第2話 始動、ハニカム計画⑫


 窓から橙(だいだい)の光が漏れていた。

 温かみを帯びたその夕焼けの残滓(ざんし)を見て、ようやく陽が暮れかけていることに気付いた。

 少し前まで今頃の時間はもう暗くなっていたというのに、いつの間に日が長くなったのだろう。

 伊藤下宿から徒歩で十分程度、これから俺たちが通う清祥第三高校と下宿の中間あたりに位置する商店街のファミレス。

 そこで、俺はそいつと、一か月ぶりに再会した。


「ごめん。ちょっと遅くなった」


 ドリンクバーに行っただけにしてはやけに遅いと思っていたら、男性店員が女性客に連絡先を聞こうとしていたことに腹を立て、目の前でわざと水をこぼして注意を逸らしたらしい。やると決めたら体裁を顧みないという点においてはある意味この女らしい行動だ。よくやる。

 

「ほんと、信じらんない。そもそも仕事中だし、接客の仕事してるなら普通相手が嫌がってることくらいわかると思わない?」


 口調とは裏腹に、丁寧な所作で二人分のグラスがテーブルに置かれる。

 トレードマークである赤毛のポニーテールが、少しだけ短くなっていた。

 しっかりと見開かれた勝気な瞳、小柄な体躯でありながら堂々とした態度のおかげで子供っぽくは見えない容姿のギャップが久々に見ると独特だった。

 美作楓(みまさか かえで)。

 二か月ほど前、俺の幼馴染みのことが好きになったなどと抜かして、俺を振ったクソ女だ。

 

「接客の仕事をしたって、わからないやつにはわからないだろ。それに、迷惑になることをわかっててやるやつだっている。誰かさんみたいにな」


「……まぁ、それもそうだね」


 わざと強調して言うと、楓がわずかに目を伏せた。

 ただ、それだけだ。

 謝罪も、申し訳なさそうな態度も、さきほど待ち合わせで再会してから今まで、一度もない。

 俺にはその態度が、あの裏切りを『なかったこと』にしようとしているようにしか思えず、ずっと腹が立っていた。

 怨嗟の念を込めて、楓を睨む。

 すると楓は再び困ったように眉尻を下げ、少し目を伏せた。


「来てくれてありがとう」


 一口飲んだグラスをゆっくりテーブルに置いて、楓は言った。


「無視されたらどうしようかと思って、ちょっと不安だった」

 

「そう思われるなら無視すればよかった」


「……衣彦はそんなことしないでしょ」


「知ったような口利くなよ」


「怒んないでよ。せっかくのご飯、美味しくなくなっちゃう」


 むかつく。

 上から目線で理解者面の口ぶり。そんな器はないくせに、必要以上に自分を誇示しようとする振る舞い。

 好きだった頃は恋愛感情のフィルターでそれに可愛さすら感じたときもあったが、今となってはただの不快感しかない。


「──んで、話って何」


「今する? 食べ終わったらゆっくり話そうと思ったんだけど」


「別に、今でも後でも変わらないだろ」


「チキン冷えちゃうよ」


「そんなに長居する気ない。門限があるだろ、お互い」


「門限……? あー、そういえば、下宿に住むって言ってたっけ。お友達の」


「まぁな」


「下宿で新しい友達できた?」


 下宿の面々の顔を思い浮かべる。

 あいつらは友達……ではない。


「たった数日でできるわけないだろ」


「それもそっか。そんな短期間で仲良くなれるわけないもんね」


「…………」


「でもいいな。楽しそうだし、そういう生活憧れる」


「絶対に無理だ」


「どうして?」


「お前にそんな社交性があったら、今頃もっと周りと上手くやれてるだろ」


 楓は一瞬きょとんとして、すぐに顔を綻(ほころ)ばせた。


「かもね」


 自嘲気味な笑顔を向けられ、俺はフンと呆れたように鼻を鳴らし、目を背ける。

 ダメだ。油断すると昔のことを思い出しそうになる。

 気を張れ。隙を見せるな。

 こいつは裏切り者だ。

 何でもないような顔をして、また俺を利用しようと何かを企んでいるに違いない。


「今のうちに、忘れないうちに返しておく」


 鞄から取り出した紙袋を差し出す。

 無病息災のお守り。

 楓が習っていたバレエの発表会前、二人で神社に参拝に行ったとき、技能上達のお守りと引き換えに、お互いにプレゼントし合ったものだ。


「……これ、効果あった?」


「今のところ五体満足ってことは、それなりに効果あったんじゃないか」


「そう……良かった」


「手紙とか、そういうのは全部捨てるからな。ただ、漫画だけ処分に困ってる。さすがにダンボール一箱分は邪魔だ。捨てるのはまずいんだろ?」


「うん。他のは捨てるなり下宿に寄付するなり好きにしていいけど、バレエの漫画だけは返して欲しいな」


「わかった。それだけ宅配で送るから、あとで住所教えろ」


「うん。それと、そのことなんだけどさ……あ、料理来ちゃった」


「お待たせしました。ミックスフライ定食のお客様は……」


「あ、彼です」


 無愛想を絵に描いたようなウェイトレスが事務的な口調で配膳しに来ると、俺が主張する前に楓がこちらに手を向けた。案内通りに俺の目の前に置かれたプレートの上で、狐色の衣を纏ったフライたちが香ばしい匂いを漂わせていた。


「こちら、照り焼きチキンプレートです。にんにく抜きでお野菜多め、和風おろしソースでお間違いないですか?」


「すみません、七味も頼んだんですけど持ってきてもらってもいいですか?」


「大変失礼いたしました。後ほどお持ちいたします」


「よろしくお願いします」


「はい。鉄板お熱くなっておりますのでお気を付けください。ごゆっくりどうぞ」


「ありがとうございます。わ、美味しそう」


 両手で木台を受け取りながら、愛想良く店員に頭を下げる楓。

 礼儀作法にはうるさい性格なだけあって、その仕種が自然体で嫌味がない。


「私のこと待ってなくていいから、先に食べな。これ、冷めるの時間かかるし」


「……ん」


 視線に気付いたのか、店員が去ってから楓は俺にそう促した。

 俺は警戒を緩めない。

 まだこの女が、何を目的としてここに呼び出したのかわかったものではない。


「食べながら話そっか」


 黙って首肯する。

 まもなく楓が頼んだ七味が到着したところで、俺たちは同時に手を合わせた。


「……いただきます」


「いただきます」


「私ね、紅陵(こうりょう)じゃなくて清祥第三に入ることになったから」


「──は?」


 出鼻から衝撃的な事実を暴露され、思わず箸を持つ手が止まった。

 楓が、同じ高校で、同級生になる……だと?


「だから、清祥でも、塾に通ってたときみたいによろしくね……って。今日はそれを言いに来

た」

 

「お前──」


「言っておくけど、太田(おおた)さんが目当てじゃないから」


 ジュー……パチッパチッ

 楓の手元の鉄板の上で、小さな油が跳ねている。

 湯気が上がり、香ばしい肉の焼ける匂いがした。

 触れれば火傷しそうな熱気だった。


「口だけならいくらでも言える」


「……本当よ。紅陵の特待、落ちたの」


「ウソつけよ。A判定だっただろ」


「こんなウソついたって何になるのよ。証拠の通知だってあるし」


「…………」


「全部私の実力不足。A判定で油断もあったのかもしれない……おかげで、ママにがっかりされちゃった。きっと、パパにも」


 楓は視線を手元に落としたまま、独り言のように呟く。


「それに……太田さんのことだって、別に、付き合えるなんて思ってないし」


 ガチャ、ガチャ、と楓の手元のナイフが何度も鶏肉の上を往復している。

 不器用だった。

 力加減も、ナイフの使い方も。

 所作は丁寧なのに、一向に肉が切れる気配は見えない。


「私、他に清祥行く友達……っていうかもう、友達自体いないし、衣彦だっていきなり私と清祥で会ったらビックリするでしょ? このことは前もって、ちゃんと話しておかなきゃって思って……って、熱っつ」


 ようやく切れた肉の一切れを口に運ぼうとしたが、咄嗟に口から離す。苦労して切ったかと思えば、今度はまだ熱くて食べられなかったようだ。

 その間、俺はもう、半分近く食べ終わっていた。


「美味しいけど……久しぶりに来たら味変わったかも」


 ようやく一口目にありつけた楓がぽつりと呟く。


「前に食べた期間限定のやつ、美味しかったな」


「…………」


 楓は、一口ずつ小さく切り分けたチキンを、少しずつ口に運んだ。

 俺はそんな楓を見ながら、昔のことを思い出す。

 楓が言っている期間限定のメニュー。

 塾の帰り、二人で近くの系列店で食べたその味を、今も憶えている。

 当時、俺は楓のために、初めてアルバイトをしていた。

 毎日の新聞配達に、日雇いの土建仕事。風邪を引いていたことを隠してバイトに行ったこともあった。

 産まれて初めて自分の力で稼いだ給料で少し良い店で食事して、欲しがっていたブランド品のマキシマイザーをプレゼントした。そのときの喜んでいた表情は今でも覚えている。


 掛け持ちのバイトもした。楓が行きたいと行っていた場所に行くために。

 先輩のバイトリーダーにミスをなすりつけられ、偉そうに文句を言うクレーマーに頭を下げることも、楓のためと思えば堪えられた。

 すべては楓のためだ。

 楓の喜ぶ顔が見たかったからだ。

 なのにこいつは、ただの何回か話したことしかない俺の幼馴染みに、あっさり心代わりをした。


 俺たちは黙々と食べ続ける。

 カチャ、カチャ、と小さな金属音がしばらく続き、やがて楓の手が止まった。


「これでも、衣彦には、感謝してるよ。クラスでひとりぼっちになったときも、バレエの先生とケンカしたときも、衣彦がいてくれたから立ち直れた」


 ぽつぽつと、楓が語り出す。


「また、バレエ習い始めたの。今度は、別の教室で。それも……衣彦があのとき、支えてくれたおかげだって、今になって気付いた」


 耳を塞ぎたくなるような安い世辞が紡ぎ出され、心臓の動悸が激しくなる。


「だから、私はただ、衣彦と仲直りがしたいだけなの。そのことは……少しは、信じて欲しい」


 ……信じろだと? 

 一体どのツラ下げて言ってるんだ。

そう言いかけた瞬間、思い浮かんだのは、信じていた人に裏切られ、途方に暮れていた昼間の少女の顔だった。


「何で……」


 最後に会った日のことを、もう一度思い出す

 あの日、こいつはごめんねと繰り返し泣くばかりで、最後まで俺を責めなかった。

 そのとき俺は、動揺して、頭が真っ白になって、肝心なことを何一つ聞けないまま、そのことに気付かなかった。 

 ……聞かなければならない。

 あのとき聞けなかったことを、今。

 本当にそれだけだったのか。

 他に、何もなかったのか。

 もし、それを知ることができたら、もしかしたら。

 もう一度こいつと──

 

「楓は、何で」


 バンッ‼

 

 突如、けたたましい衝撃音がした。

 誰かが、テーブルに手を叩きつけたからだ。

 楓は俺と同じく、突然の出来事に目を見開いて呆然としている。

 何者の仕業かと思い顔を上げると、そこには思わぬ人物がいた。


「さっきから黙って聞いてればあなたね、自分のこと棚に上げて、どうしてそんな図々しいお願いできるの⁉」 


「ウル……⁉」


『どうして』はこっちのセリフだった。

どうして潤花が、ここにいるんだ。


「あなた、衣彦の友達が好きで衣彦のこと振ったんでしょ⁉ そのこと、さっきから一言でも衣彦に謝った⁉ それでもあなたに会いに来た衣彦の気持ち考えた⁉ そうやって人の優しさに甘えて、自分に都合の良いことばっかり押し付けて──『信じて』なんて言葉を、そんなに軽々しく言わないで‼」 


 楓は呆気に取られた表情で、潤花の剣幕に圧倒されていた。

 それもそのはず、恨まれることを覚悟で俺に会いに来たら、突然現れた謎の女にいきなり怒鳴り付けられているのだ。

 だが、それは俺も同じ。

 状況の整理が追いついていない中、俺はただ呆けた表情でそんな潤花を見つめ──


「衣彦が笑わないの、全部あなたのせいなんだから‼」


 不覚にも、その横顔が美しいとさえ、思えてしまった。


「あ、あなた……衣彦の……友達?」


「私は、衣彦と同じ伊藤下宿の下宿生! それから──」


「っ⁉」


 何を思ったのか、潤花はおもむろに俺の顔を両手で包み込み、無理やり自分の顔の真正面に向き合わせた。

 おい。

 まさか。

 嘘だろ。

 そう戦慄した瞬間には、


「っ──‼」

 

 すでに潤花の顔が目の前にあった。


「衣彦の新しい彼女!」


 声が出ない。

 時が止まったように、全身が硬直していた。

 実際には、キスのフリだった。

 唇の間に、潤花の親指が差し込まれていたのだ。

 でも、だからって……いきなりこんなことをされて、正気でいられるわけがなかった。


「だからもう、衣彦に構わないで! 行こ! 衣彦!」


 まるでスローモーションのように鈍く混濁した時間感覚に囚われていると、ふいに潤花に力強く腕を引っ張られて正気が戻る。

 無理やり引っ張られるような形で立ち上がった俺は、会計をしようと鞄から財布をそうとするが、すでにテーブルの上には潤花が叩きつけた五千円札が置いてあった。抜け目がない。

 いや、それよりも──


「──それと、さっきはありがと! おつりいらないから! じゃあね!」


 潤花はそう言い残して俺にぎゅっと腕を絡ませ、そのまま速足で先導しながら店を出た。

 店の外に出た俺たちは、迷いなく下宿への帰り道の方向へと歩き出した。

そこで俺もわずかに正気を取り戻す。


「何してんの⁉ なぁ⁉」


「ふっふふ……あはははははっ!」


 潤花は、堰(せき)を切ったように笑い出した。

 さっきまで人目はばからず怒鳴り声を上げていた人物とは思えない。

 晴れた日の空のように、明るく澄んだ笑顔だった。

 俺としてはたまったものではない。

 人がこんなに動揺してるのに、何笑ってんだこいつは。


「ってかお前、何でここにいるんだよ!」


「さっき衣彦とお姉ちゃんが話してたの、聞こえてたの! それで──気になってついてきちゃった!」


「『ついてきちゃった』ってレベルじゃねーぞ! ストーカーかよ‼」


「そうだよ! ごめんね!」


 悪びれた様子もなく、潤花は言った。


「私のことは嫌いになってもいいから! でも──」


 俺が何かをしようとするたび、いつも望みとは逆の結果になる。 

 今回もまた──


「あの子のことはもう、好きになっちゃダメだからねーーーっ‼」


 この女が、俺の妥協を許してくれなかった。



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