第2話 始動、ハニカム計画⑩


 その後、少女が優希先輩の指示通りの段取りを終えるのを見届けてから、俺たちは別れた。

 去り際に、先輩は少女を温かい言葉で励ましながらも、交通機関で乗り降りをする際は逐一連絡すること、証拠として交通費の領収書等の写真を撮ってこちらに送るなどの指示を伝え、最後まで抜かりのない監視を務めていた。


「貸した金、戻ってこなかったらどうします?」


「それはもう授業料ってことにして、割り切るしかないかな。貸したものが返ってこなかったのも、今まで何度かあったし」


 目抜き通りから少し離れた小道で一息つきながら、俺たちは先ほどの話を振り返っていた。

 あっけらかんとしている先輩に、小早川とみずほ姉ちゃんは驚いていた。


「『返って来ないかも』って思いながら、貸してあげたの……?」


 俺たちと少女のやり取りを遠くから見守っていた小早川は、さきほどようやく詳細を聞いて驚いていた。

 この件について小早川に見解を求めてみたところ、助けてあげたい気持ち以上に他人への恐怖が大きく、断ってしまうと答えていた。その答えに誰も反論はしなかった。それが普通の反応というのが全員の共通認識だったからだろう。


「曲がりなりにも、私たちが生きてる社会は性善説に基づいて成り立ってるからね。さっきみたいな状況になったとき、誰かがあの子を助けてあげないと、社会から孤立させることになる。そうなったら、あの子が自分自身の善性を間引くことになるかもしれない」


「……? えっと……」


「つまり、『情けは人のためならず』ってことだよ! こういう親切を積み重ねていけば、いつか自分たちのところに親切が返ってきやすい世の中になるかもしれないでしょ?」


 瞳を輝かせながら力強く拳を握る優希先輩に、小早川は感心したように拍手していた。

 俺は冷ややかな気分でそれを見つめる。

 どこかで聞いたことがある話だったが、あまりにも楽観的で同意できない。

 世の中にはいわれのない不利益を被(こうむ)る聖人もいれば、恩を仇で返しておきながら何の報いも受けない悪人もいる。先輩の言っていることはやはり、綺麗事だった。


「そっか。私もみんなのために、次はちゃんと助けてあげるようにならなきゃ……」


「あー、いいのいいの! これはあくまで私の考えで、真由ちゃんは真由ちゃんなりの考えで行動しなきゃ自分のためにならないよ! ね! 古賀くん!」


「何で俺に振るんですか……」


「だって、一番最初にお金貸そうとしてたの古賀くんだし。古賀くんの意見を聞いておかないと」


「うっ……」 


 痛いところを突かれた。

 この人の考えには絶対に同調したくない。

 だが、いざ動機を問われると返答に困った。

 俺は断じて偽善的な理由であんなことをしたわけじゃない……それをどう誤解せずこいつらに理解させるか。頭をフル回転させながら、必死に説明を考える。


「あいにく俺は先輩みたいに高尚な思想は持ち合わせてないんで、世間のことはどうだっていいです。それでも金を貸したのは、もしあの子が本当に財布を落としてたらって考たら、自分が後味悪くなるからってだけですよ」


「あくまで、自分が嫌な思いをしたくないから?」


「ですね。見ず知らずの他人なんて信用に値すると思ってませんし、最悪トンズラされても仕方ない覚悟ってところまでは先輩と共通してますけど、根本的な動機は自分が嫌な思いをするかしないかっていうだけです」


 咄嗟に考えたにしてはもっともらしい説明ができたと思う。

 これで俺という人間が考えなしに人を助けたがる無鉄砲な性格だと思われることはないはず。


「ふーん?」


 ──という期待を裏切るような含み笑いだった。


「……なんすかその顔」


「古賀くんは現実的だな~と思ってさ」


 絶対そんな風に思ってないだろ。

 先輩はいやらしい半眼で俺を見つめながら猫のように口角を上げていた。

 腹立たしいことこの上ないが、ツラが良すぎるせいで苛立ちよりも可愛さが勝っている。


「現実的って言うなら小早川の意見の方が現実的じゃないですか」


「そうなのかな。私はただ、怖がりなだけだから……」


「それが普通だよ。なぁ、みずほちゃん」


「え……」


 さっきから浮かない顔のみずほ姉ちゃんに話を振ると、はっとしたように顔を上げた。

 何か思うところがあったのか、みずほ姉ちゃんは少女と別れてから何かを考え込んでいたようで、口数が少なくなっていた。


「私はただ、衣彦にこれ以上悪いこと起きなければいいと思っただけだったから……」


「そんな理由?」


 意外と拍子抜けな理由だった。御仏の如く人の良いみずほ姉ちゃんのことだから、てっきり純度百パーセント奉仕の精神かと思っていた。


「そんな理由って……衣彦、自分のことだよ?」


「俺が損するだけなら誰の迷惑にもならなくて良いだろ。むしろ俺のせいで先輩やみずほ姉ちゃんを巻き込んだことの方が失敗だと思ってるんだけど」


「私は巻き込まれたなんて思ってないよ。それより、衣彦の方が心配だよ。これ以上、衣彦が変な事件に巻き込まれるのは嫌だもん」


「そんなに心配する必要ないから大丈夫だって。上手くやれるさ」


「でも……」


「そういや小早川。さっきから気になってたんだけど、それ結局何買ったんだ?」


「え、えっと……このTシャツなんだけど……書いてることにビックリして、買っちゃった」


「ふーん、『サケは白身』……サケは白身⁉ 嘘だろ⁉」


「あーそれね。ほんとだよ。サケって餌のプランクトンの色素が赤いから身が赤くなってるの」


「そうなんですか⁉ じゃあ、黄色いプランクトン食わせたらやがて黄身になる……ってことですか……⁉」


「きみ、想像力豊かだね」


「ふっ……き、きみって……あはは……っ!」


「…………」


 先輩と小早川とで無駄に盛り上がっている中、みずほ姉ちゃんは相変わらず浮かない顔をしていた。まだ納得がいっていない様子だ。さっきまでは最悪金の持ち逃げをされても仕方ないと考えていたが、これはみずほ姉ちゃんを安心させるためにきっちり金を返してもらう必要が出てきた。あとで先輩から改めて個人情報のメモをもらって、俺からも支払いの催促をしよう。

 そんな算段をしながら、俺は三人と潤花が並んでいる行列の方へと戻っていた。


「ごめんねみずほちゃん。退屈じゃなかった?」


「ううん、いろんな雑貨あったから見てて楽しかったよ。いつも近くの商店街ばっかり行くから、久しぶりにこういう目的のない買い物した気がする」


「商店街、私も気になるお店いっぱいあるな……良いよね、雰囲気」


「ほんと? それなら今度真由も一緒に買い物しに行こ? 商店街の人たちみんな知り合いだから、いろんなお店案内できるよ」


「いいの? 行きたいな……」


 俺と優希先輩が横並びに歩く後ろで、小早川がみずほ姉ちゃんに話しかけていた。今まで聞き手に回っていることが多かった小早川が自分から話題を振るのは意外だった。

 優希先輩は通り沿いにある店をきょろきょろと眺めながら歩いていて、やがて俺達が潤花と別れた場所に辿り着くと、額に手を当てて潤花の姿を探していた。


「潤花どこかなー。一時間近く経ってるから、そろそろ順番近くなってそうだけど」


「結構な列だったから、まだ真ん中くらいじゃないですかね?」


「だとしたらすぐ見つかるね。うちの妹、スーパー美人さんだから輝いて見えるもん」


「妹さん、発光ダイオードか何かですか?」


 などと取り留めのない会話をしているうちに、先輩が「お」という声を上げた。


「いたいた。ほらあそこ。結構進んでるね」


「ん? ……なんか、話しかけられてません? 誰ですかあれ」


「多分……ナンパの人かな」


「は⁉ ナンパ⁉」


 自分でもビックリするほどの声が出たことに内心驚きつつ、先輩が指さす方向を注意深く見る。

 すると、スマホの画面を見つめたまま無表情の潤花と、その横にオーバーサイズのパーカーにスキニーパンツを履いた男がいた。

 男は潤花にへらへらと笑いながら話しかけているようだが、潤花は目も合わせずにぽつぽつと返事をしているようだった。

 周りに並んでいる人たちも迷惑そうに顔をしかめ、二人のやり取りをうかがっている。


「……俺、行ってくるから、みんなここで待ってて」


「そんなの、みんなで行こうよ」


「いや、みんなで行ったら悪目立ちする。この人混みで変に注目されたら、周りの人が小早川に気付いたら厄介だろ」


「それは……そうだけど」


「大丈夫だって。ささっと追い払うから」


「衣彦……」


 なおも不安げなみずほ姉ちゃんに、俺は黙ってピースをしてその場を離れた。

 そうして人込みをかき分け、足早に潤花と男の元へと近付いた俺は、いまだに潤花に話しかけている男の話を遮るように声をかけた。


「俺のツレになんか用ですか?」


「はぁ? 誰?」


「おそーい、待ちくたびれたぁ」


 無表情から一転、俺の顔を見て潤花が意地悪そうに笑った。

 どうやら、この状況で俺がどう対処するのか楽しんでいるようだ。

 一瞬でも心配した俺がバカだった。相変わらず癪な女だ。


「何お前。この子の彼氏なん?」


「……だったら何だ」


「ぶっ! はははははっ! あーっはっはっは!」


 男は唐突に笑い出した。

 何が面白いのか、前後で並んでいる人たちを含めて俺たちが怪訝な表情を浮かべる中、男は一人で寒々しい笑い声を上げていた。


「見え見えのウソつくのやめろよ! 冗談は顔だけにしろっつーの!」


 男は俺を指さして嘲笑した。


「クソも釣り合い取れてねーじゃん! 隣に並んだって違和感しかねーよ!」


「っ──!」


 すぐ隣で、息を吸う音が聞こえた。

 背筋がぞっと冷えるような殺気に、緊張が走る。


「ウル!」


 咄嗟に伸ばした腕が潤花の動きを遮(さえぎ)らなかったら、男は無事で済まなかっただろう。

 危うく身体ごと引きずられそうな勢いに堪えながら、肩を抱くような体勢で潤花を止めた。


「あんた、他人のために命賭けたことある⁉ この人はあるよ⁉」


 潤花は噛みつかんばかりに男に叫ぶ。


「見た目でしか判断できない、周りも見れないバカなあんたより、衣彦の方が何億倍もかっこいいから! バカのくせに私の好きな人見下さないで! バカが感染(うつ)る!」


「あぁ⁉」


「『消えろ』って言わなきゃ意味わからない⁉ 頭も悪ければ察しも悪いんだね!」


 公衆の面前でこてんぱんに罵倒された男が、顔を真っ赤にしながら一歩詰め寄ってきた。

 潤花はそれに応じる形で顔を突き出し、拳を握り込んだ。

 まずい。

 こいつ、やる気だ。

 殺気に気付いた俺は、潤花の肩を抱きながら瞬時に軸足を回転させ、勢い良く右足を蹴り上げた。


「っ──⁉」


「それ以上、こいつに近寄んな」


 男の喉元にピタリと足刀を突きつけて警告する。

 久しぶりの上段蹴りであまり足が上がらず、フォームはイマイチだった。

 しかし、それでも昔取った杵柄、俺のへなちょこな上段蹴りは素人相手にはそれなりの脅威として見えたようで、男は多少怯んだ様子でそれ以上踏み込んでは来なかった。


「私の喧嘩なのに」


 相手の動きが止まったことを確認してからゆっくり足を下ろすと、潤花が不満そうに言った。

 

「いいから高嶺の花らしくしてろ」


「た、高嶺って……」

 

 俺はなお何か言いたげな潤花を無視して、男と睨み合う。

 

「悪いけど他当たって。あんたにこいつの相手は無理だから」


 気持ちとしては戦闘力的な意味で言ったのだが、それと気付いてはいないだろう。

 どの道相手は公衆の面前で潤花に恥をかかされ、俺ごときの蹴りにビビるような醜態を晒(さら)している。ここにいては立つ瀬がないはずだ。こちらが相手に退却する言い訳を用意しなければ、こいつだって落としどころを見失ってしまう。


「チッ……んだよ、偉そうに」

 

 男は悪態を吐きながら、白けた様子で敵意を解いていた。

 これで良い。

 あとは筋書き通り、男がさっさとこの場からいなくなってさえくれれば御の字だ。


「はぁ? 謝りもしないで逃げる気?」

 

「⁉ ばっ……!」


 安堵したのも束の間、男が踵(きびす)を返した途端に潤花がドスの効いた声で言い放った。

 

「いや、何お前、めんどくせえよ」


「ウル、もういい。相手にすんな」


「だってこいつ、衣彦のことバカにした!」


「いいって! 言わせとけ!」


 こいつは一体どうしてそんなことでご立腹なんだ。

 つい先日の一件と同じだ。

 潤花はいまだに殺気立っており、ともすれば謝罪の有無に関わらず殴りかかるんじゃないかと冷や冷やする。

 潤花の剣幕を見て、周囲にも緊張が走っている。

 列に並んでいる集団はスマホを片手に俺たちの動向を窺っている様子だ。

 もう一度警察沙汰はまずい。

 最悪、力ずくで潤花をこここから引き離すしか──


「潤花‼」


 その時、周囲の喧噪を突き破る甲高い声が空に響いた。


「っ! お姉ちゃ──」


「言ったよね⁉ ケンカしちゃダメって!」


「違っ……これは、違うよ……!」


 先輩の思わぬ一喝に対し、潤花がビクッと体を硬直させた。

 端から見れば、虎がハムスターに怯えているようにしか見えない。

 ところが、潤花にはそれが睨みをきかせている大の男よりもよっぽど脅威に見えるようで、姉の怒声に気圧されて意気消沈した潤花は、目を泳がせながらおろおろと狼狽した様子だった。

 一方で、辺りは今になって騒ぎが広がり始めた。

 がやがやと話声が大きくなってきたギャラリーたちの視線が俺たちに集中し、動画でも撮るつもりなのかスマホを向けてくるやつもいる。おかげで騒ぎの収束はより難航を極めた。

 こうなったら強引にでも潤花をここから離脱させるしかないが、果たして俺にそんなハードルの高いことができるかどうか……と、判断に迷っていると、まさかのタイミングで意外な伏兵が現れた。


「みんなー!」


 小早川だった。

 小早川は公衆の面前でマスクを剥がし、その可愛らしい素顔をさらけ出していた。


「なっ、こば……!」


 何をしてるんだ。

 ここに小早川真由という存在を認知しているのは俺たちしかいない。つまり、この場にいる大勢の人間から見た小早川は、瓜二つの妹である人気絶頂のアイドル・小早川実由に他ならない。

 当然、小早川がそう誤解されることを自覚していないわけがない。

 一瞬の間を経て、周囲のギャラリーたちが小早川の顔を見て一斉にまさかという表情を浮かべ、それぞれが顔を見合わせている。

 同時に、小早川は意を決したように息を吸った。


「ケンカは、バッテン!」


 頭上で両手を大きく交差させ、小早川が叫んだ。

恥ずかしさに堪えきれないといった様子で瞳をぎゅっと閉じながら、顔は耳まで赤く染まっていた。

 それは、妹の実由がカップラーメンのCMで踊っていたときの振付けだった。

 しん、とあたりが一瞬静まり返る。

 直後、


『こばゆだーーーー‼』


 黄色い悲鳴が上がった。

 

「マジ⁉ 本物⁉」「いや、だって見てよ! ほら!」「やばいやばい! スマホの電源ない! ねぇ! 誰か撮って! 撮ったやつちょうだい!」「ねぇ! 私の推しが! 生きて! 動いてる‼」「え! すご! 本物めっちゃかわいいんだけど!」


 初子(ういご)の運動会だってこんなに盛り上がらないだろう。

 辺りは一瞬でパニックに陥った。キッチンカーに並んでいたほとんどの客はスマホを構え、小早川を写真に収めようとしている。

 ナンパ男も潤花も、突然の小早川の登場に面を喰らって殺伐とした空気が一気に消え失せていた。

 ──チャンスだ。

 俺はすぐさま潤花と小早川の手を握り、少し離れた場所にいたみずほ姉ちゃんに向かって叫ぶ。


「みんな! 帰るぞ! 今日はもうダメだ‼」


「あ! ちょっとまだ……!」


「これ以上小早川に恥かかす気か⁉ 行くぞ!」


「っ~……!」


 潤花の返事を待たず、二人の手を引いて駅の方に向かって駆け出す。

 前方では先輩が先陣を切って人込みをかき分けていた。


「すいませーん! 通りまーーす‼ ごめんなさーい! 通してくださーーーい‼」


 後ろを振り返ることなく、甲高い声を上げながら徐々にスピードを上げていく先輩。 

 その横で並走するみずほ姉ちゃんは走りながら俺たちの方を振り返り、心配そうな表情をしていた。


「衣彦! いいの⁉」


「しゃーないから! また今度!」


 なるべくネガティブな声色にならないよう、軽い口調で叫び返す。

 その流れでチラリと後方を確認してみたが、幸い俺たちを追いかけてくるやつはいなかった。

 ただ、潤花と小早川は何とも言えないような、複雑な表情だった。

二人に握り返された手が熱い。

 力いっぱい握られているわけではない。

 おそらく気のせいだと思う。

 それでも今の俺には、ジンジンと火傷しそうなほどの、熱を感じた。

 

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