液と脱脂綿持ってきて! 机の上!」 


「っ──わかった!」


「小早川、割れたグラス片付けてくれ。ケガするなよ。一応、足元にも破片あるかもしれないから気を付けて」


「うん……!」


「あ、一応ガムテープでその辺の破片取っちゃおうか。ちょっと待っててね、探してくる」


「ちょ、ちょっとみんな──」


 かすれたような声で、みずほ姉ちゃんは言う。


「みんな、これくらいで、大袈裟だよ……」


「『これくらい』って──みずほ姉ちゃんだって、もっと自分のこと大事にしろよ」


「っ……!」


 俺はそう言ってみずほ姉ちゃんをたしなめ、血を拭(ぬぐ)った傷口を確認してみる。幸い、切り傷だけで破片は刺さっていなかった。消毒して絆創膏でも貼れば血が止まるのも時間の問題だろう。


「少し切れてるだけだから、消毒して絆創膏でも貼れば一日で治ると思う。これなら痕も残らないで──」 


「……ずっ……すっ……うぅっ……」


「へ⁉ え⁉ 泣っ……えぇ⁉」


 突然だった。

 みずほ姉ちゃんの頬から、ぽろぽろと大粒の涙が流れた。

 溢れる涙を堪えるように俯(うつむ)き、傷口に当てたティッシュからじわりと血が滲み出るほど、震える拳は堅く握られていた。 

 血も涙も止まらなかった。

 

「ごめん、今の、俺のせい……」


「っ……!」


 俺がそう言うと、みずほ姉ちゃんはぶんぶんと首を振った。

 ますます戸惑う。

 じゃあ、何で。

 てっきり俺が言葉を選ばずに反論してしまったせいでみずほ姉ちゃんを傷つけてしまったと思っていたが、そうじゃないのか。

 

「みずほちゃん……!」


 続きの言葉に迷っている最中に、小早川がみずほ姉ちゃんのそばに駆け寄ってきた。小早川は俯いているみずほ姉ちゃんを抱き締め、その顔を自分の胸にうずめた。


「みずほちゃん、今日ずっと元気なかったよね? ごめんね。ずっと気になってたのに、聞けなかったの……きっと、何か理由があったんだよね?」


 俺の手の中で、みずほ姉ちゃんの手が弱々しく閉じられた。血が滲んだティッシュには、未だ赤い染みが濃くなっていく。


「うっ……く……悔しいの……!」


「……え?」


「私が、守らなきゃいけないのに……」


 その言葉を聞いて、小早川がハッとしたように俺の方を見た。

 小早川の悲痛な眼差しが俺に何かを訴えようとしている。が、いまだに意図が伝わらなくて混乱する。

 守るって、みずほ姉ちゃんが守るものなんて……


「みーちゃん⁉ 泣いてるの⁉」


 俺が困惑している間に、美珠姉妹がそれぞれの荷物を抱えて戻ってきた。二人はすぐさまこちらへと駆け寄り、優希先輩が俺と交代して応急処置に取り掛かった。


「よしよーし、ちょっと染みるけど、大丈夫だからねー」


 優希先輩はみずほ姉ちゃんに優しく語りかけながら、ピンセットでつまんだ脱脂綿に消毒液を浸し、それを手際よく傷口に数回付ける。みずほ姉ちゃんは何度か身体をぴくっと強張らせたが、小早川に抱き締められながら左手を潤花に握られ、右手を先輩に委ねているのを意識してか、次第に反応が緩慢になった。

 俺はみずほ姉ちゃんのすぐ近くにいながら、ただ慌てるだけで、何もできず眺めているだけしかできなかった。


「ごめ……ひっぐ……みんな、ごめんねぇ……」


 みずほ姉ちゃんが嗚咽混じりに謝り、上ずった声を絞り出す。

 確かに、みずほ姉ちゃんの言う通り、みんな大袈裟だ。

 少しガラスで切ったくらいで、大慌て。

 怖がる我が子を安心させるように抱きしめたり、重病人を見守るような顔をして手を握り締めたり。

 だが、その光景を見てようやくわかった。


「わっ……! 私が、お母さんの代わりに……みんなを、下宿を守らなきゃいけないのに……っぐ……」


 今、みずほ姉ちゃんが苦しんでいるのは、言葉や傷の痛みのせいなんかじゃない。


「わかんないのっ……どう、どうしたらいいか……っ!」


 無力感だ。


「私が、しっかりしなきゃいけないのに……迷惑ばっかり……!」


 嫌というほどわかる。

 みんなが当たり前のように出来ていることが、自分にだけは出来ない。

 力になりたいのに、そればかりか、足手まといになっている。

 そんな劣等感に苛まれ、打ちのめされたような気持ちになっているのだ。


「……誰も、みずほちゃんを迷惑だなんて思ってないよ」


 小早川がみずほ姉ちゃんの耳元で囁くが、みずほ姉ちゃんは弱々しく首を振る。その細い首筋が、怯えるように震える両肩が、胸に突き刺さるほど痛々しい。


「でも、私もう……お母さんがいなきゃ……何もできない……何も……」


「っ……」


 みずほ姉ちゃんの手を握っていた潤花が、辛そうに表情を歪めた。

 潤花は、さっきからずっとみずほ姉ちゃんに話しかけようとしているものの、何を言っていいかわからないようだった。口を開いて、かけるべき適切な言葉を探しながらも、それをうまく紡げず途方に暮れているようだ。


「…………」


 すでに手当てを終えていた優希先輩はみずほ姉ちゃんの手をじっと見つめながら、思いつめた表情をしている。

 今日一日、ずっと落ち込んだ三人を励ますために苦心していた先輩も、言葉に悩んでいるようだ。


「うっ……うぅ……ぐずっ……」


 俺は、今日の出来事を思い出す。

 みずほ姉ちゃんは、俺を守ろうとしていた。

 見ず知らずの子に何も考えず金を渡そうとしたときも。

 楓との関係修復に反対しているのも。

 俺がこれ以上傷付かないように、ずっと心配してくれていた。

 みずほ姉ちゃんが背負っているものの大きさも知らずに。

 俺は自分のことばかりしか考えていなかった。


「みずほ姉ちゃんが……ずっと、下宿のこと一人で抱え込んでたんだよな」


──そう思った瞬間には、言葉が出ていた。

 

「俺が守るよ」

 

 これが自分の口から出た言葉だとは、到底思えなかった。 

 

「みずほ姉ちゃんの代わりに……俺がこの伊藤下宿のみんなを守る」


「衣彦……」

 

 俺は向けられていた四人の眼差しを正面から受け止める。

 突然何を言い出したのかと呆れられているだろうか。

 四人はすっかり静まり返り、重い空気が流れた。


「衣彦も、守られなきゃダメだよ」


 そんな中、口火を切ったのは潤花だった。

 潤花はみずほ姉ちゃんの手を握りながら、


「みーちゃんが今一番心配してるのは、衣彦なんだから。このままだったら、衣彦がこの先また変な女に騙されるんじゃないかって。衣彦だって人の心配をする前に、自分から余計なことに首を突っ込むのをやめなきゃ」


「昼間の子の件に関しては確かにそうだ。けどな、俺と元カノのことについて言ってるなら、それは完全に過干渉だろ。ウルにだって、他人に踏み込まれたくないラインってのはあるだろ?」


「それは、そうかもしれないけど……」


「この下宿はただでさえプライベートの境界が曖昧なんだ。こういうところではっきり線引きしておかないと、自分だって嫌な思いをすることになるんだぞ? さっき、ウルがファミレスでしたことは明らかに一線を超えてる。俺がウルをナンパしてたやつを追い払ったこととはわけが違う、有難迷惑だ」


「じゃあ……放っておけばよかった?」


 潤花は、下唇をぎゅっと結んだ。


「衣彦が絶対に傷付くってわかってるのに、それでも何もしないで見てろってこと? 衣彦は、大事な人がそんなことになっても、一線引いて、黙ってるの?」

 

 拳を震わせながら、潤花が絞り出すように小さな声で俺に訴える。

 悪いことをしているわけではないのに、罪悪感で胸が痛む。

 小早川のように同情されるような事情があるわけでもない、たった数日顔を合わせただけの男にどうして潤花がここまで肩入れをするのかはわからない。ただ、こいつが俺を心配している気持ちは偽りのない本心のようだった。


「私も……衣彦くんが心配」


 潤花に同調するように小早川がぽつりと呟いた。


「衣彦くんは私たちのことを心配してくれるけど、もし衣彦くんが辛いことになったら、私たちのことを頼ってくれないのは……嫌だな」


「小早川……」


「今日はね、本当に楽しかったの。誰かとあんな風に遊べる機会なんてもう二度とないと思ってたし……衣彦くんが誘ってくれたおかげで、みんなと仲良くなれた」


 申し訳なさそうに、けれどはっきりと小早川は言った。


「でも、だから……今度は、私が衣彦くんや、みずほちゃんのことを助けてあげたい。二人だけじゃなくて、みんなのことも……守られてばっかりじゃ、嫌だから」


「みんな、同じだよ……」


 二人の間に挟まれているみずほ姉ちゃんがすんと鼻を鳴らし、涙を拭いながら赤くなった目を俺に向けた。


「衣彦がみんなを助けたい気持ちとおんなじで、私たちだって衣彦を助けたいんだから……」


「いや、みずほ姉ちゃんまで……」


 空気が重い。

 ドクンドクンと耳元で動悸が聞こえる。

 俺は深くため息を吐いた。

 どうにかして、この面々が納得のいく説得しなければならない。

 伊藤下宿の下宿生は、俺が守る。

 それぞれの抱える悩みや不安、心配事を全部、いっさいがっさいぶっ壊して。

 最後には、笑ってこの下宿を去ってもらわなければならない。

 絶対にだ。

 おばさんが守り続けてきたもの。

 みずほ姉ちゃんだけでは重くて抱えきれないそれを、俺が支えていくのだ。

 守るべき存在に守られるような、そんなヤワな男ではいられない。

 こいつらが無事に卒業できさえすれば、たとえ俺がどんな裏切りに遭い、傷付こうが構わない。

 ここにいる下宿生は本来、周囲から必要とされて、愛されて、幸せになるべき存在なんだ。

 救われるに値する人間は、足元の石ころのことなんか気にせず、前だけ見て歩いていけばいい。

 俺が見ることのできない景色を。

 俺の代わりに見るべきなんだ。


「俺は──」

 

 そんな思いの丈を漏らそうとしたとき、

 

「古賀くん」


 しばらく口を閉ざしていた優希先輩がぽつりと呟いた。

 背中を向けていた体勢からくるりとこちらへと座り直し、すっと背筋が伸びた綺麗な正座で俺と向き合う。

 手を伸ばせばすぐ届きそうな近い距離で、先輩はつぶらな瞳でじっと俺を見つめてきた。


「アブラムシがどうやって自分の身を守ってるか知ってる?」


「……はい?」


 俺は呆然として聞き返した。

 何を言っているのか本気でわからなかった。

 他の三人も同様に、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。

 だが、先輩の目は真剣そのものだった。

 至誠(しせい)の念に駆られた弁護士のように堂々としたその佇まい。

 真意は不明だが、何かがある。そう確信させるだけの凄味が今の先輩にはあった。


「いや、わかんないですけど……」


「自分の身体から分泌される糖分をエサとしてアリにあげて、その見返りとしてアリに天敵から身を守ってもらうの。『共に生きる』と書いて『共生関係』。自然界でお互いが助け合う関係のことをそう呼ぶんだよね」


「…………」


「誰かが危ない目に遭ったら、他の誰かが助けてあげて、道を間違えたなら、それを正してくれる。誰かに辛いことがあったら、助け合いの精神のもとでお菓子を分け与えたり、楽しい時間を共有したりして、傷を癒してくれる……今の私たちに必要なのはそういう、他人っていう垣根を超えた、特別な関係なんじゃないかな」


「それは『友達』っていうことですか?」


「うん、友達“でも”ある。けど、ただ同じ下宿に住んでるっていうだけの関係じゃない、友達で家族で、もっと特別な関係」


「特別な関係……?」


 まだ先輩の言いたいことが不明瞭だ。

 相手を助けたいという思いがお互いにすれ違っている俺たちを見かねて、何らかの妥協点を設けようとしている意図だけは辛うじですくえる程度だ。


「私たちがそれぞれ抱えてる問題は、命に関わるものじゃない。だけど、一生に関わる問題。そしてその根本的な解決は、お互いの問題に踏み込むことを許し合える相手がいなきゃ決して成し得ない。だから私たちは、今よりももっと、仲良くなる必要があると思うの」


「そんなの、理想論ですよ。たとえそうだとしても、叶いっこない。俺たちの問題は、そんな簡単なことで解決できないはずです。かえって、近い存在であればあるほど、言えないことだってある」


「理想は叶わぬ夢の代名詞じゃないよ。それを否定するのは、叶える努力をしてからでも遅くはないんじゃない? 研究で成果を上げるもっとも有効な手法は、諦めずに試行錯誤し続けていくことだよ」


 脳筋にもほどがある。

 研究とは違う、人間関係なんだぞ。

 試行錯誤なんて簡単に言うが、そのたびにどれだけ心がすり減っていくのか、この人はわからないからそう言えるんだ。


「そんな都合の良い解決策があると思えないんですけど……何か案はあるんですか?」


 今思ったことをすべてぶつけると険悪な雰囲気になりかねないので、まずは先輩の考えを聞いてみることにした。

 あわよくば、揚げ足を取ってでもその綺麗事を否定してやる。

 適当な思い付きで痛手を負うリスクを背負うより、都度起こる目の前の問題に対処していった方がよっぽど現実的だ。

 何か突飛な提案をしようものならそう反論しようと、俺は身構えた。


「簡単に言うとね、今よりもっと私たちの関係を深めるために、しなきゃいけないことがあるの」


「しなきゃいけないこと?」


「そう」


 頷くや否や──先輩はおもむろに俺の両手に手を重ねてきた。


「へ?」 


 ふいに手の甲に伝わる柔らかい感触とぬくもり。

 緊張の糸をすっと解(ほど)くような、優しい口調。


「恋人になるの。私たち、みんなで」


 にこっと愛らしい笑顔で、先輩は言った。


「私も、みーちゃんも、真由ちゃんも、潤花も。みーんな」


 突拍子もなく、非現実的な提案を。


「今日から、古賀くんの彼女になるんだよ」


 一。

 二。

 三秒間の沈黙を経て、


『えぇ⁉』


 ようやく、俺たち四人は揃って大声を上げた。




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